第四話 【黄金の印が描く新しい未来】
――コンッ。
静謐な空間に、世界で最も甘美な音が響いた。
それは、バルトス帝国を中心とした「大陸平和維持条約」の正本に、私の設計した「至高印」が押し下げられた音。
木材の王、鉄黒檀のガベルが空気を切り、最高級の羊皮紙へと魔力を帯びたインクを叩きつける。
その瞬間、紙の繊維が喜びで震え、インクが細胞の一つひとつに浸透していくのが、私のルーペ越しに克明に見える。
「……あぁ。なんて……なんて淫らな浸透具合かしら」
私は頬を赤らめ、吐息を漏らした。
ここは帝都の一等地。かつては王立文書館の片隅で「ハンコ狂い」と蔑まれていた私が、今や帝国の「印章省長官」兼「大公妃候補」として、大陸のすべての公文書を支配している。
「フィオナ。あまり条約書に顔を近づけるな。貴様の熱い吐息で紙がふやけてしまうだろう」
呆れたような、それでいて深い慈愛に満ちた声。
隣に座るオズワルド皇帝陛下は、私の腰をグイと引き寄せ、その逞しい指先で私の顎を持ち上げた。
「……陛下。見てください、この印影を。私の魔力と、陛下の覇気が混ざり合った、この黄金の輝き。これこそが、世界を統べるに相応しい『正義の刻印』ですわ」
「ふん。貴様が磨き上げた印章の感触は、確かに悪くない。……だが、今夜は紙ではなく、俺のシグネットリングを磨いてもらうぞ? 隅々まで、な」
「まあ……! 喜んで! 陛下の指輪の溝に溜まったわずかな角質まで、私の舌で――」
「そこまでだ。変態性が漏れ出しているぞ」
皇帝陛下とのやり取りは、今や帝国でも「名物」となっていた。
私が印章を愛し、印章が私を愛する。
この歪で完璧な関係が、大陸に未曾有の平和をもたらしたのだ。
◇
平和な帝国の光景とは対照的に、かつての「アステリア王国」……現在は帝国の「アステリア特別管区」へと格下げされた土地では、一つの「教育的指導」が行われていた。
私は、視察と称して、かつての職場であった文書館を訪れた。
そこには、かつての栄華を失い、ボロボロの作業服に身を包んだ男がいた。
「おい、そこ。まだ磨きが甘いわよ」
私が冷たく声をかけると、男はビクリと肩を揺らした。
エリオット。元、第一王子。
彼は今、国家賠償の返済の一環として、帝国の「低等印章清掃員」としての労役に就いている。
「ひ、フィオナ……様……。こ、これでよろしいでしょうか……」
エリオットが差し出したのは、帝国軍の兵站用に使われる、ごく一般的な真鍮製の受領印。
だが、その印面は黒ずみ、角にはインクのカスが詰まっている。
「……話にならないわ。印章の溝は、歴史の溝よ。そこに汚れを溜めることは、未来を汚すことと同義。殿下――いえ、エリオット。あなたはハンコ一つで国が滅びると言った私を笑ったけれど。今、あなたはハンコ一つを磨けないせいで、今日の食事すら危ういのよ?」
「う、うぅ……。申し訳ありません……。私が馬鹿でした。ハンコなんて、どれも同じだと思って……、お前がどれだけ重要だったか、失って初めて気づいたんだ……っ!」
彼は床に膝をつき、私の足元に縋り付こうとした。
かつて私をゴミのように捨てたその手は、今やインク汚れとヤスリの傷でボロボロだ。
「触らないで。私のドレスの繊維が、あなたの無知で汚れてしまうわ」
私はそっと彼を蹴り飛ばし、懐から一つの道具を取り出した。
あの日、彼に踏み潰された、私の大切なルーペ。
帝国の至高の魔導技師たちによって修理され、レンズには「真実を見抜く」魔法が組み込まれた、黄金のルーペだ。
「見て。このレンズ越しに見るあなたは、惨めで、滑稽で……そして、最高に『良い見本』だわ。印章を軽んじた人間が、どのように磨り減っていくかという、ね」
私は彼に、一枚の書類を突きつけた。
それは、彼の「王族籍永久抹消」を証明する公文書。
「さあ、押しなさい。あなたの人生の終焉を、その汚れた手で、自ら刻み込むのよ」
「……あ、あぁ……。あああああっ!!」
エリオットが泣き叫びながら、震える手で受理印を押し下げる。
その印影は、中心がズレ、かすれ、情けないほどに歪んでいた。
あぁ、素晴らしい。
これほどまでに「敗北」を体現した印影、私のコレクションの中でもトップクラスの醜悪美だわ。
◇
視察を終え、帝宮へ戻る馬車の中。
私は一人、黄金のルーペを磨きながら、窓の外に広がる帝都の街並みを眺めていた。
どこを見渡しても、私の管理下にある「正しい印章」が、人々の生活を支えている。
偽造は消え、契約は絶対のものとなり、言葉の重みは朱肉の濃淡によって証明される。
私が望んだ、完璧な世界。
「……ふふ。さて、次はどんな『印』を描こうかしら」
手元には、新しく書き上げた論文の草稿がある。
タイトルは『魔導回路を組み込んだ生体印章による、魂の契約の可能性について』。
これを実用化すれば、愛する人と一生離れないための「不可逆的な刻印」が可能になる。
バタン、と馬車のドアが開いた。
待ちきれないといった様子で、オズワルド陛下が乗り込んでくる。
「戻ったか、フィオナ。……首を長くして待っていたぞ。例の『生体印章』の試作、俺の首筋で試す準備はできている」
「まあ、陛下ったら! そんなに急がなくても、逃げたりしませんわ。……私の愛は、もう陛下の心臓に、深く深く『受理印』を押してありますもの」
私たちは、どちらからともなく手を取り合った。
陛下の大きな手のひらに、私の指先が重なる。
それはまるで、新しい時代の幕開けを告げる、完璧な「調印」のようだった。
かつて、自分を「印章フェチの変態」だと自嘲していた少女は、もういない。
私は、この世界の真理を朱肉に刻む、唯一無二の支配者。
いつか、私と陛下の間に新しい命が宿ったら。
その子が最初に握るおもちゃは、きっと、この世で最も精緻に彫られた「黄金のスタンプ」に違いない。
幸せの重みは、インクの重み。
私の恋と復讐の物語は、永遠に消えない「不滅の印影」となって、歴史の羊皮紙に刻み続けられるのだ。




