第三話 【土下座と鉄槌の賠償裁判】
大陸国際法廷。
そこは、国家間の紛争を「法」と「証拠」によってのみ裁く、冷徹なる真実の聖域。
だが、今日の私は、聖域の厳粛さなど微塵も感じていなかった。
「……ああっ、見てください陛下。あの裁判官が持っているガベル(木槌)! あれは北方の銘木『鉄黒檀』を百年寝かせて削り出した一品ですよ。あの硬度、あの重厚感。あれで叩かれた羊皮紙は、さぞかし心地よい悲鳴を上げるのでしょうね……ッ!」
「フィオナ。今は裁判中だ。鼻息で法廷の湿度を上げるのはやめろ。インクの乾きに影響が出る」
「申し訳ございません陛下。でも、この『法的な正義』が今まさに紙に刻まれようとしている空気……インクの匂い以上に芳醇ですわ!」
私の隣で優雅に足を組むのは、バルトス帝国の若き獅子、オズワルド皇帝陛下。
対する被告席には、かつて私をゴミのように捨てた、エリオット第一王子がいた。
かつての輝かしい金髪はボサボサになり、目の下には巨大なクマ。
彼の手には、私が置いていった「受理印」が握られていた。……あーあ、あんなに雑に握って。印面の温度が体温で上がってしまうじゃない。無作法な男。
「被告、エリオット・フォン・アステリア。……バルトス帝国より提訴された『条約不履行および偽造印使用による損害賠償請求』に対し、反論はあるか?」
裁判官の重厚な声が響く。エリオット殿下は、まるで糸の切れた人形のようにガタガタと震えながら、私を指差した。
「そ、その女だ! すべてはそこにいるフィオナ・エヴァンスが仕組んだことだ! 彼女は我が国の印章管理官でありながら、受理印を細工し、意図的に条約を発効させなかった! これは国家反逆罪だ! 今すぐ彼女を我が国に引き渡し、受理印の封印を解かせるべきだ!」
ほう。
法廷内の視線が、一斉に私に集まる。
私はそっとルーペを置き、ドレスの裾を整えて立ち上がった。
「殿下。お言葉ですが、私はあの日、はっきりと申し上げましたわ。『この条約の印章は偽物である』と。そして『私が受理印を押さなければ間に合う』とも。……それを無視して私を追放し、無理やり受理を強行したのは、どこのどなたでしたかしら?」
「う、うるさい! お前はただのハンコ狂いだ! あんな微細な違い、誰が気づくか! それに、この受理印が動かないのはお前の呪いだ! 今すぐここで押せ! この条約書に判を押して、すべてをなかったことにしろ!」
エリオット殿下が、ボロボロになった条約書を差し出す。
その書類を見た瞬間、私は吐き気を覚えた。
「……汚らわしい」
「なんだと?」
「見てください、その紙面。受理しようと焦って、何度も何度もインクの付いていない受理印を叩きつけた跡がある。紙の繊維が泣いていますわ。それに、あなたの手汗で角がふやけている。……印章を愛さぬ者の無自覚な暴力。あぁ、この書類はもう、公文書としての『純潔』を失っている。死んでいるのも同然ですわ!」
「何を訳のわからないことを……! いいから押せ! 押せと言っているんだ!」
「お断りします」
私は冷たく言い放った。
「そもそも、その条約書に押されている帝国の印。私が鑑定した結果、それは『偽造の偽造』……つまり、帝国がわざと仕掛けた『二重の罠』です」
法廷がざわめく。
私は証拠品として、一枚の拡大投影図を提出した。
「帝国の王印の偽造品は、市場にいくつか出回っています。しかし、この条約書に使われた偽印には、0.02ミリの誤差で『この文書は無効である』という隠し文字が印影の溝に刻まれている。……これは、受領側が『印章の真贋を確認する能力』を欠いていることを証明するためのテストだったのです」
私はエリオット殿下を、憐れみすら込めて見つめた。
「そして殿下は、私の警告を無視してそれを受理した。その瞬間、条約内の第十七条『受領側の過失責任』が発動しました。あなたが『偽物だと見抜けなかった』こと自体が、帝国に対する重大な侮辱であり、契約不履行とみなされたのです」
「な……な、なな……」
「さらに決定的なことを言いましょうか。……殿下、あなたが今持っているその『受理印』。それは、私が去る瞬間に魔力を引き抜いた『ただの真鍮の棒』ですわ」
エリオット殿下が絶望に目を見開く。
「本物の受理印は、私の指紋と魔力、そして『印章への愛』にのみ反応する自律型魔導具。愛のないあなたには、一生、一ミリのインクも吸わせることはできません。……つまり、王国はあの日から一歩も前に進んでいない。ただ、膨れ上がる賠償金の利息だけを積み上げているのです」
裁判官が、無情にもガベルを叩いた。
コン、と高い音が響く。あぁ、いい音。
「判決を言い渡す。アステリア王国の過失は明白。原告であるバルトス帝国の主張を全面的に認め、王国に対し、金貨一千億枚の即時支払いを命じる。……支払いが不可能な場合、王国の所有する全領土、および王族の個人資産をすべて差し押さえの対象とする」
「一千億……!? そんな、我が国の予算の数十年分だぞ! 破産だ、国が滅びてしまう!」
エリオット殿下がその場に膝をついた。
王族のプライドをかなぐり捨て、彼は床を這いずって私の方へ向かってくる。
「フィオナ! フィオナ、悪かった! 俺が悪かった! お前の変態趣味……いや、高尚な趣味を、これからは全力で支援する! 国を挙げて最高のルーペとインクを揃えよう! だから戻ってきてくれ! あの受理印を押してくれぇ!」
あられもない姿。
かつて私を「印章狂い」と罵り、ルーペを踏み潰した男の成れの果てだ。
私は彼を見下し、そっと唇を寄せた。……あ、もちろん耳元にですよ。汚らわしい。
「……殿下。今の私にとって、最高の贅沢が何かご存知かしら?」
「え……? なんだ、金か? 宝石か?」
「いいえ。……これから発行される『王国の全資産差し押さえ令状』。その真っ白で最高級の羊皮紙に、私の新しい受理印を……帝国の至高印を、完璧な角度で押し下げることですわ」
私は、懐から「黄金の印章」を取り出した。
皇帝陛下から賜った、私の魔力にのみ反応して熱を発する、官能的なまでに美しい印章。
「あぁ……想像しただけで、背筋が震えます。王国の終焉を、私のこの手で『刻印』する。……これ以上の快楽が、この世にあるかしら?」
「ひ、ひぃぃぃっ……!!」
エリオット殿下は、私の瞳に宿る狂気に怯え、そのまま白目を剥いて失神した。
あーあ。せっかくの「ざまぁ」の瞬間なのに、寝ちゃうなんて失礼な人。
法廷の出口で、オズワルド陛下が私を待っていた。
「満足か、フィオナ」
「ええ、陛下。……でも、まだ足りませんわ。差し押さえた王宮の地下には、建国以来の古い公文書が山ほど眠っているはず。……それらを一枚一枚、私がじっくりと『再鑑定』して差し上げなくては」
「くく……、強欲な女だ。だが、その執念こそが帝国を支える。……行くぞ。祝杯の代わりに、新しく開発した『超高粘度インク』の試作を見せてやろう」
「まあ! 陛下、大好きですわ!」
私は皇帝陛下の腕に抱きつき、法廷を後にした。
背後では、没落が確定した王国の貴族たちが、阿鼻叫喚の声を上げていたけれど。
そんな雑音、今の私の耳には届かない。
私の頭の中にあるのは、これから出会うであろう「至高の印影」のことだけ。
王国の滅亡? そんなもの、私のコレクションの一ページを飾る、ちょっとした「朱」に過ぎないのだから。




