9話:金属音
真っ暗闇のトンネルに声が反響する。
「だああ眠い。明日サテライトの日だよね?日曜だってのに学校かー。絶対遅刻だよー」
サテライトとは有名な予備校の授業を大画面に映し勉強する、特進限定の日曜授業(高2は1ヶ月に一回)を指すサテライト授業の略である。
1講1時間半を2科目、9時から休み時間を含む12時30まで予備校風授業を体験する。
科目選択は個人の自由で教師も特に指導をしない自由度の高いものだが、遅刻はしっかりとカウントされる。
日曜日なのに。救いは午前中で解散となることである。
そんなブツブツと愚痴る声と同時に、足音も二つ、カツンカツンとトンネルに響いている。
重い足取りの男子高校生が二人、少し変わった帰路についているところであった。
時刻は夜11時30分、バイト帰りである。
バイト先から彼らの住む屋敷までは徒歩10分ほど。10時あがりだったのだが気付けばこんな時間になっていた。
スタッフブースで1時間、30歳半ばのチーフから人生観のレクチャーを受けていたからである。
数々の名言が飛び出す彼の魂のレクチャーは、感動に呑まれ時間を忘れさせるのだ。
「寝坊?そしたらお前ついに特進からサヨナラか。他のクラスの奴らに友達100人でっきるっかな」
「うああ、無理だー。人見知り発動で一人寂しくトイレで弁当食ってる俺が見える。もはやそれが嫌で特進に残りたいのだと言っても過言ではない」
「何が人見知りだよ。どうせ再来年には大学生。イチから友達作り直しだろうが」
「でも実際嫌っしょ?今さら他のクラス行ったって、グループ出来ちゃってるし入りづらいじゃん」
「まあ、浮くのは勘弁だな。でもまあ意地でも特進抜けたくない何よりの理由は、奨学金だな」
「ですよねー。特進奨学金無いと生きていけないからね。でも寝坊遅刻一回で特進追放ってマジなのかな」
「マジだろ。生徒手帳に書いてあんだし」
「うわ。委員長っぽいこと言ってる。怖いんですけど」
大貧乏である彼らは高校の奨学金制度に頼りきりであった。
高偏差値大学の附属高校として有名だが、やはり金持ち学校なのだろうか。奨学金制度は大丈夫なのかと心配するくらい整っていた。
特進奨学生として返却不要の奨学金をたんまりと戴いているのだ。
面接で認められた特進クラスの中でも品行方正、成績優秀の者が対象のため、彼らはそれなりの努力をしていた。
「はあ……金降ってこねえかな」
「ホントだよ。そしたらこんな暗い家ともお前ともおさらばなのに」
普段は会話もなく足取りも合わせず帰宅するのだが、熱血レクチャーの余韻で脳の動きが活発なようで、珍しく話しながらの帰宅となった。
だがしかし眠気と疲れのたまったバイト帰りのこの時間の会話は、内心が出たものであったりネガティブになりがちである。
タイプは違うにしろ楽観的でありたい彼らにとって落ち込みやすい、一番気を付けなければいけない時間帯だ。
「昨日の大宮が羨ましいわ。一瞬でも女の子にちやほやされて。大宮先輩っ、とか呼び出されちゃって。俺を出迎えてくれんのはこんなホラーハウスだけなのに」
トンネルを抜けて見えた屋敷はやはりおどろおどろしい。
2人は、ハアとため息を吐いて屋敷を見上げるが、あんな噂が立っても出て行く気は欠片もないようだ。
幽霊がとり憑いていてもおかしくない様子の外観だが、悪寒も肩凝りもなく平和に住むことが出来るらしい。
「よっこいせ」
防犯は外観に任せっきりなので鍵などはかかっていない。
そもそも外側から、鍵を開閉する道具が無いため外出してもロック不可能なのだ。
お土産でキーホルダーをもらった時、鍵を持たない彼らは本当の意味で使う日が来るのを夢見たものだ。
一応ドア自体に鍵設備は付いているので、内側からは閉められるのだが。ただしカンヌキというレトロな形式である。
そんなこんなで玄関のドアは力を入れればギイィと軋みながら簡単に開いた。
バタン
ホラー映画であれば勝手に閉まった入り口がなぜか開かなくなる場面である。
廊下の手前、らせん状に地下と2階へのびた階段からは今にもごろごろとゾンビが降ってきそうだ。
もちろんそんな心配はせずに、明かり一つ点いていない、音が反響するほどだだっ広い玄関ホールを慣れた足取りで歩く。
ホールの先に伸びる廊下も相変わらず、窓から入るぼんやりとした月明かりが所どころ照らすだけで不気味に暗い。
「……」
突然、ピタと月島が立ち止まった。
「あ?」
遅れて歩いていた萩原もつられて止まり、怪訝そうな声を上げる。
「今、何か聞こえなかった?」
「はあ?」
先の見えない廊下を凝視し、固まる月島の視線を追って萩原もそちらを見る。
「おいおい。幻聴とかお前、耳鼻科の世話になる金どっから出す気だよ。俺貸さねえぞ」
ぶつぶつと何やら言う萩原だが、どこか気にしているのだろう。小声かつ廊下から視線を離さない。
それでも耳障りに感じた月島が静かにしろ、と反発しようと思ったときだった。
カラ……カラ……
「「!!!」」
今度ははっきりと二人の耳に音が届く。
何か硬い、金属のようなものが石床をこする音。
カラ……カラ……
音はだんだんとこちらに近づいてきている。
床に釘付けにされたように動けず、ただ二人は瞳孔を全開にして廊下の先を見ていた。
「「っ?!」」
二人の顔が恐怖で凍りつく。
息を呑んだ彼らの視界に入ってきたのはあまりに信じがたい光景だった。
窓から入る月明かりのなか、居るはずのない人影が映ったのだ。
居てはおかしい、ありえない人影。
カラカラという音と同時に、こちらのほうへゆっくりと歩みを進める。
左半身が僅かに照らされただけで顔すら確認できなかったが、彼らにとって充分すぎる情報を与えた。
長い髪。
くすんだ金色の波打つ、長い髪。
──夜中にオペラ歌ってる髪の長い女の霊が出るんだとさ。
忘れかけていた谷の言葉がよみがえる。
月明かりの中を通り過ぎ、再び人影は暗闇に消える。
音はもう間近で、あと一つ窓を越せば廊下の終わり、すなわち二人の居る玄関ホールであった。
カラ……カラ……
迫る恐怖に彼らは限界だった。
「「うわあああああっ!!」」
どちらが先ともつかず、情けない悲鳴を上げる。
悲鳴を上げたことで全神経が回復したのか、もつれる足で玄関のドアへと逃げ出した。
「キィアアアアアアアッ!!」
背後から女の甲高い奇声が上がる。
その声にはじけるように背後を振り返った月島の目に映ったのは、暗闇のなか狂ったような足取りで走る影だった。
ブン、ブンと音を立てて空を切る音がそちらから聞こえる。
今まで引き摺っていたであろう凶器と思しきものを、こちらへ向けて何度も振りかぶっていた。
「っ!!」
ザッと全身に悪寒が広がり、現実から逃れるように視線を外して前を向く。
焦る頭に反してもつれる足がもどかしく、まだ少し距離のある玄関のドアノブに向かって跳び付いた。
しがみついたドアノブを全体重かけて捻る。
ガチッ
「なっ!?開け!なんで!?」
追い詰められた表情で何度もドアノブを捻り押す。
だがどんなに体重をかけ寄りかかっても、頑なに動く気配がない。
混乱した頭で月島はドンドンと目の前の壁を叩いた。
少し出遅れた萩原はそんな月島の様子に絶望を感じつつ、それでもドアへ近づいていた。
「!!」
ブン、と間近に迫った風を切る音に、萩原の背を寒気が襲う。
無意識の言う、遠くへ前へ逃げろという訴えに従い、背後を振り返らないまま踏み込んで跳躍する。
僅かに舞い、べしゃりと腹を打ち付けながら床へ無様に着地する。ガゴッと顎も床へ打ち、うぐと息の詰まったうめき声を上げる。
だが痛みにかまけている場合ではない。
すぐに腕と足に力を入れて体を浮かし、バッと体を反回転して中腰になる。警戒心剥き出しの瞳孔の開ききった目で、方向転換した先に居るはずの影を見る。
「逃げろっ!」
萩原の視線の先、まだ壁と化したドアと格闘していた月島に影は標的を変えていた。
「ャアアアアアッ!!」
影が再び奇声を上げる。
ハッと月島は視線を背後に向ける。凶器を振りかぶる影が視界いっぱいに映り、頭がパチンとショートしたように真っ白になる。
足がすくみ、動かない。咄嗟に顔をそらしぐっと目を閉じ歯を食いしばる。
ひゅっと耳に風を切る音が届いたと思った瞬間、凶器は右肩を捕らえてガツリと打っていた。
「いっ……つうッ!!」
ジュウッという焼けるような音と痛みに襲われて崩れ落ちる。
じわりと出た涙で霞むなか肩を見れば、患部から服越しに僅かに煙が上がっていた。
「ッ?!」
「おい!逃げろ!」
壮絶な悲鳴に驚きフリーズしていた萩原だが、月島のまだ動ける様子を見て叫ぶ。
鈍い動きながらさらにこちらへ振りかぶろうとする影を目前にして、床に倒れこんでいた月島は四つんばいになり必死にその場を抜け出す。
ブン、と振り下ろされた凶器が石床をうがつ音が背後から聞こえた。
玄関は諦めて、萩原の逃げだした廊下方面へと意識を向ける。
バッと立ち上がるとそちらへ走り出した。
「ね、熱でんどう!」
ずきずきと痛む肩を押さえ、もつれながらも幾らか動くようになった足で走りながら月島が突然言った。
「……?」
当然萩原は理解できず顔を向けるが怪訝な様子である。
「金属の熱伝導!危険だ!」
焦った様子で叫ぶように月島が言う。
危険なのはそれ以前の問題だが、混乱した頭では熱さを感じたという衝撃が大きかったのだろう。
それをどうにかして伝えようとしている。
「あいつの武器武器!」
なおも真剣な眼差しでよくわからないことを伝えようとする月島を見て、実は彼以上に混乱していた萩原が若干だが冷静になる。
「武器?武器か!」
何やら納得した様子で萩原が一つうなずいた。
やはりあまり冷静とはいえないようだ。
おもむろにキュッと立ち止まると履いていたローファーを手に取り振り返る。
そこにはやはり狂ったように追いかけてくる影があった。
「消えろ……消えろ……」
女の掠れた低い声でそう言い続けているのにも躊躇せず、萩原は片靴のままタタタッと小走りで近づく。
そして手に持ったローファーを大きく振りかぶると、シュッと勢いよく影へと投げた。
幽霊だと頭のどこかで信じていたものに、当たると思ったのだろうか。
学年トップの成績を誇る彼も、今の状況では脳の処理能力がまったく使い物にならなかった。
かくして彼のローファーは――
見事、影に命中したのであった。
「ゃあっ!!」
奇声を上げ思わず動きを止めた影が頭を抑える。
すると月島がはじかれたように走り出し、影の顔面部に全力のストレートをお見舞いした。
本来なら体をすり抜けるところであろう。
だがこれも、バシィ!と小気味よい音を立てて命中した。
「くぁっ!」
カランッ
吹き飛び尻餅をつく影の、握り締めたままの凶器が石床に当たり大きな音を立てる。
必死の形相の月島がさらに追い討ちをかけようと瞬時に駆け寄る。
「ャアアアアア!!」
抵抗した影が倒れてなお手放さなかった凶器をブン、と一閃する。
「うがっ!!」
ジュッと音を立てて膝下から煙が上がる。燃えるような痛みに月島が足を庇ってうずくまる。
無防備な背中が影の前にさらされる。
しかし影は焦ったように立ち上がり月島に背を向けると、一目散に玄関へと走り出した。
逃げたと言っていい様子であった。それほどまでにその背中は必死に走っていた。
月島に遅れて攻撃態勢に入っていた萩原が、いきなりの敵の撤退に呆気にとられる。
「なっ」
呆然と立ち尽くす間に影は玄関へたどり着き、ドアを引き開けて外へと出て行った。
痛みが引いたのか、背中を丸めてうずくまっていた月島も顔を上げて閉まるドアを見つめる。
「え?」
バタンとドアが閉まると何事もなかったようにしん、と屋敷が静まり返る。
しばらくポカンとした様子で二人は薄暗い廊下で固まっていた。