第6話 二人だけのパレット
旧音楽室に突如として現れたあの中年の女性――その氷のように冷徹な眼差しと、有無を言わせぬ高圧的な物言いは、私の心の奥底に、まるで烙印のように深く刻まれた古傷を、何の躊躇もなく、容赦なく抉り開けた。かつて、私の描いた一枚の絵が、私のささやかな自尊心と共に、クラスメイトたちの嘲笑と教師の無理解によってズタズタに引き裂かれ、私という存在そのものを孤独の淵へと突き落とした、あの忌まわしい記憶。その時の、あの女教師の姿が、鮮明で、そして悪夢のような強烈なフラッシュバックとなって脳裏に蘇り、私の全身を、まるで呪縛にかかったかのように凍りつかせる。呼吸は急速に浅くなり、まるで喉に鉛でも詰まったかのように息苦しい。指先は氷のように冷たくなり、感覚が失われていく。目の前の現実が、まるで水底から見上げる水面のようにぐにゃりと歪んで見え、不快な金属音のような耳鳴りが、頭蓋の内側でけたたましく鳴り響いて止まない。声を出そうとしても、喉が締め付けられたように硬直し、ひゅう、という僅かな空気の漏れる音しか出てこない。ただ、心臓だけが、まるで檻の中で暴れる獣のように、肋骨を内側から激しく突き破らんばかりの勢いで、狂ったように鼓動を続けていた。
「こ、こんにちは……あの、私たちは、その……ただ、少し雨宿りを……」
隣で、東雲晶が震える、ほとんど囁きに近いような声で、必死に何かを言い繕おうとしているのが、ぼんやりとした意識の片隅で感じられた。彼女の声には、明らかな動揺と、そして目の前の状況に対する混乱、さらに私に対する切実な心配の色が、痛々しいまでに滲んでいる。けれど、その彼女の、か細くも勇気を振り絞った言葉も、例の女性の、まるで値踏みするかのような冷ややかな一瞥によって、まるで鋭利な刃物で切り捨てられるかのように、無残にも遮られてしまった。
「言い訳は結構よ。ここは生徒が、ましてやあなたたちのような一年生が、気安く立ち入っていい場所ではないことくらい、分かりそうなものでしょう。あなたたち、名前とクラスは? 後で、あなたたちの担任の先生に、この件について厳重に注意していただくように、私から直接報告させてもらうわ。全く、最近の生徒は、基本的な校則すら守れないのかしら」
その女性の言葉は、一言一句が、まるで氷の矢のように冷たく、そして鋭く、私たちの間に漂っていた、あの甘美で、どこか背徳的な秘密の共有が生み出した特別な空気を、容赦なく切り裂き、破壊した。彼女の、化粧気の薄い、整ってはいるがどこか冷酷な顔には、私たちに対する理解や共感など微塵も感じられず、ただ規則を破った愚かな生徒に対する、冷たい、そしてどこか嗜虐的なまでの糾弾の色だけが、爬虫類のように不気味な光をたたえて浮かんでいる。
――ダメだ。逃げなければ。この人と、これ以上関わっては絶対にダメだ。また、あの時と、全く同じことになってしまう。私の大切なものが、また壊されてしまう。
本能的な、生存を賭けたような強烈な恐怖が、私の思考回路を完全に焼き切り、麻痺させた。逃げなければ。この息の詰まるような場所から、この目の前の、悪夢の具現化のような女から、一刻も早く。
私が恐怖に顔面を蒼白にし、全身を小刻みに震わせていると、晶が、まるで私を守る盾になるかのように、咄嗟に私の前に立ちはだかるようにして、その中年の女性に毅然と向き直った。
「申し訳ありませんでした! 全て、私の不注意と認識不足が招いたことです。私たちが、校則をよく確認せずに、この旧音楽室に無断で立ち入ってしまいました。彼女は……水無月さんは、少し気分が悪そうだったので、人目のない場所で少し休ませようと思っただけで、決して、決して悪気があってのことでは……。どうか、今回は、私たちの軽率な行動を見逃していただけないでしょうか。二度とこのようなことはいたしませんので、どうか、どうかお願いします!」
晶の声は、明らかに恐怖で震えながらも、その奥には凛とした、決して折れない強い意志の響きが込められていた。いつもの完璧な優等生の仮面を、まるで鎧のように再びその美しい顔に被り、必死になって、この私を庇おうとしてくれているのが、痛いほど鮮明に伝わってくる。彼女の、普段は華奢で頼りなげに見える細い肩が、私の霞む視界の中で、頼もしく、そしてどこか悲壮なまでに儚げに、固く震えていた。
しかし、その女性は、そんな晶の必死の懇願を、まるで路傍の石でも蹴飛ばすかのように、鼻でフンと笑うかのような冷ややかな態度で、無慈悲に言い放った。
「言い訳や泣き落としは聞き飽きたわ。あら、あなた、確か東雲晶さんだったかしら? 次期生徒会長と目されている、あの優秀な。その生徒会長候補ともあろう人が、率先して校則を破り、このような不純な場所に他の生徒を連れ込むとは、実に嘆かわしいことね。あなたの、素晴らしいと評判のお母様にも、この度のあなたの『模範的』な行動については、きちんと、そして詳細にお伝えする必要がありそうね。さぞかし、お嘆きになることでしょう」
その最後の一言は、晶にとって、最も恐れていた、そして最も効果的な刃であったに違いない。彼女の顔からさっと全ての血の気が引き、まるで精巧な陶器の人形のように蒼白になる。そして、その大きな美しい瞳が、一瞬にして深い絶望の色に染まり、光を失っていくのが、スローモーションのように私の目に映った。
――私のせいで。また、私のせいで。私が、あの時、馬鹿な好奇心からこの場所に来なければ。晶まで、こんな酷い目に遭わせてしまうなんて。どうして私は、いつもこうなんだ。大切なものを、いつも壊してしまう。
強烈な自己嫌悪と、取り返しのつかないことをしてしまったという後悔の念が、まるで巨大な津波のように私を打ちのめし、呼吸すらできなくさせる。
その時だった。まるで、心の奥底で何かがぷつりと切れるような音がした。
「……やめてくださいっ!」
自分でも信じられないほど、か細く、しかし張り裂けんばかりの切実さを込めた声が、私の唇からほとばしり出た。それは、ほとんど叫びに近かった。
晶も、そして、あの氷のような女教師も、まるで幽霊でも見たかのように、意外なものを見るような目で、一斉に私を見た。
「彼女は、東雲さんは、何も悪くありません! 私が……この私が、東雲さんを無理やり、ここに連れてきたんです! 体調が悪かったなんていうのも、全部、全部真っ赤な嘘です! ただ、私が……私が、どうしても静かな場所で、絵を描きたかっただけで……彼女は、私の我儘に付き合わされただけなんです!」
言葉が、まるで堰を切った奔流のように、次から次へと溢れ出てくる。それは、ほとんど支離滅裂な嘘ではあったけれど、この愛しい晶を、この絶望的な窮地から何としても救い出したいという、ただその一心からほとばしり出た、私の魂からの必死の叫びだった。
「ですから、もし罰則があるのなら、それを受けるべきは、全てこの私一人です! 彼女は、東雲さんは、全く、これっぽっちも関係ありませんから!」
私は、まるで鉛のように重く、そして震える足で、それでも必死に一歩前に進み出て、その中年の女性の、私を見下すような冷たい視線を、全身全霊でまっすぐに見据えた。もう、決して逃げるわけにはいかなかった。ここで私が逃げたら、晶は本当に壊れてしまうかもしれない。
その女性は、私のその予想外の、そしてどこか常軌を逸したかのような態度に、一瞬だけ虚を突かれたように言葉を失っていたが、すぐに、まるで獲物を見つけた蛇のような、冷酷で嘲るような笑みを、その薄い唇に浮かべた。
「あら、ずいぶんと殊勝なことをおっしゃるのね、あなた。でも、どちらにしても、あなたたちのこの不純な行動は、看過できない重大な問題よ。校長先生にも、もちろん、この件は詳しく報告させてもらうわ。覚悟しておきなさい」
そう冷たく言い残し、その女性は私たちに軽蔑と侮蔑が混じった最後の一瞥を投げかけてから、まるで汚物でも避けるかのようにさっさと背を向け、旧音楽室を後にした。ぱたん、という、まるで断頭台の刃が落ちるかのような、無機質で冷たい扉の閉まる音が、やけに大きく、そして不吉に、がらんとした部屋の中に響き渡った。
嵐が過ぎ去った後のような、息もできないほどの重苦しい沈黙が、私たち二人を、そして旧音楽室全体を支配した。壁に掛けられた古い時計の秒針の音だけが、やけに大きく、そして無情に時を刻んでいる。
私は、全身の力が、まるで潮が引くように抜けていくのを感じながら、その場にへなへなと座り込みそうになるのを、残された最後の気力で必死で堪えた。心臓はまだ、破裂しそうなほど激しく鼓動を続けている。手足は氷のように冷たいのに、額にはじっとりと脂汗が滲んでいた。
「……ごめん、晶。本当に、ごめん。私のせいで……また、あなたを巻き込んでしまって……」
ようやく絞り出した声は、涙でぐっしょりと濡れ、自分でも聞き取れないほどか細く震えていた。
「ううん、ううん、水無月さんのせいなんかじゃ、絶対にないよ。私が……私が、もっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかったんだから……ごめんね、私がもっと、ちゃんとしていたら……」
晶は、力なく、そしてか細く首を振り、まるで壊れやすいガラス細工でも扱うかのように、私の隣にそっと寄り添うように座り込んだ。その美しい顔は青白く、大きな瞳には深い、底なしの絶望の色が浮かんでいる。
「でも……これから、どうなっちゃうんだろう。お母さんに、あの先生から本当に連絡が行ったら……私……私、もう……」
彼女の声は、今にも泣き出しそうに、そして何か恐ろしいものに怯えるように、痛々しく震えていた。
私は、何も言うことができなかった。どんな慰めの言葉も、どんな励ましの言葉も、今の彼女の深い絶望の前では、あまりにも空虚で、無力なものにしか思えなかったからだ。ただ、彼女の、氷のように冷たくなった手を、まるで溺れる者が藁にもすがるかのように、そっと、しかし力強く握りしめることしかできなかった。その手は、驚くほど細く、そして頼りなげに、私の手の中で微かに震えていた。
その日、私たちは、どちらからともなく美術室へとは向かう気力も起きず、あの忌まわしい旧音楽室での出来事が、私たちの心に、深く、そして決して消えることのないであろう大きな傷跡を残したまま、まるで抜け殻のようにそれぞれの帰路についた。
翌日からの数日間、東雲晶の様子は、誰の目から見ても明らかに沈み込み、憔悴していた。いつも彼女の周りを華やかに彩っていた、あの完璧なまでの輝きは嘘のように影を潜め、授業中もどこか上の空で、時折、この世の終わりのような深いため息をついているのが、遠くからでも見て取れた。生徒会の仕事も、どこか精彩を欠き、普段なら決してしないようなミスを繰り返しているようだった。あの旧音楽室に現れた女性教師が、本当に彼女の母親や校長に報告したのかどうかは、まだ分からない。けれど、その破滅的な可能性は、まるで目に見えない重い鎖のように、常に彼女の心に重く、そして息苦しくのしかかっているのだろう。
私は、そんな彼女の、日に日に生気を失っていく姿を見るたびに、胸が鋭いナイフで抉られるような、激しい痛みに襲われた。自分の無力さと、そして愛する彼女をまたしても巻き込んでしまったことへの、耐え難いほどの罪悪感。それが、まるで溶けた鉛のように、私の心臓のあたりを重く、そして熱く焼灼する。
そして、私自身もまた、あの忌まわしい出来事以来、心のどこかに、正体不明の、しかし確かな不安と恐怖を抱え続けていた。あの氷のような女教師の、私を見下すような冷たい視線が、悪夢のように何度も蘇り、夜中に何度も魘されて目が覚めてしまう。絵を描こうとしても、鉛筆を握る手が震えて、思うように一本の線すら引けない。私の世界を覆っていた灰色の靄が、さらに深い、光の全く届かない絶望的な闇へと、刻一刻と沈んでいくような、そんな圧倒的な感覚だった。
そんな、出口の見えない暗闇の中を彷徨うような日々が続いていた、ある日の放課後。私がいつものように美術室の隅の席で、ただぼんやりと、何も描かれていない真っ白な画用紙を、まるでそれが自分の空っぽな心を映す鏡であるかのように眺めていると、不意に、晶が、何の音も立てずに、まるで幽霊のように私の背後に立っていた。
「……水無月さん」
その声は、いつになく弱々しく、まるで糸のように細く、そして同時に、何か大きな、そして取り返しのつかない決意をしたかのような、悲壮な響きを帯びていた。
私が驚いて振り返ると、彼女は、手にしていた大きな、使い込まれたスケッチブックと、数本の繊細な絵筆、そして色とりどりの絵の具が、まるで涙の跡のようにこびりついた小さなパレットを、私の机の上に、まるで何か大切な形見でも置くかのように、そっと、そして静かに置いた。
「これ……よかったら、水無月さんが、使ってくれないかな」
「え……? これは……東雲さんの、大切なものでしょう……?」
「うん……私の、だったけど……でも、もう、今の私には、必要ないものだから」
彼女は、力なく、そしてどこか自嘲するように、寂しげに微笑んだ。その笑顔は、あまりにも儚く、美しく、そして言葉にならないほどに悲しげで、まるで今にも崩れ落ちてしまいそうな、薄氷のようだった。
「私ね、決めたの。もう、あんな、自分でもコントロールできないような感情に任せて絵を描くのは、きっぱりとやめるって。あんな、衝動的で、破壊的な感情に振り回されるのは、もうたくさん。これからは……もっと、もっと、ちゃんと自分自身を律して、感情をコントロールできるようにならなきゃって、本当に、心の底からそう思ったから」
彼女の言葉は、まるで自分自身に固く言い聞かせているかのようであり、その奥には、悲痛なまでの覚悟が感じられた。
「だから、これは水無月さんにあげる。水無月さんなら……きっと、私なんかよりも、もっとずっと素敵で、もっと意味のある絵が描けると思うから。この子たちも、その方が幸せだと思うし」
私は、言葉を完全に失っていた。彼女の突然の、そしてあまりにも悲痛な決意は、私の理解の範疇を遥かに超えていた。彼女にとって、あの絵は、あの衝動的な色彩の奔流は、唯一無二の魂の叫びであり、そして世界と繋がるための最後の、そして唯一の救いであったはずだ。それを、こんなにもあっさりと手放してしまうということは、彼女が自分自身の人格の一部を、まるで不要なもののように切り捨て、殺してしまうことに等しいのではないか。そんなことが、本当に許されるのだろうか。
「そんな……そんなこと言わないでよ、晶! これは、晶にとって、すごく、すごく大切なものでしょう? 私が、そんなものをもらうわけには……絶対に、いかないよ……!」
「ううん、いいの。本当に、もういいの。私、もう、あの絵筆を握るのが、怖くなっちゃったんだ。あの日以来……旧音楽室で、あの先生に、あんなふうに、私の全てを否定するようなことを言われてから……もう、何も描けなくなっちゃったの……」
彼女の大きな美しい瞳から、堰を切ったように、一筋、また一筋と、透明な涙が静かに流れ落ち、その白い頬を濡らした。
「だから、お願い……水無月さん。私の代わりに、水無月さんが描いてほしいの。水無月さんの、本当の気持ちを、この、私にとってはもう呪いのようなものになってしまったパレットを使って、あなたの魂の色で、思いっきり、自由に表現してほしいの。それが、今の私の、たった一つの願いだから……」
彼女は、私の両手を、まるで祈るかのように、強く、そして懇願するように握りしめた。その手は、やはり氷のように冷たく、そして絶望の中で微かに、しかし必死に震えていた。
私は、彼女の、涙に濡れた真剣な眼差しから、もう決して目を逸らすことができなかった。彼女の深い絶望と、そして私に対する、ほとんど悲痛なまでの切実な願い。それが、まるで鋭い棘のように、私の心の最も柔らかい場所に、深く、深く突き刺さってくる。
この、彼女から託されようとしているパレットは、もう彼女一人の魂の器ではないのかもしれない。これからは、私たちの、二人だけのパレットになるのだ。彼女が、絶望の中で手放そうとしている、傷ついた魂のかけらを、この私が全身全霊で受け止め、そして新たな、まだ誰も見たことのない色彩と希望を与えていく。それは、ある意味で、私たち二人の、より深く、より歪んで、そしてより切実な「共犯関係」の、新たなる始まりを意味しているのかもしれない。
私は、ゆっくりと、しかし力強く、そして彼女の全てを受け入れるかのように、深く頷いた。
「……分かった。ありがとう、晶。このパレットと絵筆、そしてあなたの魂は、私が責任を持って、大切に、大切に使わせてもらうね。約束する」
その私の言葉を聞いて、彼女は、まるで長い悪夢からようやく解放されたかのような、ほんの僅かな、しかし確かな、心の底からの安堵の表情を浮かべた。そして、その目には、微かな、本当にごく微かな光が、再び宿ったように見えた。
その日から、美術室の隅の、私のいつもの古い木の机の上には、常に二つのパレットが、まるで姉妹のように、あるいは合わせ鏡のように、並んで置かれることになった。一つは、私の長年使い古した、様々な色が混ざり合い、くすんでしまったパレット。そしてもう一つは、東雲晶から託された、まだ新しく、そしてどこか悲しい、忘れられない記憶をその表面に宿した、鮮やかな色彩のパレット。
私たちの、傷つき、そして彷徨える魂は、この二つのパレットの上で、これから一体どんな色を混ぜ合わせ、どんな形を、そしてどんな未来を描き出していくのだろうか。それはまだ、私たち自身にも、そして世界の誰にも分からない。ただ、私たちの震える指先は、確かに同じ方向を、そして同じ未来を見つめ始めているような、そんな力強く、そしてどこか切ない予感が、私の胸の中に静かに、しかし確かに満ちていた。たとえそれが、光の一切差さない、深い、深い闇の中へとどこまでも続いていく道であったとしても、もう私たちは、決して一人ではないのだから。