第ニ話 【帝国の寵愛と王国の焦燥】
「止まって! 止まってください! その紋章の『彫り角』を見せて! 今すぐ! 舐めるように見せて頂戴!」
私は、全力で疾走していた。
国境の検問所を通り過ぎようとしていた、バルトス帝国の豪華な馬車。
その扉に刻まれた、あまりにも美しい「黄金の紋章」が、私の理性を粉々に粉砕したのだ。
黄金の地金に直接彫り込まれた、流麗なる双頭の鷲。
おそらく、名匠が極細のタガネで数万回と叩き、命を削って刻んだ逸品。
その溝の深さ、影の落ち方、そして……金属でありながら、まるで生きているかのようなしなやかな毛並みの表現。
「ハァ……ハァ……ッ! 素晴らしい! この反射率、純度九十九パーセントの金に、微量のミスリルを混ぜて硬度を稼いでいるわね!? だからこそ、この鋭いエッジが保たれているんだわ! あぁ、抱きしめたい! その角で私の皮膚を優しく切り裂いてほしい!」
「な、なんだこの女は!? 賊か、それとも刺客か!?」
馬車を護衛していた騎士たちが、一斉に剣を抜く。
当たり前である。国境で身なりのいい女が、絶叫しながら馬車に体当たりしようとしているのだ。客観的に見れば、自爆テロの類にしか見えないだろう。
「待て。その者は武器を持っていない」
馬車の窓が開き、中から一人の男が顔を出した。
その瞬間、私は硬直した。
整った銀髪、氷のように冷徹だが、知性の光を宿した碧眼。
バルトス帝国の若き皇帝、オズワルド・フォン・バルトス。
世界で最も「公文書の美しさ」を解する男として、印章界隈で有名な御方だ。
「……そこの娘。今の叫び、もう一度言ってみろ」
「はい! その紋章の彫り角が、完璧な十五度の鋭角を維持しており、光の屈折によって鷲の目が瞬きしているように見えるのは、彫り師の執念の賜物であり、この国にこれほどまでの芸術を理解する文化があることに、私は今、猛烈に感動しております、と申し上げました!」
「…………」
オズワルド皇帝は無言で馬車から降りると、私の目の前に立った。
そして、私の顔をじっと覗き込む。
「貴様、名を何という」
「フィオナ・エヴァンス。……ついさっきまで、隣の王国の印章管理官をやっておりました。今は、ただのハンコ狂いです」
「印章管理官か。……ふん、あの無能な王子が治める国か。フィオナ、貴様に問う。この書類に押されている印をどう思う」
皇帝が差し出したのは、帝国内部で回覧されているという「地方徴税報告書」だった。
私はそれを受け取った瞬間、鼻をヒクつかせた。
「……嗅ぐな。読むのだ」
「いえ、陛下一大事です。これ、匂います。安物の香水の匂いと、腐った油の臭いが混じっています。……そしてこの印影。あぁ、なんてこと! これは陵辱です! 神聖なる公印が、まるで泥酔した役人の指先で捏ねられたかのような、卑猥な歪みを見せています!」
私はルーペ(予備の十倍レンズ)を取り出し、紙にへばりついた。
「見てください。この『帝王』の文字のハネ。本物の印章なら、ここは繊維を押し潰すように重厚な圧がかかるはずなのに、これは上辺だけを撫でたような、軽薄なインクの乗りです。……陛下、これは『印章の指紋』が一致しません。この徴税官、古い印章を蜜蝋で型取りして、偽造印を作りましたね? しかも、その型取りの際に、指の脂を印面に残したまま彫り直しやがった……ッ! 万死! 万死に値する、印章への冒涜ですわ!!」
「…………ほう」
皇帝の瞳に、ギラリとした熱が宿った。
「その通りだ。この徴税官には横領の疑いがあったが、決定的な証拠が掴めずにいた。……まさか、印面の『指の脂による歪み』まで見抜くとはな」
皇帝はニヤリと不敵に笑い、私の肩を抱き寄せた。
「面白い。フィオナ・エヴァンス。貴様を帝国直属の『至高印章官』として採用する。貴様のその変態的な執念、我が帝国の法秩序を守るために使わせてやろう」
「……はぁぁん! 至高! いい響き! 陛下の公文書、毎日拝ませていただけるんですか!? あの黄金の印、私が毎日、最高級の鹿皮で磨き上げてもよろしいのでしょうか!?」
「許可する。存分に愛でるがいい」
こうして私は、追放からわずか数時間で、大陸最強帝国の最高幹部(ハンコ担当)に成り上がったのである。
◇
一方その頃。
私が捨て去った王国では、地獄の蓋が開こうとしていた。
「どういうことだ……。なぜ、受理印が押せない!?」
王宮の執務室。エリオット第一王子は、山のように積まれた公文書を前に、髪を掻き乱していた。
彼の手には、フィオナが置いていった「受理印」がある。
だが、彼がどれだけ力一杯紙に叩きつけても、印章はピクリともインクを吸わず、紙には何も残らない。
「殿下! 報告します! 隣国バルトス帝国より、緊急の『支払督促状』が届きました!」
衛兵が飛び込んできた。その顔は土気色だ。
「なんだと? まだ条約を結んだばかりだろう!」
「それが……その条約の『印章に不備があった場合、受領側が全責任を負う』という特約に基づき、あちら側から『我が国の大切な王印を、貴国が受理の際に破損させた、あるいは偽物とすり替えた疑いがある』と主張されております!」
「な、何だと!? そんな馬鹿な!」
「さらに、我が国が提出した条約書の控えに、肝心の『受理印』が押されていないことを理由に、条約の和平項目のみが無効化……! あちら側は、過去百年に遡る国境紛争の賠償金として、金貨一千億枚の支払いを要求しております! 拒否すれば即刻、開戦だと……!」
エリオット王子は、手に持っていた受理印を凝視した。
フィオナが言っていたことを思い出す。
――『受理印を押せるのは私だけです。私がいない王宮で、誰が押そうとしても、この印章は決してインクを吸いません』。
「……あ、あの女……ッ!!」
ようやく気づいたのだ。
フィオナ・エヴァンスという「印章狂い」が、いかに異常な執念で、王国の法秩序のすべてを「自分にしか扱えない印」に集約させていたかを。
彼女がいなければ、王国は一通の契約書すら正式に受理できず、国際社会においては「契約能力のない無能国家」として、なぶり殺しにされる運命にあることを。
「探せ! フィオナを今すぐ連れ戻せ! 国境を越えたのなら、金でも何でも積んで連れ帰るんだ!」
「無理です殿下! フィオナ様はすでに、帝国の皇帝陛下に謁見し、あちらの『至高印章官』に就任されたとの情報が……!」
「……は?」
エリオット王子の手から、受理印が力なく転げ落ちた。
その瞬間、王宮の窓の外で、帝国の宣戦布告を告げる角笛が、高らかに鳴り響いた。
◇
そんな王国の阿鼻叫喚など、今の私には心地よいBGMですらない。
「あぁ……陛下、この新しい印章、最高ですわ……」
帝国の皇立工房。
私は今、皇帝陛下と二人きりで、新開発の「偽造不可・魔導印章」を眺めていた。
素材は、ドラゴンの牙を削り出したもの。
インクは、私の魔力にのみ反応して発色する、特殊な感熱性液体。
「どうだ、フィオナ。これならば、貴様以外の何者も、帝国の意志を代筆することはできん」
「素晴らしいです。この、紙の裏側まで熱でじわりと浸透する官能的な感覚……。あぁ、この印で、王国への『差し押さえ令状』に判を押すのが楽しみで仕方がありません」
私は、まだ何も記されていない白い羊皮紙を、そっと撫でた。
「陛下。王国は、印章の価値を軽んじました。それは、言葉の重みを、契約の神聖さを汚したのと同じことです。……あんな汚れた印しか扱えない国、一度真っさらに拭き取って(クリーニング)、新しく綺麗な印を押し直してあげましょう?」
「くく……、残忍な女だ。気に入った」
皇帝の大きな手が、私の頭を優しく撫でる。
その指先には、歴史を動かす重厚な金の指輪が輝いていた。
私は確信していた。
これから王国の連中が、どれほど必死に私を呼び戻そうと、どれほど涙を流して謝罪しようと、もう遅い。
私のルーペを、私の誇りを踏みにじった罪は、国家の破産という「消えない刻印」となって、彼らの歴史に刻まれることになるのだから。
さて。
次はどの「印章」を愛でてあげようかしら。
帝国の宝物庫には、まだ私が手をつけていない、伝説の古い契約書が山ほど眠っているという。
私の印章フェチによる、世界改造計画。
王国の悲鳴を朱肉の香りに変えて、物語は加速していく。




