卒業と帰宅
六月に入る。
いよいよ年度末試験期間の始まり。
学院のそこここに課題を仕上げる生徒や、レポートを書く生徒がいてザワザワしている。
あれから家には帰っていない。
マーサには「試験が終わるまで集中して勉強したいから」と伝えた。
幸いアドリアンが図書館に連れ出してくれて、鬼軍曹のように厳しくしごいてくれたおかげで、レポートはしっかり書き終わったし、試験の準備もまずまずだ。
「ハナ!これくらい常識ですよ!ここからここまでは丸暗記です!三十分で覚えてください」
「このレポートは理論に穴がありますよ。ボリステレス領土分割の真の理由がごっそり抜けています。書き直しです」
……怖かった。
教授陣には卒業証明だけで式には参加しない旨を伝えていた。
最後の口頭試験を終えた日は、お祭りのような騒ぎだった。
卒業を確信するもの、落第を覚悟するもの。
卒業生たちはパーティのパートナー探しや、ドレス談義で盛り上がっていた。
どこか他人事で、浮かれた同級生たちを眺め、ハナは早々に自室に引き上げる。
荷物をまとめようとクローゼットや本棚の中を整理してゆく。
乙女ゲームのことを書き綴ったノート。
ハイレーナとして目覚めたあの日から、四年間に起こったこと。
そして、帰れなかった時の失望と怒り。最後の一年の孤独。
フレデリカとディミトリ。
ゲームにはフレデリカは存在しなかった。ディミトリもだ。
エステヴァンに冷たくされて、それがハナのせいだと思い込んで、あんな事件を起こす。
ディミトリは自業自得だったかもしれないが、ハナが攻略対象たちと仲良くならなければ、巻き込まれることはなかったかもしれない。自分が被害者だと思っていたけれど、それだけじゃないのかも。
試験結果が張り出される日。
掲示板の前に生徒が集まっていた。
少し遠巻きにされるのも、誰とも言葉を交わさないのもいつも通り。
アメリア様の姿を遠目で見つけた。
「うお〜受かったぜ!」
と拳を突き上げた男子学生が、アメリア様に気がついて傍へ避ける。
「ああ!」
「きゃ〜」
など人それぞれ。
ハイレーナは静かに自分の名前を確認すると、その足で担当教授の元へ向かった。
そのまま学院長室に案内される。卒業証明は院長から渡されるのが決まりだそうだ。
「いろいろあっただろうが、君もこの学院の立派な卒業生だ。その名に恥じないように振る舞いなさい」
と白髪の学院長に言われた。
大きなお世話。
と思いながら、顔だけは殊勝に繕って返事をした。
「はい」
寮の部屋へ戻り、まとめておいた鞄を手にもつと五年間世話になった寮の部屋を後にした。
学院の門を出る。
華がハイレーナになってから五年間過ごした場所。
さようなら。
――乙女ゲームなんかクソくらえ!
乗合馬車を降り城壁の門をくぐる。
貴族街に入る道を歩きながら、鞄がやけに重く感じる。
抜けるような初夏の空が作り物めいて、空っぽの器が残った感覚。
そういえば、この辺りでウイレムに別れを告げたのだった。
「これからどうしよう」
何をして生きていくのか。
帰る可能性はあるのか。
ハイレーナに結婚は難しいだろう。ウイレムの恋人として名が知られすぎている。
成績優秀、品行方正を求められる家庭教師や侍女も不可能だろう。
「ラナスのオットーのところでも行くかなぁ」
屋敷の門が見えてくる。何度目かのため息が出た。
門をくぐると、中からマーサが扉を開けて出迎えてくれた。
「お帰りなさいましお嬢様。卒業おめでとうございます!」
「ハイレーナ、卒業おめでとう」
父ハロルドが立っていた。
「お父様?」
まさか、居るとは思っていなかった。まだ、諸外国巡りの途中ではなかったか。
「お嬢様の卒業に合わせて、ベトランタからお帰りになったのですよ」
マーサが言い添える。
父の姿を見たのは5年ぶり。最後に会ったのは母が亡くなった年の10月。
突然帰宅したハロルドが、青白い顔で「学院に入れ」言い渡した時のこと。一度もハイレーナの顔を見なかった。それだけ命令すると逃げるように研究所へ戻って行った。
あの時の父と、目の前にいる所在なげな姿がつながらない。
立ち尽くすハイレーナの荷物をさっと奪ったマーサ。
「さ、まずはお着替えなさいませ。夕食までは時間がありますから、サロンでお茶を淹れますね」
マーサに背中を押され、二階の自室で制服を脱いで私服に着替える。
尻込みしそうになりながら階下へ降りる。
サロンの空いた扉からソファーに座る父の背中が見えた。
近づく気配に振り向いたハロルドは、ハイレーナを上から下まで眺めた。
「――本当に大きくなったね。僕の記憶にある小さなハイレーナじゃない。イレーネによく似た素敵なレディだ」
向かいの椅子に腰掛けるとマーサがお茶を注いでくれる。
父の顔が見られない。視線を紅茶に留めたままでいると、マーサが言った。
「お二人はじっくりお話になるべきです。たくさん行き違いがあるようですから」
扉の閉まる音を聞きながら湯気の立つ紅茶のカップを取り、一口飲む。味がわからない。
今更、何を話せというのか。
向かい側から父の身じろぐ気配がする。そして、ゆっくりと声が聞こえてきた。
「お母様が亡くなった時。僕はこの世の終わりだと思った」
お父様の声が上擦った。
「……イレーネのいない人生なんて、なんの価値もない……」
ハイレーナの記憶が蘇る。ベッドに横たわる母の真っ白な顔。魂がなくなってしまった亡骸に縋って、泣いて泣いていたハイレーナ。その横で崩れ落ちて動かなくなったハロルド。
「けれど、可愛い娘が……ハイレーナがいたから生き続けなければと……」
開け放たれた窓から木々のざわめきが聞こえてくる。
「あの頃は眠れず、食べられず……言葉も出なくなった」
ハイレーナは目を閉じた。
「こんな姿は見せられないと思って、研究所に逃げたんだ。……僕は、時間が欲しかった……」
「……ハイレーナに笑いかけられるようにならなくてはと……」
閉じたまま、拳を握りしめた。
――私だって同じだった。
「私は、十一歳でした。お父様。ひとりぼっちの屋敷で取り残されて。誰かに抱きしめてほしかった。一緒に眠って欲しかった」
「うん。うん。そうだね。できなくてごめん。放っておいてごめん。ハイレーナも辛かったのに、僕は自分のことばかり」
お父様が席を立って近づいてきた。
ハイレーナの手を取って、それから静かに抱きしめた。
お父様の胸に顔を埋めて上から降ってくる声を聴いている。
「あの頃のことはあまり記憶にないんだ。時間の経過も感じられないほどおかしくなっていた。何か研究をしようと手に取り、気がつくと朝になっていて、誰かが「食べろ」と言って。何を食べても味がなくて」
ああ、そうだった真っ暗な深い森の中を彷徨っているような日々。
「トニス・ペトリを覚えているかい?よく家へ遊びにきて、ハイレーナのおもちゃを作ってくれたおじさんだ」
ハイレーナは小さく頷いた。
「ある日、トニスに殴られてね。『しっかりしろ。学院の入学の手続きは済んだのか』と怒鳴られて。ハイレーナを学院に入れるとイレーネと約束していたんだ。イレーネにとって学院は素晴らしい場所だったから。『イレーネの願いをかなえてやれ!』と怒られた。そんなに時間が経っているなんて、その時初めて気がついた」
「なんとかこの屋敷に戻って、『学院へ行け』と伝えて。研究所へ戻った」
硬い表情の父。
「ハイレーナのことは『これで安心だ』と思った。約束は守れた。娘は学院へ入る。イレーネがそうだったように、たくさんの友達に囲まれて寂しさも紛れる。楽しいことが増え、いろいろな体験をして大人に成長してゆくと」
……なんて勝手な。
「私だって寂しかった。このまま消えてしまいたいと思うほど。一人ぼっちで残されて、誰も知らない学院に放り込まれて。お父様は私を厄介払いしたのだと思った。一度も会いに来てくれなかった!」
華の父親も、一度も会いに来なかった。
不倫して家を出て、離婚してから一度も。
「すまない。どんなに謝っても済むことじゃない。……失った時間は戻ってこない……。ああ、僕は、なんてことをしてしまったんだろう……」
お父様の体が震えて、嗚咽が漏れる。
しばらくして、頭を上げると父の緑色の瞳と目があった。
「これからは、ハイレーナの側にいる。何があっても僕がハイレーナの味方でいる」
ハイレーナは大きく息を吸う。
そして無言で頷いた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
ハイレーナは無事学院を卒業し、これから大きな転換期を迎えます。
第一部学院編終了まで、もう少しの間見守ってやってください。
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