王立図書館とお迎え
その日は回路の本と伝達物質の本を手に取った。
『回路力学入門』─ 伝達物質と回路設計の関係
『術式記述法総覧』─ 回路式の書き方、記号の向き、接続規則
『伝達物質総覧 第一巻』 ― 植物・鉱物由来の基礎分類
辞書と百科事典、術語辞典、記号統一録、植物図鑑、鉱物図鑑を並べて見比べながら慎重に読み進める。
ノートの書き込みは徐々に増えてきた。
想像していた以上に回路や伝達物質は繊細で、複雑だった。
まだ全然理解できていないけれど、その片鱗は感じられる。
「え!回路が交差したらダメなの?――爆発の危険性。ブレてもダメなの?」
「伝達物質の種類って一体いくつあるの。しかも配合の割合で出力が変わるって」
いつの間にか引き込まれ、夢中になっていた。
誰かが肩を叩く。ハッと我に返って顔を上げると、いつもの女性司書が立っていた。
「閉館時間です」
見回すとあたりは薄暗くなり始めている。利用客の姿は見えない。どうやら自分が最後の一人らしい。
慌てて立ち上がり本をまとめ始める。
「明日も読まれるのなら取っておきましょうか?」
ありがたい申し出に頷く。二人で手分けして本をまとめ荷物を持って、一階の受付台カウンターの中まで運ぶ。
外は夕闇。ウォード灯が淡い光で図書館内を照らす。
ああ、マーサが心配する。
手続きの間も足踏みしそうになるのを抑え、許可証を返してもらうと礼もそこそこに踵を返した。
「遅い時間ですが、お迎えの方なり、馬車は?」
そこへ司書の怪訝な声がかかる。
イライラが声に乗らないよう気をつけ、振り返る。
「歩いて帰ります」
司書の驚いた顔が目に入る。
「共も連れずお一人でですか?」
頷く。
「それは、いけません。守衛に伝令を頼みましょう。せめてお迎えを寄越すように」
「でも、家に使用人は一人ですし。遠いから時間がかかります」
マーサ一人じゃ迎えになんて来られない。
「遠い、とは?」
「歩いて40分ほど」
司書は呆れ顔で嘆息すると反論を許さない口調でこう言った。
「益々いけません。お一人で返すわけにはまいりません」
司書はハイレーナについてくるよう合図をし、外へ出た。建物の重厚な扉を閉めて施錠し、前庭を抜けて門番詰所に連れてゆく。大ごとになりそうな予感がしてハイレーナは後悔した。
門番詰所には2人の衛兵が待機していた。
「こちらのお嬢様が、お供がおられず、お一人で帰るとおっしゃっておりますの、徒歩で。危険ですので、お迎えをよこすよう伝令をお願いできますか?」
「それは……」
衛兵二人がハイレーナをまじまじと見た。
年配の方がずいっと前に出た。
「もちろんです。伝令を出しましょう」
自宅の場所を説明し、若い衛兵が馬を引き出してきた。
伝令が馬で出発した後、詰所の中で司書と二人腰を下ろして待つ。
迎えがくるまで一緒にいてくれるつもりのようだ。閉館後の仕事の邪魔をしているようで申し訳ない。
近くで見る彼女は整った知的な顔立ちをしている。20代だろうか。思っていたよりも若いのかもしれない。興味が湧いた。そういえば毎日会っているのに、名前すら知らない。
「お名前を伺っても?」
「エルヴァ・ロッシと申します」
「私は」
自己紹介しようとするハイレーナを遮って、エルヴァが言う。
「ハイレーナ・デ・ヴァロネス様。存じ上げております」
そうか、毎日許可証見ているから。お父様が誰だかもわかっているのね。
「ロッシ様は王立図書館の唯一の女性司書なのですか?」
「私に『様』は不要でございます。エルヴァと」
そう断ってから、
「はい。王立図書館司書で女性は私だけです」
司書の試験も難関だと聞いている。女性で司書だけでもすごいのに、王立図書館の司書ならトップクラスだ。
「素晴らしいですね。エルヴァさんは全ての本をご存知のように感じます。何をお願いしても迷いがないですもの。書架をお探しになっている姿を、見たことがありません」
彼女は優秀。毎日その仕事ぶりに接して実感している。
「司書として当然のことです」
表情も声も動かない。引っ詰めた髪に切長の目は冷静そのもの。
ハイレーナは知っている。他の司書たちに頼むと、資料を見て確認し、書架で目当ての本を見つけるのを手間取ったりする。エルヴァにはそれがない。
「古語やベトランタ語も読めるのですか?」
「一通りは」
羨ましい。思わずため息が漏れた。
「尊敬致します」
その時、馬車が勢いよく駆け込んできた。研究所のエンブレムが光る。
門の前で急停車すると同時に扉が開きハロルドが転がり出てきた。
「ハイレーナ!」
「お父様!」
ハイレーナは詰所から出る。年嵩の衛兵が門を開けてくれた。後ろからエルヴァが付いてくる。
ハロルドはハイレーナをつま先から頭のてっぺんまで見回した。
「無事なんだね!よかった――」
そして、後ろに立つエルヴァを認めると駆け寄って両手を掴んだ。
「あなたが、伝令をよこしてくれたのですね。ありがとう、ありがとう。ハイレーナを一人で返さないでいてくれて、本当に!」
と言いながらブンブンと振り回した。
エルヴァはなされるがまま。目を見開いてあっけに取られている。
「ヴァロネス博士?」
エルヴァの目が動揺しているのに気がついて、ハイレーナはハロルドの袖を引いた。
「お父様」
ハッとしたハロルドは慌ててエルヴァの手を離した。
一歩下がったエルヴァはスカートの裾を払って背筋を伸ばした。
いつもの冷静なエルヴァの表情。
「ヴァロネス博士。ハイレーナ様を安全にお渡しできてようございました」
ハイレーナとハロルドの乗った馬車が動き出すと、ハイレーナは気まずくなって親指をこねる。
「お父様、ごめんなさい。日没までには必ず帰るって約束、破ってしまいました」
「うん。びっくりしたよ。屋敷に帰ってきたら、まだハイレーナが帰ってこないとマーサが門の前にいて。そしたら伝令がきたんだ」
父の眉が下がっている。
「ごめんなさい。気がついたら閉館時間になっていて。エルヴァさんが絶対一人で帰っちゃダメだって」
組んでいた指に力が入る。
「怒ってない?」
父の目がじっとハイレーナから離れない。
「怒ってないけれど、もう2度とこんな時間まで外にいないでおくれ。ハイレーナにまで何かあったら僕はもう……」
ハロルドの声が震えて、ハイレーナの胸が痛んだ。
屋敷の玄関を入るとホールにマーサが仁王立ちで待っていた。
これは怒っている。それも相当。
謝る間も与えてもらえず、雷が落ちる。
「だいたい、男爵令嬢が徒歩で図書館まで通われることが非常識なんです。それを旦那様がお許しになっているからといって、暗くなるまで帰ってこないなど!」
「……ごめんなさいマーサ」
首をすくめた。
「若い女性なのですよ!危険が隣り合わせである自覚をお持ちなさいませ」
後ろのハロルドは完全に気配を消している。この家でマーサに反論できる人間はいない。
腕を組んでハイレーナを見下ろすマーサ。一呼吸置いた後、低い声で言った。
「お嬢様はもっと責任感の強い方だと思っておりました。マーサはがっかり致しました」
ハイレーナは俯いて肩を落とした。目に涙が滲む。
ずるい。マーサの「がっかり」が一番きつい。
「――ごめんなさい。2度とやりません」
マーサの視線が刺さる。
長い沈黙の後、マーサが手をぽんと叩いた。
「ではお夕食にいたしましょう。温め直さなければいけませんから」
夕食の煮込みを食べながら、父が蒸し返す。
「やっぱり研究所の馬車で送り向かいする方がいいんじゃないか」
これで何度目かわからない。
ハイレーナはフォークを置いてナプキンで口元を拭って父を見た。
学術書に名前が上がる人、著作が王立図書館にある人。19歳で世界を変えた人。
で、娘に甘い。
「お願い。それだけは嫌です」
『ヴァロネス博士の娘』はこれからついて回る。
できる限りひけらかす行動はしたくない。
「徒歩が危ないのであれば、馬を買ってください。馬で通います」
できないでしょう、視線で挑む。
「ダメだ。馬から落ちたらどうするんだ」
「旦那様、そういう問題じゃありません!」
マーサの呆れ声が響く。
「全くお嬢様も。今夜はここまでになさいませ」
マーサが皿を片付け始めた。戸惑うハイレーナに向けて指を一本立てる。
「デザートのアップルパイはなしです」
「えええ!」
最後までお読みいただきありがとうございます。
次回は3月15日17:00とさせて下さい。




