母の遺品
朝食の後、二人で2階へ階段を登る。
廊下の一番奥にあるお母様の部屋。
ハイレーナと目を合わせ、深呼吸をしたハロルドが扉を押し開いた。
正面の窓から差し込む朝の光の中、天蓋付きの白いベッド、繊細な金細工の蔓草模様が鈍く光る。
ベッドに半身を起こして両手を開いて迎えてくれたお母様の姿が目に浮かぶ。
ハイレーナはベッドに腰掛けると、この大好きな金細工を撫でるのが癖だった。
チェストや本棚にも同じ模様がある。
懐かしそうにチェストを触っていたハロルドは思い出を探るように言った。
「お母様の嫁入り道具だったんだ。伯爵家の自分の部屋からそのまま持ってきたんだよ。イレーネが大のお気に入りで別れたくないと言って」
サイドボードに花が飾ってあった。埃ひとつない。母の生前そのまま。お母様が好きな花。
ほとんどの時間ベッドにいらしたお母様。
少しでも一緒に過ごしたくて、マーサに隠れてベッドに潜り込んで絵本を読んでもらったり、クローゼットから引っ張り出したドレスを被って「おでかけごっこ」をしたり。
お母様が笑うとそれだけで嬉しくなった。
ああ、あの鏡台。
白粉と口紅をイタズラして塗りたくり、お母様に叱られた。
「ハイレーナ!大人のお化粧で――」
怖い声は途中で笑い声に変わって、涙を流しながら笑い続けたんだ。
お母様の声。
「イレーネの日記帳だ」
ライティングデスクの上に置いてある皮の手帳をハロルドが手にとった。
「ああイレーネの筆跡だ」
しばらくページを繰っていた手が止まる。
「これはハイレーナが読むといい。どこかに古いものも残っているはずだ」
そう言って本棚の方へ行って2冊同じ表紙の手帳を引き抜いた。
「読み終わったら僕に渡してくれるかい?多分ハイレーナのことが山のように書いてあるよ」
両手で受け取った皮の手帳は手のひらにちょうど収まる。
今はまだページを捲る勇気がない。今夜、一人の時に心静かに読みたい。
チェストの引き出しを開ける。一段目にはお母様の刺繍の用具と作品が仕舞ってあった。
編みかけのレースを取り出すと、お父様が愛おしそうに撫でた。
二段目の引き出しを開けると、数枚の紙が出てきた。
「あ、これはハイレーナが書いた絵だ」
子供の描いた絵。親子3人笑っている絵のその下に拙い字で書いた「ハイレーナ」の文字。
「はは、これを僕が欲しいと言ったらイレーネと取り合いになってね。そしたらハイレーナがもう一枚描いてあげるから、仲良くしましょうと言って。もう1枚は僕の研究室にあるよ」
ああ確かに、あの頃はお父様と3人でよくこの部屋に集って、たくさんおしゃべりをして笑っていた。
お父様の真似をして図面を描いて、たくさん発明ごっこをした。
そんな絵の束が山のように詰まっていた。
1枚1枚丁寧に見ていたハロルドが、大きな声を上げた。
「はっはぁ、これは初めてハイレーナが作った回路の図面だな。覚えているかい?これを見たイレーネは自分の娘は天才だって言って、大はしゃぎしたんだ。すごいな。何枚もとってある」
お父様の手元を覗き込む。
そういえば、仕事で持ち帰った書類から回路の絵図を見つけて興味を惹かれ、同じようなのを作ると言って何枚も描いたのだった。
「あの時ハイレーナが『あたち大きくなったらお父しゃまとお仕事する!』って言ってくれて、嬉しかったなぁ。イレーネが『あら、お父しゃまと結婚するんじゃなかったの?』と聞いたら、真剣に悩んで。『お父しゃまと結婚してお仕事する。そうしたらずっと一緒!』って。可愛かったなぁ」
ハロルドは満面の笑顔だ。そんな父の顔を見たことがなかった。
発明品の絵が出てくる。
木馬のような落書き。
氷を作る箱やお茶の冷めないポット。
一人でクルクル回る泡立て器。
――これはあちらの世界の道具だ。
どうして――?
絵をめくる手が早くなる。
あれも、これも――。
ハロルドは1枚の絵を示して続ける。
「ああ、このクルクル回る泡立て器は作ってみたんだよ。試作品はしばらくマーサが使って重宝していたけれど、当時のウォードは圧縮率が足りなくて、すぐ動かなくなってね。販売するには至らなかった。しかしハイレーナの発想は昔から素晴らしかったなぁ」
泡立て器?
作ったのですか?
確かにお父様はウォードの研究者で、発明品にも多く携わっている。
けれど、五歳の子供のアイディアを実現させるって、お父様、もしかして親馬鹿なのですか。
でも、泡立て器、見てみたかったな。
――頭に浮かんだアイディアが実現できるなら、きっと面白い。
泡立て器が作れるなら、日本で当たり前にあった、便利なあれやこれやが実現できるかもしれない。
ハロルドは思い出をたぐるように話している。
「これを作るにあたって、高圧縮のウォードがあればもっと活用できるものが作れると実感してね。高圧縮ウォードの研究開発のきっかけになったよ。ふふ、この泡立て器の回路を書くのも大変で、随分文句を言われたなぁ」
泡立て器の絵を見ながら、ふと頭に浮かんだ疑問を問うてみる。
「お父様、ウォードの結晶って、球体なのは何か理由があるのですか?四角ではダメなのですか?」
ハロルドは眺めていたハイレーナの絵から目を離し、ハッと息を呑んで宙を見つめた。
「円形から回路を書き出すのって難しいと習いました。直方体だったら書き出しやすいかなって。例えば1センチくらいの薄さにできれば小さなものも作りやすいんじゃないかって思って」
私、プロの研究者に向かって、何を言っているんだろう。
勢いをつけて言い出したくせに、最後の方は言い訳がましくむにゃむにゃ呟いた。
ハロルドの首がまるでギギギと音を立てるようにしてハイレーナの方へ向いた。
「ハイレーナ!直方体とは考えもしなかった。面白い!最初の結晶が円形に近かったものだから固定観念に囚われていた。直方体か、確かに使いやすくはなる。しかし、圧縮に気を使わなければ、出力にムラが出るかもしれないな」
そうして、ぶつぶつ呟きながら部屋中を歩き始めた。
お父様――。
呆気に取られながら、邪魔をしてはいけないと見守る。
窓際をうろうろしていたハロルドがピタッと動きを止めるとハイレーナを振り向いた。
「で、いったい何を作ろうと思ったんだい?」
「えっと、泡立て器の柄の部分は長いから直方体で棒のようにしたら、より大きなウォードが入れられるかなって。考えたら四角い結晶って見たことがないなと。回路を書き出すのも、もっと簡単になればいいのにと思って」
頭にあったのは四角い乾電池のイメージだった。
「なるほど」
なんだかお父様の顔つきが違う。柔和な目が鋭くなって凛々しい。小柄なはずの身体が存在感を増して大きく見える。
「面白い。うん、面白い。いくつか形状を考える必要がありそうだ。球体のウォードから切り出すか、最初から直方体を目指すか。まずは作ってみてだな。回路専門家にも協力してもらわないと」
アイディアが認められ、嬉しくなったハイレーナは、勢い込んで付け足す。
「いくつか決まった規格があれば、それに合わせて製品を考え出すことができるかも。たとえば、泡立て器みたいに柄が長いもの用なら、柄の長い製品は同じウォードが使えるとか」
「そうだな。形をいくつか考える必要があるな。ハイレーナは合理的な考え方をするね。何を思い描いたんだい?」
ハロルドの問いにしばらく考えを整理する。
思い描いたのはあちらの世界。
「せっかく便利な物が作れるのだから、もっと沢山の人に使ってもらいたい――」
「なるほど。ハイレーナは遠い未来を見ているんだね。賢い子だ」
眼差しを緩めたハロルドがポツリと言った。
「イレーネ、僕らの娘は素晴らしいよ」
「今のうちにアイディア書き留めないと」
と言ってハロルドは三階の書斎へ上がって行った。
うずうずしているハロルドを見て、研究所に引き返すのだろうと予想していたハイレーナは、驚いて父の背中を見た。
昨日から父に驚かされるのは何度目だろう。
「またゆっくりイレーネの部屋を見よう。一緒にな」
と階段の上から振り返ったハロルドが言った。
最後までお読みいただきありがとうございます。次回は『イレーネの日記』見えていなかったものが、少しずつ見えてくる、です。明日、17時に更新予定です。




