余白のある切符
晶は、旅の予定表を三枚作った。
一枚目は往路と復路。二枚目は乗り換えに失敗した場合。三枚目には、雨が降った場合の屋内施設を並べた。駅の階段を上る時間は四分、昼食には三十五分。自分でも少々やりすぎだとは思ったが、予定の空白は落とし穴に見えた。
行き先は汐見ヶ浦。山と海の境にある、小さな港町だ。
そこへ行く理由は、祖母の古い手帳に挟まれた、黄ばんだ紙片だった。
――帆乃香さんへ。今度こそ、続きを返します。
宛名と一緒に、かつての公民館の住所が書いてある。手帳の見返しには、祖母の字で短い詩が残っていた。
海へ向かう道はひとつではない
坂の数より 会った人を覚えておこう
帰りの切符に余白を残して
まだ知らない景色のために
詩の下には、乾燥した木の実を三粒つないだ首飾りが、平たく押し込まれていた。糸が切れかけ、実の一つには細い亀裂がある。
祖母はひと月前に亡くなった。机の片づけをしていた母にこの手帳を渡されたとき、晶は最初、郵便で送ればいいと思った。しかし、紙片の裏には別の一行があった。
――会いに行って、渡したい。
これだけは、代わりに行くほうがいい気がした。
*
午前九時十三分、山あいの終点駅に電車が着いた。計画では、駅前から九時二十五分のバスに乗る。ところがロータリーには、時刻表に貼り重ねられた白い紙が一枚あった。
「橋の点検に伴い、当面運休」
晶はスマートフォンで代替経路を検索した。候補はどれも、画面に細い灰色の線を描くばかりで、到着時刻を示さない。予定表の二枚目を開く。そこにも答えはなかった。
「汐見ヶ浦まで?」
振り向くと、作業着の男が駅の掲示板を外していた。三十代の終わりくらいだろうか。手には工具箱、胸には『政裕』と書かれた名札がある。
「はい。十三時ごろ旧公民館の近くに着いて、祖母の知り合いを探すつもりです」
「車なら北側の県道を回れます。路線バスの代わりは昼までありません。歩くなら、旧道を抜けて港の乗合船に乗る方法があります」
「旧道って、地図にありませんけど」
「地図から消えたわけじゃないんです。歩く人が減っただけで」
政裕は工具箱を足元に置き、掲示板の裏にあった観光案内図を広げた。道は川沿いに進み、途中で細い橋を渡る。港まで六キロほど。乗合船の出航は十一時四十分だという。
「間に合いますか」
「急がず歩いて、一時間半から二時間。途中の坂次第ですね」
「一時間半と二時間じゃ、三十分も違います」
「ええ。その三十分を削るために走ると、よけい時間がかかる道です」
晶は答えに困った。政裕は気を悪くした様子もなく、危ない分岐を案内図に丸で囲んだ。
「橋を渡ったら、赤い屋根の家を右へ。いばらの生えている近道には入らないでください。去年、足場が崩れました」
礼を言うと、政裕は工具箱を持ち上げた。
「うちも港で案内所をやってます。船を逃したら、そこで聞いてください。方法は一つじゃありませんから」
晶は案内図を撮影し、予定表の余白に『徒歩・最大二時間』と書き込んだ。余白が一行、埋まった。
*
旧道は、初めのうちは拍子抜けするほど歩きやすかった。川が左側で石を洗い、柿の木が右手の畑に影を落とす。家の庭先には干した網、曲がった自転車の車輪、木箱に植えた小菊。電車の窓からは決して見えないものばかりだった。
晶は歩幅を大きくした。十一時四十分。数字を思い浮かべるたびに、靴の裏で砂利が鳴った。
赤い屋根の家を過ぎたあたりで、道の中央に荷物が散らばっていた。紙の束、小さな額縁、ひもを通した木の実の飾り。膝をついた女性が、風にあおられる紙を片端から拾っている。
「大丈夫ですか」
「あら、ごめんなさい。箱の底が抜けちゃって」
女性は五十代ほどで、肩から下げた布袋にも紙が詰まっていた。晶は時計を見た。まだ船まで余裕はある。しかし、散らばった紙は思いのほか多い。
「押さえていただけるだけで助かります」
しゃがんで一枚拾うと、それは手書きの詩だった。海、丘、買い物帰りの坂。別の紙には、港から山へ移り住んだ人の短い回想がある。
「これ、何ですか」
「旧公民館の文庫室に残っていたものです。今日、最後の展示をするので運んでいたんですけど、段ボールをけちってしまって」
晶の指が止まった。
「汐見ヶ浦の旧公民館ですか」
「ええ。今月で取り壊されるので、今日だけ文庫室を開けるんです」
女性は紙をそろえながら、額縁の裏を確かめた。
「昔は、誰でも一枚詩を書いて挟める棚があってね。ここから海の向こうへ働きに出る人も、帰ってきた人も、立ち寄って書いていったんです」
晶は祖母の手帳を開いた。四行の詩を見せると、女性は声に出さずに唇を動かした。
「……これ、二行目が変わってる」
「ご存じなんですか」
「似た詩が、展示する紙の中にあります。ただ、そこには『坂の数より、見送る人を覚えておこう』って」
女性は束から一枚探そうとしたが、風がまた紙の角を浮かせた。
「お急ぎでしょう。私があとで探しますから」
晶は時計に目を落とした。船の時刻まで五十三分。今なら少し速足で間に合うかもしれない。
ところが、道路の端に落ちた額縁が見つからない。女性が困った顔で草むらを見ている。額の中には、二十人ほどが写った古い集合写真があったらしい。
晶は靴を草の中へ踏み入れた。枯れ葉をよけると、ひびの入った木枠が見えた。額は低いいばらに引っかかっている。腕を伸ばしたとき、とげが袖をかすめた。
「ありました」
「よかった。その写真だけは、どうしても」
女性が受け取る手は少し震えていた。
「写真の中に、母がいるんです。もう亡くなりましたけど。私、今日、その母の代わりに展示の当番をするんです」
晶は、自分の手の中にある予定表が急に軽くなったように感じた。紙束を箱に戻すのを手伝い、底を布袋のひもで補強した。気がつくと十一時を回っていた。
女性は花歩と名乗った。
晶は息をのんだ。手帳の宛名を見せると、女性は首を振った。
「その方は、私の母です。名前は帆乃香。母が生まれ育った町に、私も今から行くところなんです」
その言葉を聞いたとたん、晶の旅に初めて、時計には載せられない長さが生まれた。
*
港に着いたとき、船はすでに堤防の向こうで白い航跡を引いていた。
晶は立ち止まり、息を整えた。スマートフォンの時刻は十一時四十七分。七分の遅刻だった。予定表にはなかった七分だ。
「私のせいですね」
花歩が申し訳なさそうに言う。
「違います。私が、拾うことにしたんです」
晶はそう答えて、自分で驚いた。いつもの自分なら、せめて誰のせいで遅れたかだけは確かめていた。
港の案内所には、先ほどの政裕がいた。木箱に道具を片づけているところだった。
「船、逃しちゃいました」
「見えてました。次は三時半。ただし向こうの公民館に行くなら、もう一つ手があります」
政裕は湾の奥を指さした。潮の引いた時間だけ使える古い石畳の道が、防波堤の向こうに続いている。
「徒歩で四十分。満潮の前に閉じます。今日の通行時間は正午から一時半。市が見回りもしています」
晶は端末の地図を確認した。そこには海しか描かれていなかった。
「だから地図にはないんですね」
「満潮になると、本当に道がなくなりますから」
花歩は重い荷物を抱え直した。
「私は船に乗るつもりで、石畳のことを忘れてた」
「一緒に行きましょう」
今度は晶が先に言った。花歩が頬を紅潮させ、何度も頭を下げた。
石畳は、海の底から借りた道のようだった。左右の浅瀬に小魚が走り、藻の匂いが靴先まで上がる。花歩の歩幅に合わせると、道ばたの石に小さな貝殻が埋まっているのが見えた。
晶は祖母の詩を思い出した。
坂の数より、会った人を覚えておこう。
最初からそう書いてあったのだろうか。それとも、いつか祖母が自分で書き替えたのだろうか。
*
旧公民館は、港を見下ろす坂の中腹にあった。白壁には雨だれの跡、廊下には乾いた木の匂い。文庫室には古い机が三つと、窓際に詩を挟むための細い棚が残されていた。
花歩はまず集合写真を棚の中央に立て、母の顔を指した。
「この人です。母の帆乃香。若いころ、港を出る船の切符売り場に勤めていました」
晶は手帳から黄ばんだ紙片を取り出した。花歩はそれをしばらく見てから、深くうなずいた。
「この字、見覚えがあります。母の引き出しにも、同じ方の便りが何通かありました」
花歩の母は三年前に亡くなっていた。晶の祖母とは、若いころ文庫室の棚を一緒に作った仲だったという。
「二人で、詩を持って海の向こうの町を訪ねる約束をしていたそうです。でも、うちの母が父の介護で家を空けられなくなって。あなたのおばあさまは、一人で渡ることもできたのに、港まで来ては母とおしゃべりして帰っていたんですって」
「約束が、果たせなかったんですね」
言い終えたとき、晶は自分の声に、どこか責めるような響きがあると気づいた。
「そうでもないみたいですよ」
花歩は棚の奥から、封筒に入った一枚を出した。折り目のついた原稿用紙に、あの詩が書かれていた。
海へ向かう道はひとつではない
坂の数より 見送る人を覚えておこう
帰りの切符に余白を残して
まだ知らない景色のために
欄外に、二人の筆跡があった。
――次は、私が海を渡る番。帆乃香
――次は、私がここへ帰ってくる番。晶子
晶子は祖母の名だ。晶は、原稿用紙の上に顔を近づけた。
花歩は続けた。
「船に乗れなかった年は、私の母がここで旅先の話を聞く番。翌年は、あなたのおばあさまが別の場所の風景を持って帰ってくる番。いつの間にか、二人の間で旅の話を交換するようになったんです。母、最後まで楽しみにしてましたよ」
「でも祖母は、続きを返すって」
「何か書いてくださったんでしょうか」
晶は手帳を差し出した。木の実の首飾りが机に落ち、小さく音を立てる。
「この飾り、見たことがあります。港の裏山で拾った実を、二人でつないだそうです。半分は母が持っていました」
花歩は、棚の引き出しから同じような実の飾りを取り出した。こちらは糸が新しくなっていた。並べてみると、飾りは一対のようで、形は少しずつ違った。
晶は手帳の残りのページをめくった。きっちり書かれた詩は、あの四行だけ。けれどそのあとに、駅の売店で買った飴の包み紙、宿の朝食に添えられた箸袋、知らない町のパン屋のスタンプがいくつも貼ってある。
そして最後のページには、小さな字でこう書いてあった。
――帆乃香さん。今年も、あなたに会いに行く旅をしました。海は渡らなかったけれど、帰りに知らない道を見つけました。道の脇に、小さな花が咲いていました。何という花だったか、今度会ったら聞いてください。
便りは書き終わっていない。日付もなかった。
晶は、ずっと一つの思い込みをしていたことに気づいた。祖母が行きたかったのは海の向こうで、そこへ到着させることが自分の役目だと思っていた。
けれど、祖母の目的地は何度でも変わっていたのだ。港から海の向こうへ。海の向こうから港へ。そこで話を待つ人のところへ。
「返したいのは、詩の続きじゃなくて……」
晶は言いかけ、言葉を探した。
「おばあさまが見たもの、でしょうか」
花歩がそう言った。
窓の外では、ちょうど昼の船が港へ戻ってきた。海面に、ゆっくりと長い波がほどけていく。
*
展示が始まる前、晶は文庫室の机を借りて、手帳に一ページ書き足した。
九時十三分、終点駅。橋の点検でバスに乗れず。
十時過ぎ、川沿いの旧道。柿の木と小菊。
十一時、飛んだ紙を拾う。写真の額はいばらの中。
十一時四十七分、船に七分遅れる。
十二時、潮が引いて現れる石畳を歩く。
十三時前、文庫室に到着。
書き終えてから、その下にもう一行足した。
――花歩さんと一緒に歩いた。貝殻の埋まった道だった。
花歩がそっとのぞき込んだ。
「きれいな旅行記ですね」
「時間ばっかり書いていますけど」
「時間があるから、同じ道を歩いていないことがわかるんです。母のころは、あの石畳を渡るのに、もっと長くかかったそうですよ」
晶は予定表を取り出した。一枚目の復路には、十六時八分の電車と太い線が引いてある。今なら十分間に合う。けれど、棚に収められた紙はまだ全部読めていなかった。花歩がこれから話してくれる母親のことも、聞きたかった。
「帰り、一本遅らせてもいいですか」
「もちろん。最終便の時間も調べましょう」
晶はスマートフォンで運行情報を確かめ、母へ遅くなる旨を送った。安全に帰れる便があることを確認してから、復路の時刻を消し、欄を空けた。
帰りの切符に余白を残して。
祖母の詩が、そこで初めて、胸にすとんと落ちた。無計画になれという意味ではない。人と会う余地を、予定の中から消してしまわないことだったのだ。
文庫室の窓を開けると、潮の匂いが入ってきた。向こう岸にはまだ見たことのない町があり、こちら側には今日知ったばかりの人がいる。
晶は木の実の首飾りを二つ並べ、写真を撮った。祖母が見つけられなかった花の名は、もう尋ねられない。それでも、次にこの町へ来る口実なら、今つくれる。
「花歩さん。今度は、海の向こうの町も歩いてみませんか」
花歩は少し考えてから、笑った。
「そのときは、行きの船だけ決めておきましょうか」
晶も笑った。
開いた手帳の最後には、まだ半ページぶんの白いところが残っていた。
そこには、帰りの時刻を書かなかった。




