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第一話 【偽印と追放、破滅への調印】


 ――ドスッ。


 重厚な、あまりにも重厚な音が静まり返った謁見の間に響いた。


 それは隣国バルトス帝国との「国境線画定に関する和平条約書」に、帝国の特使が「王印」を押し付けた音だ。


「あぁ……っ、ふぅ、ふぅ……ッ!!」


 私、フィオナ・エヴァンスはその音だけで昇天しそうになっていた。

 王立文書館の印章管理官。それが私の役職だ。世間からは「ただのハンコ番」と蔑まれているけれど、私にとっては天職以外の何物でもない。

 床に這いつくばるようにして、私はその条約書を凝視する。


 見て。あの朱肉の乗り。

 帝国の伝統的な「竜血インク」特有の、わずかに粘り気のある光沢。

 紙の繊維の奥深くまで、強引かつ情熱的に蹂躙し、染み込んでいく。

 それはまるで、処女の雪原を軍靴で踏み荒らすような……背徳的な官能。

 たまらない。今すぐあのインクの匂いを肺いっぱいに吸い込みたい。なんならあの印影を指先でなぞり、その凹凸を全身で感じたい。


「おい、フィオナ。いつまでそうしている。早く確認を済ませろ」


 上から降ってきたのは、この国の第一王子、エリオットの冷え切った声だった。

 彼は金髪をなでつけ、いかにも「高貴な俺様」という顔で私を見下している。


「あ、あぁ、殿下……少々お待ちを。今、この『印章』と対話しているところですので……」

「対話だと? 貴様、またその気味の悪い癖が出ているぞ。ただのハンコだろうが。押してあればそれでいい」

「ただのハンコ……!? 殿下、今なんとおっしゃいましたか!?」


 私はガバリと起き上がった。ルーペを握りしめる手が怒りで震える。


「印章は国家の魂! 彫り師の執念! インクと紙が交わる瞬間の、奇跡の結晶なのです! それを『ただの』だなんて……この不届き者め! 印章の神様に謝りなさい!」

「誰に向かって口を利いている、この印章狂い(スタンプ・ジャンキー)が! 早くしろ、特使をお待たせしているのだぞ!」


 チッと舌打ちをしたエリオット殿下を無視して、私は再び条約書に顔を近づける。

 そして。

 私の心臓は、一気に氷点下まで凍りついた。


「…………え?」


 おかしい。

 この印影。三時方向の、わずかな「欠け」。

 バルトス帝国の王印は、百年前に名匠ザハールが彫った伝説の品だ。その欠けは、先々代の皇帝が暗殺されかけた際、暗殺者の剣を王印で受け止めたときにできた「誉れの傷」のはず。

 だが、この印影にある欠けは――。


「角が……丸い」


 私は震える手でルーペを覗き込む。

 倍率を最大にする。

 見える。肉眼では決して判別できない、0.01ミリ単位の「違和感」。

 本物の傷は、鋼の剣が食い込んだ鋭い断層がある。だがこれは、ヤスリで削ったような……あざとい滑らかさ。

 それにインク。発色は完璧だが、乾く速度が速すぎる。これは「竜血」じゃない。人工的な速乾剤を混ぜた、安物の模造インクだ。


「……殿下。この条約、受理できません」

「何だと?」

「これは『偽物』です。この王印は偽造されたもの。そしてこの条約書そのものが、我が国を陥れるための巧妙な罠です」


 謁見の間が、しんと静まり返った。

 帝国の特使が、眉をピクリと動かす。

 エリオット殿下は一瞬呆然とした後、顔を真っ赤にして叫んだ。


「貴様……! 国家の重要儀式の場で、何を言い出すかと思えば! 特使殿が目の前で押印したのだぞ! それを偽物呼ばわりするとは、帝国への宣戦布告か!?」

「偽物なのは事実です! 見てください、この彫りの甘さ! 私ならこんな恥ずかしい偽造印、一秒だって眺めていられません! 冒涜です! 印章に対する陵辱です!」

「黙れ! 貴様のフェチなど知ったことか! 鑑定の結果に異常なしと書け! 今すぐにだ!」


 エリオット殿下は私の手から無理やり書類を奪い取ろうとした。

 私はそれを必死に抱え込む。


「ダメです! この条約の第十七条を見てください!『印章に不備があった場合、その責任は受領した側が全額を負う』……つまり、これが偽物だと後で発覚したとき、隣国は『お前たちが偽造したんだろう』と言いがかりをつけ、莫大な違和金を請求できる仕組みになっているんです!」

「ふん、そんな細かい文字、誰が読むか! 大体、偽物だという証拠はあるのか? お前の『直感』以外に!」

「直感ではありません、愛です! 私は昨日、本物の王印の印影を三時間眺めていたからわかるんです! あの力強い筆致、インクの吸い込み……この条約書のそれは、まるでお風呂上がりのふやけた指先のように締まりがない!」


 私の必死の訴えに対し、エリオット殿下は冷酷な笑みを浮かべた。


「……もういい。お前には愛想が尽きたよ、フィオナ」

「えっ?」

「お前は以前から、細かい不備を見つけては予算の承認を遅らせ、行政を停滞させてきた。専門家気取りで王族に意見するその態度……。今日この時をもって、お前を印章管理官から解任する。そして――国外追放だ」


 国外、追放。

 その言葉が、私の頭の中で虚しく反響した。


「殿下……本気、ですか? 私がいなくなれば、この国の公文書はすべてガタガタになりますよ? 偽造手形も見抜けなくなりますし、何より、この条約の『最終受理印』を押せるのは私だけです」

「ハッ! 受理印など、そこらの兵士にでも押させれば済む話だ。お前のような偏執狂がいなくなれば、せいせいする。衛兵! この女を直ちに引きずり出せ!」


 屈強な衛兵たちが私の両脇を抱える。

 私は床に落ちたルーペを見つめた。

 エリオット殿下はそのルーペを、無造作に踏み潰した。


「あぁっ……! 私の、私の一番お気に入りの、倍率二十倍特殊研磨レンズが……!!」

「ゴミはゴミ箱へ。狂人は国外へ。……特使殿、失礼した。すぐに別の者に受理印を押させましょう」


 特使は、冷ややかな笑みを浮かべて頷いた。

 その目は、獲物を罠にかけた狩人のそれだった。


 ◇


「……ふぅ。さて、どうしましょうかね」


 数時間後。

 私は国境の門の前に放り出されていた。

 手元にあるのは、着の身着のままの服と、スカートの隠しポケットに滑り込ませた「私専用の特製印章セット」だけ。

 エリオット殿下は、私が「自分の印章」をどれほど厳重に管理しているかを知らなかったらしい。

 王国の公文書を正式に発効させるための「最終受理印ファイナル・スタンプ」。あれは私が、自分の指紋と魔力を登録して自作した、世界に一つだけの魔導印章だ。

 私がいない王宮で、誰が代わりに押そうとしても、あの印章は決してインクを吸わない。

 つまり――。


「あの条約、結局『未完成』のまま受理されたことになるわね」


 未完成の条約。なのに、相手は「成立した」と言い張って賠償金を請求してくるだろう。

 しかも、私が指摘した「偽造印」の特約条項が牙を剥く。

 王国は、存在しない平和のために、国家予算を遥かに超える金を支払うことになるはずだ。


「……ま、いっか。あんなにハンコを愛していない人たちの下で働くのは、もう限界だったし」


 私は大きく伸びをした。

 見上げれば、隣国へ続く街道が伸びている。

 あっちには、まだ見ぬ「印章」がたくさんあるはず。

 聞いたことがある。バルトス帝国の現皇帝は、重度の文房具マニアで、特に印影の美しさにうるさい公文書を好むとか……。


「素敵な印影のためなら、私、なんだってしちゃうかも」


 その時。

 街道の先から、豪華な馬車が近づいてくるのが見えた。

 馬車の扉には、見たこともないほど精緻で、気品溢れる「黄金の紋章」が刻印されている。


「……っ!!」


 私は駆け出した。

 屈辱? 絶望? そんなもの、一瞬で吹き飛んだ。

 あの紋章の、流麗な曲線! わずかに施された梨地の加工!

 あぁ、あれを、あのアートを、もっと近くで拝ませて!


「止まってください! その紋章、今すぐ私に鑑定させてください! 彫り跡の溝に溜まった埃を、私の舌で掃除させてくださいませっ!!」


 私の第二の人生が、猛烈な「フェチ」の咆哮と共に幕を開けた。

 一方その頃、王国では、エリオット殿下が「受理印がどうしても押せない」と、真っ青な顔でハンコを紙に叩きつけていたのだが……。

 そんなことは、今の私にはどうでもいいことだった。

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