第5話 共犯の匂い
東雲晶と私の間に、あの禁断の蕾のような、甘くも危うい緊張感が生まれてから、数日が過ぎていた。季節は初夏へと移ろい、窓から吹き込む風も、心なしか湿り気を帯び始めている。
私たちの関係は、クラスメイトたちの目には、以前と何ら変わったところはないように映っていたかもしれない。けれど、水面下では、確実に、そして静かに、しかし止められない強い力で何かが変化し始めていた。それは、まるで春先の雪解け水が、気づかぬうちに凍てついた大地を潤し、やがて硬い土の下深くまで染み込んでいくように、ゆっくりと、しかし後戻りのできない流れだった。
美術室での、あの指先のほんの僅かな接触。それは、私たち二人にとって、言葉には決してできない、けれど魂に深く刻まれた誓約のようなものになったのかもしれない。私たちは、互いの最も脆く、最も他人には見せられない秘密めいた部分に、図らずも触れてしまったのだという、消すことのできない刻印。それ以来、私たちはまるで同じ罪を共有する共犯者のように、互いの存在をより強く、そして切実に意識し、同時に、その特別な関係を慎重に、周囲の詮索好きな目から隠すようにして、二人だけの時間を渇望するようになっていた。まるで、禁断の果実の味を知ってしまったかのように。
昼休み、私がいつものように埃っぽく、どこかカビ臭い階段の踊り場で、母が詰めてくれた、彩りの乏しい弁当を広げていると、晶は以前よりもずっと頻繁に、しかし以前よりもずっとさり気ない、計算された素振りで、そこに姿を現すようになった。
「あら、水無月さん、またこんな薄暗いところにいたの? そんなんじゃ、せっかくの美貌が陰気に見えちゃうわよ。たまには、中庭の陽の当たるところとかで食べたらどうかしら」
わざと周囲の生徒たちにも聞こえるような、少しだけお姉さんぶった、クラスの人気者らしい明るい声で、彼女はそう言う。けれど、その切れ長の美しい瞳の奥には、私だけがその意味を正確に読み取れる、親密で、そしてどこか悪戯っぽい光が灯っているのが分かる。そして、周囲に他の生徒がいないことを、さりげなく、しかし確実に確認すると、私の隣に、まるで羽のように軽やかにすとんと腰を下ろし、小さな声で、しかしはっきりとした口調で囁くのだ。
「昨日の古典の小テスト、最後の問題、あれ、絶対範囲外から出題されてなかった? あの先生、時々ああいう凡ミスするから、きっと今回もそうなんだと思うんだけど。後でこっそり職員室に聞きに行ってみようかな」
そんな、日常の些細な出来事、どうでもいいような秘密の共有。けれど、その一つ一つが、私たち二人にとっては、他の誰とも決して分かち合うことのできない、かけがえのない大切な宝物のようなものだった。それは、灰色の世界に生きる私にとって、唯一色を感じられる瞬間だったのかもしれない。
放課後、私が美術室の隅の、自分だけの聖域でいつものようにスケッチブックに向かっていると、彼女は時折、まるで授業で使う資料でも探しに来たかのように、あるいは蓮見先生に何か用事があるかのように、ごく自然な口実をつけて、ひょっこりと顔を出すことがあった。もちろん、美術教師の蓮見先生が席を外している時間や、他の生徒が誰もいない時間帯を、周到に見計らって。
「ねえ、水無月さん、この間のあの、螺旋みたいな絵、続き描いてるの? なんだか、あの絵のこと、時々ふっと思い出しちゃうんだよね。すごく、惹きつけられる何かがあったから」
そして、私の手元を、熱心な眼差しで覗き込みながら、彼女は自分の胸の内に抱える、誰にも打ち明けることのできない息苦しさや、理由もなく内側からこみ上げてくる、自分でも持て余してしまうような破壊的な衝動について、ぽつり、ぽつりと、まるで独白でもするかのように語り始めるのだ。その言葉は、常にどこか断片的で、核心の部分を巧みに避け、オブラートに包んでいるようでもあったけれど、私には、彼女が必死になって適切な言葉を探し、そして私にだけ、その心の分厚い鎧の隙間から、傷つきやすい柔らかな素肌を、ほんの少しだけ見せようとしてくれているのが、痛いほど伝わってきた。
特に、彼女が時折漏らす母親に対する複雑な感情――それは愛憎と呼ぶにはあまりにも純粋で、しかし尊敬と呼ぶにはあまりにも歪んでいる――は、彼女の言葉の端々から、まるで抑えきれない地底のマグマのように、じわりじわりと滲み出ていた。
「母はね、私が『完璧な東雲晶』でいることを、空気のように当たり前のことだと思ってるの。勉強も、運動も、ピアノも、そして生徒会活動も……その全てで、一番で、誰からも賞賛される存在じゃなきゃ、まるで私が存在しないのと同じかのように、許されないような、そんな無言のプレッシャーを、物心ついた頃からずっと、ずっと感じ続けてる。私が、ほんの少しでも母の期待を裏切るようなことをしでかそうものなら、母は、まるでこの世の終わりのような、悲痛で絶望的な顔をするから……だから、私は失敗することが、怖くてたまらないの」
彼女は、まるで遠い昔の出来事を語るかのように、あるいは教会の懺悔室で罪を告白するかのように、細く、そして震える声でそう呟いた。そのいつも完璧に整えられた美しい横顔には、普段学校で浮かべている、あの非の打ちどころのない完璧な微笑みはどこにもなく、代わりに、深い、底なし沼のような疲労と、どこか全てを諦めてしまったかのような、虚無的な影が色濃く宿っている。
「だから、私は演じ続けなきゃいけないのよ。この学校でも、家でも、どこにいても。『東雲晶』という、母が、そして周りのみんなが作り上げた、理想の、完璧な人形を。でもね、水無月さん、時々、本当に息が詰まって、叫び出したくなるくらい苦しくなることがあるの。だって、本当の私は、もっとずっと醜くて、弱くて、どうしようもなく欠陥だらけの人間なのにって……そんな自分を、誰にも見せられないことが、たまらなく辛いの」
そんな彼女の、魂からの絞り出すような、痛切な言葉を聞くたび、私の胸の奥底では、まるで古傷が開いたかのような、鈍い痛みが鋭く共鳴した。それは、私自身の遠い過去の記憶――周囲の無理解と悪意によって心を踏みにじられ、ありのままの自分を頭ごなしに否定され、結果としてクラスの中で完全に孤立していった、あの色を失った灰色の経験――と、否応なく、そして鮮明に重なり合うからだった。
あれは、まだ私が純粋に絵を描くことを楽しめていた、小学生の高学年の頃だったか、あるいは思春期の入口に差し掛かった、中学生の初めの頃だったか、今となっては正確な時期は思い出せない。ただ、私がその時感じていた、言葉にできない名状しがたい衝動のままに、夢中になって描いた一枚の少しグロテスクな絵が、クラスの中で心無い嘲笑の的となり、そして、私という人間を「何を考えているか分からない、気味の悪い子」「関わらない方がいい、ちょっと頭のおかしい子」という、悪意に満ちた冷酷なレッテルで塗り固め、社会的な繋がりから完全に孤立させる、決定的なきっかけとなった、あの忌まわしい出来事。絵は、私にとって唯一の自己表現の手段であり、心の支えであり、そして言葉の代わりに世界と繋がるための救いであったはずなのに、皮肉なことに、それは同時に、私を他者から容赦なく隔絶する、高く冷たい壁にもなってしまったのだ。
あの時の、クラスメイトたちの好奇と軽蔑が混じった、冷たい視線。休み時間になるたびに、私の耳にわざと聞こえるようにひそひそと交わされる、悪意に満ちた残酷な噂話。そして、何よりも私の心を深く、そして決定的に傷つけたのは、それまで一番の親友だと信じて疑わなかったはずの友人からの、無理解と、そして手のひらを返したかのような冷たい拒絶の言葉だった。「ごめんね、澪ちゃんとはもう遊べないの。お母さんが、あなたみたいな子とは付き合っちゃいけないって言うから」。それらの辛い記憶の断片が、まるで昨日のことのように鮮明に、そして生々しく蘇り、私の呼吸を浅くさせ、胸を締め付ける。
私は、晶にその心の傷について、詳しく話したことは一度もない。話せるはずもなかった。それは、私の心の最も奥深く、誰にも触れられたくない場所に、固く固く封印された、決して癒えることのない傷痕なのだから。けれど、晶が母親からの過度な期待や、周囲が作り上げた「完璧な優等生」という虚像に応えられないことへの自己嫌悪を、苦しそうに語る時、私は、まるで自分のことのように、彼女の抱える息苦しさや孤独を、痛いほど鮮明に感じ取ることができた。私たちは、その境遇や抱える問題の形は違うけれど、同じように「普通」という名の、目に見えない、しかし強固な檻の中で、重い鎖に繋がれて喘いでいる、傷ついた魂の同類なのかもしれない、と強く感じていた。だからこそ、彼女の言葉は、私の心に深く、そして強く響くのだ。
私たち二人だけの秘密の場所は、埃っぽい階段の踊り場や、油絵の具の匂いが微かに漂う、誰もいない放課後の美術室だけではなかった。
時には、晶が「絶対に誰にも見つからない、とっておきの場所があるのよ。水無月さんになら、教えてあげてもいいかな」と、悪戯っぽく微笑みながら私の手を引き、あの旧音楽室――本来は鍵がかけられ、誰も立ち入れないはずの、彼女が密かに自分だけの隠れ家として使っている、埃と静寂と、そしてどこか退廃的な空気に満ちた、あの特別な空間――へと誘うこともあった。
そこでは、私たちはまるで世界の終わりに取り残された、最後の二人であるかのような、不思議な、そして倒錯的なまでの解放感と、そして同時に、禁じられた遊びに興じる子供のような、どこか背徳的なスリルを味わうことができた。晶は、部屋の中央に鎮座する、古びたグランドピアノの前に座り、その黒く艶光りする鍵盤の上に、彼女がどこからか持ち込んできて、ピアノの中に隠し持っている、あの衝撃的なスケッチブックのページを、まるで禁断の聖書でもめくるかのように、ゆっくりと、そしてどこか儀式めいた仕草で、少しだけ震える白い指で開いて見せてくれることがあった。
そこに描かれているのは、やはり、あの最初に私が美術室で衝撃を受けた絵と同じように、見る者の神経を逆撫でするかのような、暴力的なまでに鮮烈な色彩と、形にならない、混沌とした感情の奔流だった。けれど、注意深く、そして時間をかけてその絵と向き合っていると、その激しい怒りや破壊衝動の中にも、ほんの僅かな、しかし確かな哀しみや、言葉にならない切なさ、そして、心の奥底から誰かに救いを求めるような、か細く、そして痛切な叫びのようなものも、微かに含まれているように感じられた。それは、彼女の魂の最も純粋な部分からのSOSなのかもしれない。
「……これを描いている時だけは、本当に何も考えなくて済むの。頭の中が空っぽになって、ただ、手が勝手に動いて、気づくと、こんな、自分でもよく分からないものが出来上がってる」
彼女は、まるで自分の分身でもあるかのような、そのおぞましくも美しい作品から、ふいと目を逸らすようにして、そう力なく呟いた。その声には、自分の内側に潜む、制御できない怪物に対する根源的な恐怖と、そしてそれを唯一、何の評価も批判もせずに、ただ黙って受け止めてくれるであろう私への、複雑で、そしてどこか依存にも似た信頼が、色濃く入り混じっているように聞こえた。
私は、いつものように、何も言わずに、ただ黙ってその絵を見つめていた。どんな安易な言葉も、この生々しく、そして痛ましいまでの魂の叫びの前では、あまりにも陳腐で、無力で、そして的外れなものに思えたからだ。けれど、私のこの雄弁な沈黙は、彼女にとって、決して拒絶ではなく、むしろ静かで、そして無条件の受容として伝わっているのかもしれない、と私は心のどこかで淡い期待を抱いていた。私たちは、言葉よりも深いところで、繋がっているのだと信じたかった。
そんな、誰にも知られてはならない秘密の共有が深まるにつれて、私たちの間には、いつしか「共犯者」であるかのような、濃密で、そしてどこか危険な香りのする連帯感が芽生え始めていた。それは、決して世間一般で言うところの、健全で明るい友情とは言えないのかもしれない。互いの心の最も暗く、最も醜い部分を覗き込み、そして互いの癒えない傷を舐め合うような、どこか歪で、危うさに満ちた、共依存に近い関係。けれど、その背徳的なまでの危うさこそが、私たち二人にとっては、抗いがたいほどに甘美な、そして麻薬のような毒として感じられた。私たちは、互いのどうしようもない孤独を埋め合わせるために、互いを狂おしいほどに必要としていたのだ。
晶は、私が彼女の秘密のスケッチブックの絵を、そして彼女の硝子のように脆く、傷つきやすい内面を、誰にも告げ口することなく、ただ黙って静かに受け止めていることに、深い、ほとんど宗教的なまでの安堵と、そして絶対的な信頼を寄せているようだった。そして私は、そんな彼女の、世界でたった一人の理解者(少なくとも、そう強く思いたかった)であるという事実に、どこか倒錯した、甘美な優越感と、そして彼女を、この残酷な世界から、何があっても守り抜かなければならないという、ほとんど強迫観念に近いような、強い使命感のようなものを、心の奥底で感じ始めていた。それは、まるで壊れやすい宝物を守る番人のような心境だった。
その日も、私たちは放課後、他の生徒たちが部活動や帰宅の途について人気がなくなったのを見計らって、あの旧音楽室で落ち合い、いつものように他愛のない、しかし私たちにとっては重要な意味を持つ言葉を、囁くように交わしていた。窓から差し込む遅い午後の西日が、部屋全体をノスタルジックなオレンジ色に染め上げ、埃っぽかったはずの、忘れ去られたような空間が、まるでセピア色の古い夢の中の一場面のように、幻想的で美しく見えた。
「ねえ、水無月さんって、どうしてそんなに、人の心の奥底まで見透かすような、鋭い絵が描けるの? 何か、特別な才能とか、あるいは特別な訓練とかを、小さい頃から受けてたことがあるの?」
晶が、古びたグランドピアノの、黄ばんでひび割れた鍵盤を、まるで愛おしむかのように、細く白い指でそっとなぞりながら、不意にそんなことを尋ねてきた。その声は、夕暮れの静寂の中に、小さな波紋のように広がった。
「別に……そんな大袈裟なものじゃないよ。ただ、小さい頃から、言葉で上手く自分の気持ちを表現するのが苦手で……気づくといつも、何か絵を描いてただけ。それしか、自分という存在を、この世界に繋ぎ止めておく方法を知らなかったから」
私は、部屋の隅に立てかけられた、弦の切れた古いチェロの、滑らかなネックの部分を、無意識のうちに指でなぞりながら、どこか遠くを見るような目で、そう正直に答えた。
「そっか……。私には、そんなふうに、何かに夢中になって自分を表現できるようなものが、昔から何もなかったな……。ピアノも、勉強も、結局は親に褒められたい一心でやってただけだし……。いつも、周りの人の顔色ばかり窺って、自分が本当に何をしたいのか、何を感じているのかさえ、だんだん分からなくなっちゃってたから」
彼女の声には、深い後悔と、そして取り戻すことのできない、失われた純粋な時間への、痛切な哀惜の念が滲んでいた。その横顔は、夕陽の赤い光を浴びて、まるで聖母像のように美しく、そしてどこまでも悲しげに見えた。
その時だった。
不意に、旧音楽室の、固く閉ざされていたはずの扉が、何の予兆もなく、がらり、と誰かが乱暴に開ける音がした。そして、ノックもせずに、土足で人の心に踏み込んでくるかのような、無遠慮な足音が、私たちの聖域に響き渡った。
驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは、私たちにとっては全く見慣れない、四十代後半から五十代前半くらいと思われる、中年の女性だった。きっちりと着こなした、地味な色合いのスーツ。一丝の乱れもなくまとめられた、いかにも堅物そうな髪型。そして、どこか神経質そうで、値踏みするような、鋭く冷たい目つき。その女性は、私たちのことなどまるで存在しないかのように、あるいは汚らわしいものでも見るかのように、部屋の中を威圧するようにゆっくりと見回し、そして、低い、しかしよく通る、有無を言わせぬような声で、私たちに向かって言った。
「あら、あなたたち、こんな薄汚いところで、一体何を油を売っているのかしら? ここは関係者以外、立入禁止のはずよ。まったく、最近の生徒は、本当に校則というものを理解しているのかしらね……嘆かわしいわ」
その、人を人とも思わないかのような、高圧的な声。その、有無を言わせぬような、一方的な口調。そして、その、心の奥底まで見透かそうとするかのような、傲慢なまでの冷たい態度。
それらは全て、私の心の最も深い場所に、まるで悪夢のようにこびりついていた、忌まわしい記憶の分厚い蓋を、何の躊躇いもなく、容赦なくこじ開けた。
――あの人だ。あの時の、あの女教師と、同じ種類の人間だ。
いや、正確には、あの人物そのものではない。けれど、あまりにも、あまりにも似すぎていた。かつて、私の描いた、魂を込めた一枚の絵を、心無い言葉で嘲笑し、私の純粋な心をズタズタに引き裂き、そして、私という存在を「普通ではない、関わるべきではない異物」として、クラスという小さな社会から冷酷に排除しようとした、あの時の、あの忘れもしない、担任教師の姿に。あの女の、凍るような冷たい目に。
全身の血の気が、まるで氷水を浴びせられたかのように、さっと引いていくのを感じた。呼吸が止まりそうになり、手足の感覚が急速に麻痺していく。目の前が、再びあの頃の、光の一切差さない、絶望的なまでに深い灰色に、ゆっくりと、しかし確実に塗りつぶされていくような、圧倒的な恐怖感。
私は、まるで蛇に睨まれた蛙のように、凍り付いたようにその場から一歩も動けず、ただ、その見知らぬ女性の、冷酷なまでに無表情な顔を、呆然と見つめていることしかできなかった。声も出せない。
隣で、晶が小さく息を呑む気配がした。そして、私の異常に気づいたのか、彼女が心配そうに、そして怯えたように、私の名を呼ぶ声が、まるで深い霧の向こうから、あるいは遠い世界から聞こえてくるかのように、微かに、そして頼りなげに、私の鼓膜を震わせた。
私の心の奥底で、何か、ずっと頑なに守り続けてきた、大切で、そして脆い何かが、大きな音を立てて、無残に崩れ落ちようとしていた。