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帰り道

作者: AVAR
掲載日:2026/11/07

美咲は、自分の人生がどこかで止まってしまったような気がしていた。


朝、目を覚ます。カーテンの隙間から、見慣れた町の空が見える。窓の外では、決まった時間に決まった車が通り過ぎ、近所の家の犬が吠えている。いつもと同じ音。いつもと同じ景色。


顔を洗い、適当に髪を整え、駅まで歩く。途中にあるコンビニの店員は、いつからか美咲の顔を覚えていた。大学へ行き、講義を受け、友人と昼食を食べ、夕方にはアルバイトへ向かう。帰り道にはスーパーに寄る。安くなった弁当を買う日もあれば、何も買わずに帰る日もあった。


その繰り返しだった。


不満があるわけではない。恵まれていないとも思わない。家族はいるし、友人もいる。生活に困っているわけでもない。


ただ、何かが足りなかった。


何かを始めたいと思うほどの理由もなく、今のままでいいと思えるほどの納得もない。将来について尋ねられるたびに、曖昧な笑顔でやり過ごしてきた。卒業したらどうするのか。どこで働くのか。この町に残るのか。それとも東京へ出るのか。


どれも自分のことなのに、まるで誰かの人生について聞かれているようだった。


東京に行ってみたいと思ったことはある。


けれど、東京で何をしたいのかと聞かれると、答えられなかった。大きな街に行けば何かが変わる気がした。今の自分を知っている人が誰もいない場所なら、もう少しまともに生きられる気もした。


そんなことを考えているうちに、時間だけが過ぎていった。


その日も、特別なことは何もなかった。


大学の講義が終わると、友人の奈々から連絡が来た。


「今日、ライブ行かない?」


「誰の?」


「知らないバンド。友達が出るらしい」


「それ、私が行く意味ある?」


「ないよ。だから行こうよ」


奈々はいつもそうだった。理由がないことをするのが好きで、予定のない休日を嫌っていた。美咲とは正反対の人間だった。


「疲れてるからいいや」


「どうせ帰っても寝るだけでしょ」


その言葉に、返事ができなかった。


実際、その通りだったからだ。


「じゃあ、迎えに行くね」


「行くって言ってない」


「もうチケット取った」


奈々はそう言って、電話を切った。


断る理由を探すのも面倒になって、美咲はスマートフォンを机に伏せた。


夜になっても、気分は晴れなかった。


駅前のロータリーで奈々と合流し、電車に乗る。窓に映る自分の顔は、思っていたより疲れて見えた。奈々は隣で、今日のバイト先で起きた出来事を楽しそうに話している。美咲は相槌を打ちながら、流れていく街の明かりを眺めていた。


ライブハウスは、駅から少し離れた雑居ビルの地下にあった。


階段を下りると、湿った空気と、壁の向こうから漏れてくる低音が身体にまとわりついた。受付でチケットを渡し、狭いフロアへ入る。天井は低く、床には黒いテープの跡がいくつも残っていた。壁際には、誰のものかわからないギターケースが置かれている。


客はそれほど多くなかった。


美咲は奈々の隣に立ち、ステージを眺めた。


やがて、四人組のバンドが出てきた。


最初に目についたのは、ボーカルの男だった。


少し長い髪は寝癖のように跳ねていて、黒いシャツの袖は片方だけ捲られていた。顔立ちは整っているとは言い難く、ステージに立つ人間にしては華がない。むしろ、駅前の居酒屋で見かけても気に留めないような男だった。


三浦透という名前らしい。


ギターを肩に掛け、マイクの高さを調整している。スタッフに何かを言われると、面倒くさそうに笑った。


ドラムのカウントが始まった。


最初の曲は、正直なところ、あまり上手ではなかった。


ギターの音は少し濁っていて、ボーカルの声はところどころ裏返った。音程も不安定だったし、演奏に余裕があるようには見えない。奈々が隣で身体を揺らしているのを見て、美咲は少し申し訳ない気持ちになった。


付き合いで来たとはいえ、退屈だった。


二曲目が終わると、透はマイクを持ったまま、客席を見渡した。


「こんばんは。来てくれてありがとうございます」


声は、歌っているときよりもずっと小さかった。


「次の曲は、最近作った曲です。特に誰かに向けて書いたわけじゃないんですけど、まあ、誰かに届いたらいいなと思ってます」


少し間が空いた。


「帰り道がわからなくなることって、あるじゃないですか。道がわからないんじゃなくて、どこに帰りたかったのかがわからなくなるやつ」


客席のどこかで、小さな笑い声がした。


透も笑った。


「そんな曲です」


ギターの音が鳴った。


その曲は、これまでの二曲よりも静かだった。


透の声は相変わらず不安定で、歌詞を追いかけるようにしてメロディーが進んでいく。上手な歌ではなかった。けれど、言葉だけは妙にはっきりと聞こえた。


帰りたい場所があるわけじゃない。\

帰りたくない場所があるわけでもない。\

ただ、明日になるのが少し怖い。


そんな内容だった。


美咲は、いつの間にかステージを見ていた。


何かを諦めた人間の歌だと思った。


けれど、諦めたことを悲しんでいるわけではない。何かを手に入れようとする強さもない。ただ、朝が来ることを知っていて、眠れない夜をどうにか越えようとしている。


その歌詞が、自分の中にあるものと重なった。


将来が怖い。


何者にもなれないまま、誰かが決めた正解に向かって歩いていくことが怖い。かといって、自分で道を選ぶ勇気もない。何かを変えたいと思いながら、変わらない毎日を自分で選んでいる。


そのことを、誰にも話せなかった。


話したところで、きっと大したことではないと言われる。実際、大したことではないのかもしれない。


それでも、胸の奥にずっと引っかかっていた。


曲が終わった。


拍手が起こった。


美咲も、遅れて手を叩いた。


その後の曲は、ほとんど覚えていない。


ライブが終わると、奈々は物販へ向かった。美咲は少し離れた壁際で、スマートフォンを眺めていた。


「どうだった?」


奈々が戻ってきた。


「最後の曲はよかった」


「でしょ。私もあれ好きだった」


「歌詞がね」


「珍しい。美咲がライブの感想言うなんて」


奈々は笑った。


「ちょっと話してくる」


美咲はそう言って、ステージの脇へ向かった。


物販の机には、先ほどのバンドのメンバーが並んでいた。CDやステッカーが置かれていて、透は客と話しながら、手元の紙にサインを書いている。


近くで見ると、ステージにいたときよりもさらに普通の男だった。額には汗が残り、首元のシャツは濡れていた。ライブの熱がまだ身体から抜けていないようだった。


客が途切れるのを待ってから、美咲は声を掛けた。


「あの」


透が顔を上げる。


「はい」


「さっきの曲なんですけど」


「ああ、ありがとうございます」


「帰り道がわからなくなるっていう歌詞」


「はい」


「道がわからないんじゃなくて、帰りたかった場所がわからなくなるっていうところ。あれ、どういう気持ちで書いたんですか」


透は少しだけ目を細めた。


すぐには答えなかった。


「どういう気持ち……」


手に持っていたペンを机に置き、考えるように視線を落とした。


「なんか、どこに行っても自分が自分のままなんだなって思ったときに書きました」


「自分が自分のまま?」


「環境を変えたら、全部変わると思ってたんですけど。住む場所を変えても、会う人を変えても、結局、自分の嫌なところはついてくるんですよね」


透は笑った。


「だから、どこに帰ればいいのかもわからなくなって」


「それであの歌詞に?」


「まあ、そんな感じです。すみません、あんまり格好いい話じゃなくて」


「いえ」


美咲は首を振った。


「私は、すごくわかる気がしました」


透は少し驚いたようだった。


「そうなんですか」


「何かを変えたいけど、何を変えたらいいのかわからなくて。東京に行けば何か変わるのかなとか、考えるんですけど」


「東京ね」


「はい。でも、東京に行って何がしたいのかはわからないんです」


「それは、行ってみないとわからないんじゃないですか」


「そうかもしれないですけど」


「俺も、東京に出てきたとき、何かになれると思ってましたよ」


「なれました?」


「いや、全然」


透はあっさりと言った。


「でも、なれなかったことがわかったのは、よかったかもしれないです」


「どうして?」


「何者かにならなきゃいけないって思ってたんですけど、別にそんなことないのかなって。まあ、今も思うときはありますけど」


透は机の上のCDを一枚手に取った。


「これ、さっきの曲も入ってます。よかったら」


「買います」


「ありがとうございます」


美咲は財布を取り出した。


CDを受け取ると、ジャケットの裏に小さく曲名が並んでいた。最後の曲には、短い言葉が書かれていた。


『帰り道』


その文字を見ていると、さっきの歌がまた頭の中で流れた。


「また来てください」


透が言った。


「次はもう少し上手く歌います」


「今日もよかったですよ」


「いや、今日のはひどかったです」


「そうですか?」


「そうですよ。音外したし」


透は笑った。


その笑い方が、少しだけ印象に残った。


ライブハウスを出ると、雨が降っていた。


奈々は傘を持っていなかったので、二人で駅まで走った。途中で何度か水たまりを踏み、靴の中まで濡れた。


「どうだった?」


奈々が聞いた。


「思ったよりよかった」


「でしょ」


「最後の曲、CD買った」


「え、買ったの?」


「うん」


「美咲が?」


奈々は大げさに驚いた。


「そんなに変?」


「変。普段、音楽なんて聞き流してるじゃん」


「聞くよ」


「何を?」


美咲は答えられなかった。


奈々は笑いながら、改札へ向かった。


家に帰ると、濡れた靴を玄関に置き、買ったCDを机の上に置いた。


すぐに聴くつもりはなかった。


けれど、シャワーを浴びて髪を乾かし、ベッドに横になってからも、あの歌詞が頭から離れなかった。


スマートフォンでバンドの名前を検索した。


ライブハウスの公式アカウントに、出演者の情報が載っていた。バンド名は「夜明け前」。三浦透がボーカル兼ギター。他のメンバーの名前も書かれている。


活動場所は、主にこの町と近隣の県だった。


次のライブは、二週間後。


美咲はその日付を、何となく覚えた。


それから数日が経った。


大学では相変わらず、将来の話が続いていた。


周囲の友人たちは、少しずつ就職活動を始めていた。インターンシップに申し込んだという話や、東京の企業を受けるという話が聞こえてくる。美咲も求人サイトを開いてみたが、画面を眺めているだけで時間が過ぎた。


自分が何をしたいのか、何ができるのか。考えれば考えるほど、何もないように思えた。


夜になると、机の上に置いたCDを眺めた。


ある日、思い切って再生した。


音質はよくなかった。録音されたライブの空気がそのまま残っているようで、演奏の粗さも、透の声の揺れも隠されていなかった。


それでも、最後の曲を聴くと、あの日の地下の空気を思い出した。


曲が終わってからも、しばらく再生機の前に座っていた。


何かが解決したわけではない。


明日から急に前向きになれるわけでもない。


ただ、自分の中にある言葉にならなかったものに、名前がついたような気がした。


それだけで、少し息がしやすくなった。


二週間後、美咲は再びライブハウスへ向かった。


今度は奈々を誘わなかった。


ひとりで行くのは初めてだった。駅からの道を間違え、開演時間ぎりぎりに地下へ降りた。前回よりも客が多く、フロアの後ろの方に立つことになった。


夜明け前の出番は三番目だった。


透は前回と同じような格好でステージに現れた。髪は少し短くなっていたが、相変わらず寝癖のような癖が残っている。


演奏は、前よりもよかった。


それでも、決して上手いとは言えなかった。声がかすれるところもあったし、ギターの音が一瞬遅れることもあった。


けれど、美咲はその不器用さを、前ほど気にしなかった。


透は歌っていた。


誰かに褒められるためでも、上手く見せるためでもないように見えた。自分の中にあるものを、どうにか外へ出そうとしている。言葉にしなければ消えてしまうものを、音に変えている。


最後の曲は、前回と同じ『帰り道』だった。


美咲は歌詞を覚えていた。


一緒に口ずさむことはできなかったけれど、言葉の先を知っていることが、少し嬉しかった。


ライブが終わると、物販へ向かった。


透は美咲に気づくと、少し驚いた顔をした。


「あれ、この前の」


「覚えてたんですか」


「最後の曲の話してくれた人ですよね」


「はい」


「また来てくれたんですね」


「来ました」


「ありがとうございます」


透は笑った。


「今日はどうでした?」


「前よりよかったです」


「それ、前回がひどかったみたいじゃないですか」


「前回もよかったですよ」


「どっちなんですか」


二人で笑った。


それから、少しだけ話をした。


美咲は大学のことを話し、透は次のライブの予定を話した。特別な会話ではなかった。互いのことを深く知るには、あまりにも短い時間だった。


それでも、透と話しているときだけは、自分の言葉を急いでまとめなくてもいい気がした。


「大学生なんですよね」


透が言った。


「はい」


「卒業したらどうするんですか」


美咲は少し考えた。


「まだ決めてないです」


「東京とか?」


「そうですね。行ってみたい気持ちはあります」


「いいじゃないですか」


「でも、何がしたいのかはわからなくて」


「それでもいいんじゃないですか」


透はCDを袋に入れながら言った。


「やりたいことが決まってから動く人もいるけど、動いてから見つかることもあると思うんで」


「三浦さんは、そうでした?」


「透でいいですよ」


「じゃあ、透さん」


「さんもいらないです」


美咲は少し困った。


「じゃあ、透くん」


「はい」


「透くんは、そうでした?」


透は笑った。


「俺は、動いてからも見つかってないです」


「それは困りますね」


「困ってますよ。だから歌ってるんじゃないですかね」


その言葉が、妙に残った。


帰り際、透は次のライブの日程を教えてくれた。


「来月もやるんで。よかったら」


「行けたら行きます」


「待ってます」


その言葉を、どこまで本気にしていいのかはわからなかった。


けれど、美咲は次のライブにも行った。


その次も。


ライブハウスへ行くことが、いつの間にか生活の中に入り込んでいた。


大学の講義が終わると、ライブの予定を確認する。アルバイトのシフトを調整し、行ける日には電車に乗る。遠い場所でライブがあるときは、帰りの時間を調べてから出かけた。


夜明け前の演奏は、少しずつ変わっていった。


新しい曲が増え、透の声も前より安定してきた。メンバー同士の息も合うようになり、ライブハウスの客も少しずつ増えていた。


それでも、透は変わらなかった。


ライブの前にはいつも緊張していたし、終わると必ずどこかの演奏を反省していた。物販では客の顔を覚えていて、話をするときには目を見てくれた。


美咲のことも、少しずつ覚えてくれた。


「今日、ひとり?」


「奈々はバイトです」


「そうなんだ。いつも一緒にいる子?」


「最初に連れてこられたときの子です」


「じゃあ、あの子のおかげですね」


「そうですね」


「今度会ったらお礼言わないと」


そんな会話をするようになった。


ライブが終わったあと、メンバーと一緒に近くの飲食店へ行くこともあった。美咲は最初、場違いな気がして遠慮していたが、透に誘われて何度か参加するうちに、他のメンバーとも話せるようになった。


ギターの岸本は、いつも大きな声で笑う人だった。ベースの佐伯は口数が少なく、ドラムの小野は食べることが好きだった。


四人は仲がよさそうに見えたが、時々、音楽のことで言い争っていた。


透は自分の曲に対して頑固だった。


「ここ、もう少し短くした方がいいんじゃない?」


岸本が言うと、透は首を振る。


「いや、ここは残したい」


「長いって」


「でも、ここがないと次の歌詞が生きない」


「じゃあ歌詞変えろよ」


「それは嫌だ」


そんなやりとりを見ていると、ステージの上の透とは違う一面が見えた。


彼は、音楽以外のことでは驚くほど適当だった。財布を忘れたり、集合時間を間違えたり、スマートフォンをどこかに置きっぱなしにしたりする。けれど、曲のことになると、誰よりも真剣だった。


ある夜、ライブのあとに入ったファミレスで、透が美咲に尋ねた。


「最近、どう?」


「何がですか」


「大学とか。前に悩んでるって言ってたじゃん」


美咲は、ドリンクバーのグラスを手に取った。


「相変わらずです」


「そっか」


「でも、前よりは考えるようになりました」


「何を?」


「自分が何をしたいのか」


「見つかった?」


「まだです」


「じゃあ、いいじゃないですか」


透は笑った。


「考えてるんだから」


その言葉を聞いて、美咲は少しだけ驚いた。


以前なら、何も決められない自分を責めていた。周りと比べて、遅れているように感じていた。けれど、今は少し違った。


決まっていないことを、決まっていないまま考えていてもいいのかもしれない。


「透くんは、どうして音楽を続けてるんですか」


「急ですね」


「ずっと気になってたので」


透はグラスの氷をストローで回した。


「最初は、誰かに見つけてもらいたかったんだと思います」


「誰かに?」


「自分には何かあるって、誰かに言ってほしかったんですよ。歌が上手いとか、才能があるとか。そういうことを言われたかった」


「今は?」


「今も言われたいですよ」


透は笑った。


「でも、最近はそれだけじゃなくなったかな」


「どういうことですか」


「ライブが終わったあと、知らない人が話しかけてくれることがあるんです。今日の曲がよかったとか、歌詞に救われたとか。そういうことを言われると、ああ、やっててよかったなって思う」


「それは嬉しいですね」


「うん。自分のために書いた言葉が、知らない誰かの中に残るんですよね。変な感じだけど」


透は少しだけ遠くを見た。


「自分がいなくなったあとも、どこかに残るものがあるのって、いいなと思うんです」


美咲は、その横顔を見ていた。


彼は、自分が思っていたよりもずっと遠くを見ている人だった。


ステージの上で歌っているときだけではない。何でもない夜のファミレスでも、彼の視線はいつも、今いる場所の少し先に向いているようだった。


それが羨ましかった。


自分には、そんなものがないと思っていたからだ。


帰り道、駅までの道を二人で歩いた。


他のメンバーは先に帰っていた。夜風が少し冷たく、街灯の下を歩くたびに、二人の影が伸びたり縮んだりした。


「美咲はさ」


透が言った。


名前を呼ばれたことに、少しだけ心臓が反応した。


「はい」


「東京に行きたいって、まだ思ってる?」


「思ってます」


「そっか」


「でも、怖いです」


「何が?」


「全部です。知ってる人がいない場所で暮らすことも、仕事を探すことも、自分で生活することも」


「まあ、怖いですよね」


透は笑った。


「俺も最初は怖かったですよ」


「透くんも?」


「そりゃそうですよ。東京に出たら、何かが始まると思ってたけど、実際は何も始まらなかった。最初の頃はバイトして、ライブして、狭い部屋に帰って寝るだけでした」


「それでも、今も東京にいるんですね」


「うん。なんだかんだ、ここにいる」


駅に着くと、改札の前で立ち止まった。


透は反対方向のホームへ向かう。


「またね」


「また」


それだけ言って別れた。


美咲は改札を通り、ホームへ向かった。


電車を待ちながら、透の言葉を思い返した。


東京に出ても、何も始まらない。


それでも、そこにいる。


何かが変わることを期待して行くのではなく、変わらない自分を連れて行くのだ。


そのことが、少しだけわかった気がした。


季節は、ゆっくりと夏に向かっていた。


大学では就職活動の話題が増え、友人たちは少しずつ進路を決め始めていた。奈々は地元の企業から内定をもらい、嬉しそうに報告してきた。


「美咲はどうするの?」


「まだ考えてる」


「東京?」


「たぶん」


「たぶんって何よ」


奈々は笑った。


「でも、前よりは決められそうな気がする」


「へえ」


「なんか、行ってみてもいいかなって」


「いいじゃん」


奈々は、それ以上何も聞かなかった。


その日の帰り、美咲は大学のキャリアセンターに寄った。求人票を眺め、気になった会社の資料を持ち帰った。東京に本社のある会社だった。


特別にやりたい仕事が見つかったわけではない。


ただ、そこに行ってみたいと思った。


自分の人生を、自分で決めるために。


その夜、透から連絡が来た。


『今週のライブ、来る?』


美咲は画面を見つめた。


『行くよ』


すぐに返事が来た。


『よかった』


それだけのやりとりだった。


けれど、美咲はその短い言葉を何度か読み返した。


ライブ当日、会場に着くと、いつもより客が多かった。


夜明け前は、地元の小さなライブハウスだけでなく、県外のイベントにも呼ばれるようになっていた。今日も、遠くから来た客がいるらしい。


ステージに立った透は、いつもより少し緊張しているように見えた。


ライブが始まる。


演奏は、これまでで一番よかった。


歌声にはまだ不安定なところがあったが、それも含めて、透の声になっていた。ギターの音が広がり、ドラムがそれを押し出す。曲の終わりに、客席から大きな拍手が起こった。


最後の曲の前、透はマイクを握った。


「今日はありがとうございます」


客席を見渡す。


「このバンドを始めたときは、こんなに人が来てくれるとは思ってませんでした。今も、これからどうなるかはわからないです」


透は少し笑った。


「でも、続けていきたいと思ってます。次にいつ会えるかわからない人もいると思うけど、またどこかで会えたら嬉しいです」


そして、ギターを鳴らした。


その曲は『帰り道』ではなかった。


新しい曲だった。


歌詞には、知らない街の朝や、遠くへ行く人の背中が出てきた。何かを置いていくことと、何かを持っていくこと。その二つが、同じことのように歌われていた。


美咲は、歌詞を聞きながら、ふと自分のことを考えた。


東京へ行くことは、この町を捨てることではない。


今までの自分を否定することでもない。


ここで過ごした時間も、出会った人も、全部連れて行けばいい。


曲が終わった。


客席から拍手が起こる。


美咲は、今度はすぐに手を叩いた。


ライブ後、物販の前で透を待った。


彼は客と話し終えると、美咲に気づいた。


「今日、どうだった?」


「すごくよかった」


「本当?」


「うん。新しい曲、好きだった」


「ありがとう」


透は少し照れたように笑った。


「また来てくれる?」


「もちろん」


美咲はそう答えた。


その言葉が、いつまで続くのかはわからなかった。


けれど、今はそれでよかった。


それからしばらくして、美咲は東京の会社に応募した。


書類を送り、面接を受けた。慣れない電車に乗り、知らない街を歩いた。面接では緊張して、準備していた言葉をうまく話せなかった。


それでも、結果が届いたとき、彼女は自分の目を疑った。


内定だった。


母親に報告すると、驚いたあとで「よかったね」と言ってくれた。父親は少しだけ寂しそうな顔をしたが、最後には「自分で決めたなら頑張れ」と言った。


美咲は、初めて自分の未来に触れた気がした。


何者かになれたわけではない。


これから先のことが、すべてわかったわけでもない。


それでも、自分で選んだ道が、目の前に一本だけ伸びていた。


透に報告したのは、その日の夜だった。


『東京の会社から内定もらった』


送信してから、少しだけ不安になった。


しばらくして、返事が来た。


『おめでとう』


続けて、もう一通。


『よかったじゃん』


美咲は笑った。


『ありがとう』


『東京に来るんだね』


『うん』


『じゃあ、今度東京でライブするときは来てよ』


『行く』


そのやりとりのあと、透から電話がかかってきた。


「もしもし」


「おめでとう」


電話越しの声は、いつもより少し近く感じられた。


「ありがとう」


「よかったね」


「うん」


「ちゃんと決めたんだ」


「決めたというか、決められたというか」


「それでも、自分で受けたんでしょ」


「そうだけど」


「じゃあ、自分で決めたんだよ」


透はそう言った。


美咲は、窓の外を見た。


夜の町は静かだった。遠くに見える道路を、車が一台通り過ぎていく。


「透くんのおかげかもしれない」


「俺?」


「うん。ライブで聴いた歌とか、話したこととか」


「そんな大したことしてないよ」


「でも、少し変わった」


「そっか」


透は、何かを考えるように黙った。


「よかった」


その一言は、とても静かだった。


「美咲が、自分で決められたなら」


電話を切ったあと、美咲はしばらくスマートフォンを手に持ったまま座っていた。


胸の奥が、少しだけ痛かった。


その痛みが何なのか、彼女にはもうわかっていた。


透に会うのが楽しみだった。


ライブの日を待つことも、物販で話すことも、帰り道に少しだけ一緒に歩くことも。彼の何気ない言葉を覚えていて、ふとした瞬間に思い出すことも。


いつからか、彼のことを考える時間が増えていた。


それは憧れに似ていた。


尊敬にも似ていた。


けれど、それだけではなかった。


彼の隣にいたいと思うことがあった。彼の見ている景色を、もっと知りたいと思うことがあった。自分がいないところで彼が何をしているのか、誰と笑っているのか、気になることもあった。


美咲は、その気持ちに名前をつけるのを避けていた。


名前をつけてしまえば、何かを望んでしまう気がした。


そして、望んだものが手に入らなかったとき、きっと今よりも苦しくなる。


東京へ行くことが決まってから、時間は早く過ぎていった。


引っ越しの準備を始め、必要なものを揃え、大学の手続きも進めた。家族と食卓を囲む時間が増え、友人たちとも会う約束をした。


夜明け前のライブにも、できる限り足を運んだ。


透は、美咲が東京へ行くことを知ってからも、特別な態度を取らなかった。


いつも通り、ライブをして、物販で話し、時々連絡をくれた。


そのことが、ありがたくもあり、少し寂しくもあった。


ある日のライブ後、透が言った。


「東京に行く前に、飯でも行かない?」


「いいよ」


「ライブじゃなくて、普通に」


「うん」


「いつがいい?」


美咲は、少し考えてから答えた。


「来週なら空いてる」


「じゃあ、その日」


約束した日は、雨だった。


駅前の小さな居酒屋で待ち合わせた。透は少し遅れてやってきて、濡れた髪を手でかき上げながら謝った。


「ごめん。電車遅れてた」


「大丈夫」


「久しぶりだね、こういうの」


「ライブ以外で会うのは初めてかも」


「そうだね」


二人は向かい合って座った。


最初は、いつもと同じような話をした。バンドのこと、大学のこと、引っ越しのこと。透は東京でのライブが増えているらしく、最近は移動ばかりだと話した。


「東京に行くの、楽しみ?」


透が聞いた。


「楽しみもあるけど、怖い」


「そりゃそうだよね」


「でも、前よりは楽しみの方が大きいかも」


「よかった」


「透くんは、東京に出るときどうだった?」


「俺?」


「うん」


透は、グラスを持ち上げた。


「怖かったよ。知り合いもいなかったし、金もなかったし。最初の家なんて、窓を開けても隣の壁しか見えなかった」


「それでも出たんだ」


「うん。出たかったから」


「何かやりたいことがあった?」


「音楽をやりたかった」


「それだけ?」


「それだけ」


透は笑った。


「それだけで十分だったんだと思う」


美咲は、その言葉を聞いていた。


自分には、何もなかった。


何かをしたいという強い気持ちも、絶対に手に入れたい夢もなかった。だから動けないのだと思っていた。


けれど、今は違う。


何かが見つかっていなくても、行ってみたいと思う場所がある。そこで暮らしてみたいと思う自分がいる。


それだけでも、動く理由になるのかもしれない。


「私も、そういう理由でいいのかな」


「いいんじゃない?」


透は迷わず言った。


「理由なんて、あとからついてくることもあるし」


食事を終えるころには、雨が止んでいた。


店を出ると、道路の端に水たまりが残っていた。街灯がその表面に映り、風が吹くたびに揺れていた。


「送ろうか」


透が言った。


「駅まで?」


「うん」


二人で歩き出した。


駅までは、十分もかからない。


それでも、歩く速度は自然と遅くなった。


「美咲」


透が呼んだ。


「なに?」


「東京に行っても、たまには連絡してよ」


「するよ」


「忙しくなると思うけど」


「透くんもしてよ」


「する」


透は笑った。


「東京でもライブやるから」


「知ってる」


「来てよ」


「行く」


駅の前に着いた。


改札の向こうへ行けば、今日もまた別々の帰り道になる。


美咲は、何か言おうと思った。


今なら言える気がした。


ずっと会いたかったこと。ライブの日を楽しみにしていたこと。透の歌に救われたこと。そして、彼のことが好きになっていたこと。


けれど、言葉は喉の奥で止まった。


透は、彼女の顔を見ていた。


「どうした?」


「ううん」


「何か言いかけた?」


美咲は笑った。


「また会いたいなって思っただけ」


「会えるよ」


透は、いつもの調子で答えた。


「東京でも会えるし」


「そうだね」


それで十分だと思った。


その夜、美咲は帰宅してから、引っ越しの荷物を詰めた。


段ボールの隙間に、夜明け前のCDを入れた。


一番最初に買ったものだった。


ジャケットの端は少し折れていて、何度も聴いたせいか、ケースには細かい傷がついている。


美咲はそれを手に取り、最後の曲を再生した。


帰り道がわからなくなる。


その歌詞を、今は違う気持ちで聴いていた。


帰る場所がわからなくなったのではない。


帰る場所を、自分で選べるようになったのだ。


それが、あの頃の自分にはできなかった。


東京へ出る日が近づくにつれて、透との連絡は少なくなった。


彼は遠征が増え、ライブの準備に追われていた。美咲も引っ越しや卒業に向けた手続きで忙しくなった。


以前のように、何でもないことを連絡することは減っていった。


それでも、時々、短いメッセージが届いた。


『今日、東京でライブだった』


『お疲れさま』


『こっちは雨』


『こっちも』


そんなやりとりが続いた。


会えないことが寂しくないと言えば嘘になる。


けれど、美咲は自分の生活を進めていた。


大学の友人と最後の旅行に行き、アルバイト先の人たちに挨拶をした。部屋の荷物は少しずつ減り、机の上には必要なものだけが残った。


出発の前日、奈々が家に来た。


「明日、行っちゃうんだね」


「うん」


「寂しくなるな」


「いつでも帰ってくるよ」


「そういうことじゃないんだけど」


奈々は笑った。


「でも、よかったね。前はずっと悩んでたもんね」


「そうだね」


「ちゃんと自分で決められたじゃん」


美咲は、窓の外を見た。


この町の景色は、明日から少し違って見えるのだろうか。


何も変わらないかもしれない。


けれど、自分はここを離れる。


その事実だけで、いつもの景色が少しだけ特別に思えた。


「ありがとう」


「何が?」


「いろいろ」


奈々は、少し照れたように笑った。


「東京行っても、ちゃんと連絡してよ」


「するよ」


「あと、変な男に引っかからないでね」


「わかった」


二人は、しばらく笑っていた。


奈々が帰ったあと、美咲はスマートフォンを手に取った。


透とのトーク画面を開く。


最後のメッセージは、三日前のものだった。


『引っ越し準備どう?』


『だいたい終わったよ』


『いよいよだね』


『うん』


そのあと、会話は途切れていた。


美咲は、少し考えてから文字を打った。


『明日、東京に行きます』


送信する。


すぐに既読がついた。


『いよいよだね』


『うん』


『頑張って』


『透くんも』


しばらくして、もう一通届いた。


『東京で会おう』


美咲は、その言葉を見つめた。


会おう。


その約束が、どれほどの意味を持つのかはわからない。


それでも、今は嬉しかった。


『うん。会おうね』


そう返して、スマートフォンを伏せた。


翌朝、家族に見送られて駅へ向かった。


大きな荷物を持ち、いつも歩いていた道を進む。コンビニの前を通り、信号を渡り、駅の階段を上る。


何度も通った道だった。


けれど、今日だけは違って見えた。


改札を通ると、ホームには通勤客や学生が並んでいた。電車が到着し、扉が開く。


美咲は、最後に一度だけ振り返った。


この町で過ごした時間を、忘れることはないと思った。


そして、忘れなくてもいいのだと思った。


電車に乗る。


窓の外の景色が、少しずつ後ろへ流れていく。


美咲はイヤホンを耳に入れた。


再生したのは、あのCDだった。


透の声が流れ始める。


相変わらず、少し音程が不安定だった。


けれど、その声を聞いていると、初めてライブハウスへ行った日のことを思い出す。


何もしたくなかった夜。


友人に連れられて、仕方なく降りた地下の階段。


上手ではない歌声。


それなのに、どうしようもなく胸に刺さった言葉。


あの日、自分は初めて、自分の気持ちを誰かに見つけてもらったような気がした。


そして今、彼女は自分の足で、知らない街へ向かっている。


東京に着いたのは、昼を少し過ぎたころだった。


駅の人混みに圧倒されながら、案内板を頼りに改札を出る。空はこの町と同じ色をしていた。特別に明るいわけでも、特別に美しいわけでもない。


それでも、ここから始めるのだと思った。


新しい部屋に荷物を運び込み、段ボールを開ける。


一番最初に取り出したのは、夜明け前のCDだった。


棚の上に置き、しばらく眺める。


それから、窓を開けた。


見知らぬ街の音が入ってくる。


車の走る音、人の話し声、遠くで鳴る救急車のサイレン。隣の部屋からは、誰かがテレビを見ている音が聞こえた。


美咲は、少しだけ笑った。


ここにも、いつもの生活がある。


東京に来たからといって、突然何かが変わるわけではない。明日になれば、仕事の準備をして、電車に乗り、知らない人たちの中で一日を過ごすのだろう。


それでも、今はそれでよかった。


自分で選んだ場所にいる。


そのことが、何よりも大切だった。


数日後、美咲は初めての休日を迎えた。


部屋の片付けも落ち着き、近所のスーパーや駅までの道も覚え始めていた。


スマートフォンに通知が届いた。


透からだった。


『今週、東京でライブあるんだけど』


続けて、会場の名前と時間が送られてくる。


美咲は、すぐに返事をした。


『行くよ』


『ありがとう』


『楽しみにしてる』


ライブ当日、美咲は少し早めに家を出た。


会場は、駅から歩いて十分ほどの場所にあった。地元のライブハウスよりも広く、客も多かった。出演するバンドの名前が並んだ看板を見て、夜明け前がここにいることを少し不思議に思った。


開演まで時間があったので、近くの喫茶店に入った。


コーヒーを飲みながら、窓の外を眺める。


東京での生活は、まだ始まったばかりだ。


知らないことばかりで、慣れないことも多い。これから先、何度も帰りたくなる夜があるかもしれない。自分が選んだ道を疑うこともあるだろう。


それでも、今はここにいた。


時間になり、ライブハウスへ向かった。


夜明け前の出番は、最後から二番目だった。


透がステージに現れる。


以前よりも、少しだけ堂々として見えた。客席を見渡す目に迷いがなくなったように感じる。


演奏が始まった。


美咲は、客席の後ろで彼らを見ていた。


透は歌っていた。


何度も聴いた曲も、初めて聴く曲もあった。あの頃の不器用さはまだ残っていたが、音には確かな強さがあった。


最後の曲が始まる。


『帰り道』だった。


美咲は、初めて聴いた日のことを思い出した。


帰りたい場所があるわけじゃない。\

帰りたくない場所があるわけでもない。


あの歌詞は、今も変わらず胸に響いた。


けれど、もう以前のような苦しさはなかった。


帰る場所がわからないのなら、自分でつくればいい。


どこにいたって、自分は自分のままだ。


そのことを、ようやく受け入れられるようになった。


曲が終わり、拍手が起こった。


透は客席を見渡した。


その視線が、美咲のところで一瞬止まった。


彼は、ほんの少しだけ笑った。


それだけで十分だった。


ライブが終わると、物販の前には長い列ができていた。


美咲は最後尾に並び、順番を待った。


透と話せる時間は、以前よりも短くなっていた。客が多く、スタッフからも次の準備を促されているようだった。


それでも、透は美咲に気づくと、いつものように声を掛けた。


「来てくれたんだ」


「来るって言ったから」


「ありがとう」


「すごくよかった」


「本当?」


「うん。前よりずっと」


透は笑った。


「それ、前がひどかったみたいじゃん」


「そんなことないよ」


「冗談」


二人は少しだけ笑った。


「東京の生活はどう?」


透が聞いた。


「まだ慣れないけど、楽しいよ」


「そっか」


「忙しいけどね」


「こっちも忙しいよ」


「知ってる」


「また来月も東京でやるから」


「行けたら行く」


「待ってる」


美咲は、透の顔を見た。


何かを言いたかった。


けれど、言わなかった。


言わなくてもいいと思った。


彼が自分の人生を歩いているように、自分も自分の人生を歩いている。二人の道が重なる時間は、きっと長くない。いつか、会えなくなる日も来るだろう。


それでも、あの日の出会いがなくなるわけではない。


「じゃあ、また」


美咲が言うと、透は頷いた。


「またね」


その言葉を最後に、二人は別れた。


外へ出ると、夜の街は明るかった。


駅へ向かう人の流れに混ざりながら、美咲はイヤホンを取り出した。けれど、音楽は再生しなかった。


今夜は、街の音を聞いていたかった。


遠くへ行く人がいる。


ここに残る人がいる。


誰かの人生に、一時だけ交わる道がある。


その道が終わることを、別れと呼ぶのかもしれない。


美咲は、もうそれを怖いとは思わなかった。


透の歌に出会ったあの日、自分は何かを変えてほしくて、彼の言葉を探していた。


けれど、彼がくれたのは答えではなかった。


ただ、自分の中にあった気持ちを、見ないふりをしなくてもいいと思わせてくれた。


それだけだった。


それだけで、十分だった。


駅のホームに着くと、電車が入ってきた。


美咲は乗り込み、窓際に立った。


ガラスに映った自分の顔は、あの日よりも少しだけ大人びて見えた。


電車が動き出す。


街の灯りが、窓の向こうを流れていく。


美咲は、ようやく自分の帰り道を歩き始めていた。

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