表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/4

第四話 【黄金の印が描く新しい未来】


 ――コンッ。

 静謐せいひつな空間に、世界で最も甘美な音が響いた。

 それは、バルトス帝国を中心とした「大陸平和維持条約」の正本に、私の設計した「至高印しこういん」が押し下げられた音。

 木材の王、鉄黒檀のガベルが空気を切り、最高級の羊皮紙へと魔力を帯びたインクを叩きつける。

 その瞬間、紙の繊維が喜びで震え、インクが細胞の一つひとつに浸透していくのが、私のルーペ越しに克明に見える。


「……あぁ。なんて……なんて淫らな浸透しんとう具合かしら」


 私は頬を赤らめ、吐息を漏らした。

 ここは帝都の一等地。かつては王立文書館の片隅で「ハンコ狂い」と蔑まれていた私が、今や帝国の「印章省長官」兼「大公妃候補」として、大陸のすべての公文書を支配している。


「フィオナ。あまり条約書に顔を近づけるな。貴様の熱い吐息で紙がふやけてしまうだろう」


 呆れたような、それでいて深い慈愛に満ちた声。

 隣に座るオズワルド皇帝陛下は、私の腰をグイと引き寄せ、その逞しい指先で私の顎を持ち上げた。


「……陛下。見てください、この印影を。私の魔力と、陛下の覇気が混ざり合った、この黄金の輝き。これこそが、世界を統べるに相応しい『正義の刻印』ですわ」


「ふん。貴様が磨き上げた印章の感触は、確かに悪くない。……だが、今夜は紙ではなく、俺のシグネットリングを磨いてもらうぞ? 隅々まで、な」


「まあ……! 喜んで! 陛下の指輪の溝に溜まったわずかな角質まで、私の舌で――」


「そこまでだ。変態性が漏れ出しているぞ」


 皇帝陛下とのやり取りは、今や帝国でも「名物」となっていた。

 私が印章を愛し、印章が私を愛する。

 この歪で完璧な関係が、大陸に未曾有の平和をもたらしたのだ。


 ◇


 平和な帝国の光景とは対照的に、かつての「アステリア王国」……現在は帝国の「アステリア特別管区」へと格下げされた土地では、一つの「教育的指導」が行われていた。


 私は、視察と称して、かつての職場であった文書館を訪れた。

 そこには、かつての栄華を失い、ボロボロの作業服に身を包んだ男がいた。


「おい、そこ。まだ磨きが甘いわよ」


 私が冷たく声をかけると、男はビクリと肩を揺らした。

 エリオット。元、第一王子。

 彼は今、国家賠償の返済の一環として、帝国の「低等印章清掃員」としての労役に就いている。


「ひ、フィオナ……様……。こ、これでよろしいでしょうか……」


 エリオットが差し出したのは、帝国軍の兵站用に使われる、ごく一般的な真鍮製の受領印。

 だが、その印面は黒ずみ、角にはインクのカスが詰まっている。


「……話にならないわ。印章の溝は、歴史の溝よ。そこに汚れを溜めることは、未来を汚すことと同義。殿下――いえ、エリオット。あなたはハンコ一つで国が滅びると言った私を笑ったけれど。今、あなたはハンコ一つを磨けないせいで、今日の食事すら危ういのよ?」


「う、うぅ……。申し訳ありません……。私が馬鹿でした。ハンコなんて、どれも同じだと思って……、お前がどれだけ重要だったか、失って初めて気づいたんだ……っ!」


 彼は床に膝をつき、私の足元にすがり付こうとした。

 かつて私をゴミのように捨てたその手は、今やインク汚れとヤスリの傷でボロボロだ。


「触らないで。私のドレスの繊維が、あなたの無知で汚れてしまうわ」


 私はそっと彼を蹴り飛ばし、懐から一つの道具を取り出した。

 あの日、彼に踏み潰された、私の大切なルーペ。

 帝国の至高の魔導技師たちによって修理され、レンズには「真実を見抜く」魔法が組み込まれた、黄金のルーペだ。


「見て。このレンズ越しに見るあなたは、惨めで、滑稽で……そして、最高に『良い見本』だわ。印章を軽んじた人間が、どのように磨り減っていくかという、ね」


 私は彼に、一枚の書類を突きつけた。

 それは、彼の「王族籍永久抹消」を証明する公文書。


「さあ、押しなさい。あなたの人生の終焉しゅうえんを、その汚れた手で、自ら刻み込むのよ」


「……あ、あぁ……。あああああっ!!」


 エリオットが泣き叫びながら、震える手で受理印を押し下げる。

 その印影は、中心がズレ、かすれ、情けないほどに歪んでいた。

 あぁ、素晴らしい。

 これほどまでに「敗北」を体現した印影、私のコレクションの中でもトップクラスの醜悪美だわ。


 ◇


 視察を終え、帝宮へ戻る馬車の中。

 私は一人、黄金のルーペを磨きながら、窓の外に広がる帝都の街並みを眺めていた。


 どこを見渡しても、私の管理下にある「正しい印章」が、人々の生活を支えている。

 偽造は消え、契約は絶対のものとなり、言葉の重みは朱肉の濃淡によって証明される。

 私が望んだ、完璧な世界。


「……ふふ。さて、次はどんな『しるし』を描こうかしら」


 手元には、新しく書き上げた論文の草稿がある。

 タイトルは『魔導回路を組み込んだ生体印章による、魂の契約の可能性について』。

 これを実用化すれば、愛する人と一生離れないための「不可逆的な刻印」が可能になる。


 バタン、と馬車のドアが開いた。

 待ちきれないといった様子で、オズワルド陛下が乗り込んでくる。


「戻ったか、フィオナ。……首を長くして待っていたぞ。例の『生体印章』の試作、俺の首筋で試す準備はできている」


「まあ、陛下ったら! そんなに急がなくても、逃げたりしませんわ。……私の愛は、もう陛下の心臓に、深く深く『受理印』を押してありますもの」


 私たちは、どちらからともなく手を取り合った。

 陛下の大きな手のひらに、私の指先が重なる。

 それはまるで、新しい時代の幕開けを告げる、完璧な「調印」のようだった。


 かつて、自分を「印章フェチの変態」だと自嘲していた少女は、もういない。

 私は、この世界の真理を朱肉に刻む、唯一無二の支配者。


 いつか、私と陛下の間に新しい命が宿ったら。

 その子が最初に握るおもちゃは、きっと、この世で最も精緻に彫られた「黄金のスタンプ」に違いない。


 幸せの重みは、インクの重み。

 私の恋と復讐の物語は、永遠に消えない「不滅の印影」となって、歴史の羊皮紙に刻み続けられるのだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ