王立図書館
朝食を済ませてサロンで待っていると、門の呼び鈴が鳴った。
ハイレーナとハロルドは立ち上がった。
マーサが厨房から出てきて、ハイレーナにお弁当のバスケットを渡してくれる。
ハロルドと連れ立って門を出ると研究所のエンブレムが入った黒塗りの馬車が待っていた。
御者がハロルドに丁寧なお辞儀をする。
「本当に、一緒に乗っていかないのかい?」
「お父様。いくらなんでも研究所の馬車は目立ちすぎです。それに、私用で使うのはダメでしょう?」
昨日から何度も繰り返し提案されて、辟易していた。研究所の馬車は目立ちすぎる。親の威光を笠に着ているみたいで落ち着かない。それに、ハイレーナは学院時代に乗合馬車と徒歩で移動していた。40分ほどかかるとはいえ、歩くのには慣れている。
「大丈夫だから。気をつけるし、暗くなる前に帰るから。行ってらっしゃい」
と父の背中を押してようやくハロルドは馬車に乗り込んだ。扉を押さえていた御者が苦笑しながらハイレーナと目を合わせた。
「気をつけるんだよ。暗くなる前に帰ること。いいね」
と窓から顔を出して、そう言い終わる前に馬車は王家の森の方角へ走り出した。
遠くなるまで見送ってから、ハイレーナは王城に向かって歩き出した。
高台に立つ王城を横目に貴族街を抜けてゆく。外堀沿いを左へぐるりと回り込むと王立図書館がある。元離宮だった建物は王城と同じ白。馬車だまりのスペースも広く、重厚な門の前に警備兵が立っている。
警備兵に許可証を見せると、許可証とハイレーナの顔を何度か見たのち門を通してくれる。
芝の敷き詰められた前庭を歩きながら、思い出した。
前回来たときは鬼軍曹アドリアンと一緒だった。慣れた様子のアドリアンは早歩き。その後をついて小走りだったので、前庭の様子なんて大して記憶にない。
玄関扉の前に立つ衛兵2人。ホールの先の扉を開けるとそこは別世界だった。吹き抜けの廊下を飾る丸天井。2階まで続く書架。両側に閲覧室が並ぶ。
何度来ても息を呑む。
受付台の女性司書の視線を感じて、慌てて許可証を差し出した。
アドリアンは勝手知ったる様子で閲覧席へ連れて行ってくれたけれど、ハイレーナには勝手がまるっきりわからない。許可証を確認していた女性司書にリストの1冊目を指して尋ねた。
「ああ、これでしたら二階へ上がって左の四つ目の閲覧室の書架にあります」
知的な印象の彼女は迷わずそう答えた。
教えられた通り古い階段を登って2階へ。上から吹き抜けの廊下を見下ろす。こんなに勉強をしている人がいる。
閲覧室に入ると、大きな机に荷物を置き、書架に向かった。ウォード関係の本が並ぶ。
見つけるのにしばらく時間がかかった。
リストの一冊目『ウォード基礎論』
机の上にペンとインク、ノートを用意した。
必要なことはメモ。
長年の習慣だ。書いていた内容はまるで違うけれど。
そして本を広げた。
ウォードは潜在エネルギーの凝縮相であり、物質相と力学相の位相差により定義される。
非結晶状態における直接観測は不可能であり、解析は転換出力の変位量から逆算される。
本論は出力関数の近似式を基礎として展開する。
意味が頭に入ってこない。何一つ理解できなかった。
「転換出力」「出力関数」「近似式」
単語は読める。
でも文章の内容は意味不明。
学術書ってこういうものなの?
それなりに小説なんか読んできたのに。ここまで違うもの?
全く無用となったノートとインク壺を推しやって、もう一度一ページ目を読む。
やはりわからない。
教科書の文章くらいを想像してた。
お父様、わかりやすいって言ってなかった?
机に突っ伏した。
周りを見回す。
ページをめくる音。ノートにサラサラを書き込む音。
みんな賢そうに見える。
もう一度。
目で文字を追っているだけ。それでも繋がらない。
お昼の鐘が鳴った時にはげっそりしていた。本を閉じて書架に戻し中庭へ出る。緑の芝が目に痛い。真ん中に据えられた噴水の彫刻が眩しかった。中庭を取り囲む回廊を歩いて、眺めの良いベンチに腰掛けた。お弁当を開く。サンドイッチを口に運び、無意識に口を動かしながら、頭の中はさっきまで読んでいた本のことでいっぱいだ。
私、もしかして頭が悪いの?
なんで何もわからないんだろう。
国家試験を目指す?学院生でも落ちこぼれじゃない。
噛んでいたトマトが苦かった。のどかな噴水の音がやけに響く。
包んでいた布がトマトの汁で湿っていて顔を顰めた。
――これじゃ使えない。
膝から払って立ち上がった。
午後もまた同じ本を手に取る。
そうして太陽が傾き始めるまで図書館で過ごした。
帰り道の足取りは重かった。
夕食でお父様に何を言おう。
きっと「どうだった?」と聞かれる。
なんて答えれば良いのか。
朝よりも距離が長く感じる。綺麗な夕焼けが恨めしい。
なんとか日が暮れる前に屋敷へたどり着いた。
「で、今日はどうだった?」
夕食の席でハロルドが尋ねる。ハイレーナはフォークを置いて肩を落とした。
「お父様、私、ダメかもしれません。……何にもわからないの」
「わからない?」
「読んでみたんです。知らない言葉はそんなになかったけど辞書を引いて。なのに全然理解できない……」
ハロルドは驚いた顔をしていた。しばらく考えると、遠慮がちに問いかけた。
「……そうか。ハイレーナはあまり本を読まないのかい?」
「いえ、小説は読みます。読むのも嫌いじゃない。けど、学術書は読んだことが、ありません」
「なるほど。小説か。僕は小説はあまりわからないから。うーん。そうだな。少し考えてみるよ」
その夜は眠りが浅かった。
翌日も同じく意味のつながらない言葉の列を追う。
最後まで行きついたらもう一度最初から。
帰りは小雨が降っていて、さらに気持ちを暗くした。図書館で借りた傘をさしてとぼとぼ帰った。
夕食の席ではハロルドが先に座って待っていた。
「ハイレーナ」
「昨日の話だけれど」
やっぱりきた。
「研究所で聞いてみたんだ」
「やはり初めての学術書は、定義を知らないと繋がらないらしいよ。だからまずは量を読む」
ハロルドがハイレーナの手を取った。
「分からなくても良いからたくさん読む」
「――でも、お父様は『難しい、分からない』と思われたことはないんでしょう?」
慰められてる。
気遣われてる。
「そうだね。僕は小さい頃からそんな本しか読んでこなかったから。僕の知らないことを教えてくれるし、新しい視点を示してくれたりして、ワクワクして読んだな」
ワクワク。アレを?
「だけど、初めてイレーネに小説を借りて読んだときは、なんの話だかさっぱり分からなかったよ。よく分からないって言ったらイレーネにがっかりされた。今でも小説は苦手だよ」
懐かしそうに笑うハロルドがなんだか煩わしい。
「だからね。たくさん読むんだよ。まずは今週中に5冊。それからもう一度話をしよう」
「え?」
5冊。
ゴクリと唾を飲み込んで「はい」と答えた。
次回更新は3月9日(月)です。
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