第4話 禁断の蕾
あの夕暮れの灯台での一件以来、東雲晶の態度は、目に見えてどこかぎこちなく、そして私に対して壁を作るようになったように感じられた。それは、あからさまな拒絶というわけではない。けれど、以前のように気軽に声をかけてくることも、昼休みに私の隣で弁当を広げることも、ぴたりと無くなってしまった。
橘穂乃花に、私たち二人が親密にしているところを見られたことが、彼女の中で想像以上に大きな棘となり、深く突き刺さっているようだった。無理もないのかもしれない、と私は頭の片隅で冷静に理解しようと努めた。完璧な優等生であり、常にクラスの中心にいる彼女にとって、私のような日陰の存在、その他大勢の生徒の一人でしかない人間と親密な関係にあると周囲に認識されるのは、彼女が築き上げてきた「東雲晶」というパブリックイメージを揺るがしかねない、避けたい事態だったのだろう。それは、まるで美しい白鳥が、泥に塗れたカラスと戯れているのを見られるようなものなのかもしれない。
頭では、そうやって必死に彼女の行動を正当化しようとしても、私の胸の奥底では、鉛を飲み込んだような重苦しさと、ちくりとした鋭い痛みが、日増しに大きくなっていくのを止めることはできなかった。
灯台で共有した、あの穏やかで、言葉では言い表せないほどに特別だった時間は、まるで儚い夢か、あるいは美しい蜃気楼だったのだろうか。そんなやるせない疑念が、まるで黒い染みのように、私の心にじわじわと広がっていく。
そんなある日の放課後。相変わらず天気はぱっとせず、空には分厚い灰色の雲が低く垂れ込めていた。まるで、今の私の心模様をそのまま空に映し出したかのようだ。
私はいつものように美術室の隅の席で、目の前のスケッチブックを広げてはいたものの、鉛筆はほとんど進まない。指先は空しく画用紙の上を彷徨うだけで、何の形も生み出せないでいた。頭の中を占めているのは、やはり東雲晶のことばかりだった。彼女が浮かべる、あの完璧なまでに計算された美しい笑顔、その笑顔の裏に隠された、硝子細工のような脆さ、そして、灯台で、ほんの一瞬だけ私だけに見せてくれた、素顔に近い、どこか幼さを残した安心しきった表情。それらが、万華鏡の模様のようにくるくると入れ替わり、私の心を容赦なくかき乱す。
――もっと、もっと彼女のことを知りたい。本当の彼女に触れたい。
そんな、抗いがたいほどの強い欲求が、自分の中に明確な形を持って芽生えていることに、私はもうとっくに気づいていた。それは、今まで私が他者に対して抱いたことのない、熱を帯びた、ほとんど飢餓感にも似た強い渇望だった。
窓の外からは、他の生徒たちが部活動に励む喧騒が遠くに聞こえてくる。その活気のある声が、今の私の孤独感をより一層際立たせているかのようだった。
不意に、美術室の古びた引き戸が、きぃ、と小さな軋み音を立てて静かに開いた。どうせまた、蓮見先生がいつものように気怠そうに入ってきたのだろうと思い、特に顔を上げることもなく、スケッチブックに意味のない線を書き殴っていた。
けれど、近づいてくる足音は、先生のそれとは少し違う、もっと軽やかで、そしてどこかためらいを含んだものだった。訝しく思い顔を上げると、そこに立っていたのは、予想もしなかった人物――東雲晶だった。少し俯き加減で、長い睫毛が作る影がその白い頬に落ちている。どこか逡巡するような、何か言い出せずにいるような、そんな複雑な表情を浮かべていた。その手は、制服のスカートの生地をきつく握りしめている。
「……水無月さん、あの……今、少しいいかな」
その声は、以前よりもずっとか細く、自信なさげに震えていた。まるで、迷子の子供が助けを求めるような、そんな頼りなさを孕んでいる。
「うん……別に、大丈夫だけど。どうかしたの?」
私は反射的に鉛筆を置き、彼女に向き直る。心臓が、予期せぬ彼女の来訪に、期待と不安で、まるで警鐘のように大きく、そして速く高鳴り始めた。
彼女はゆっくりと、まるで何か重い鎖でも引きずっているかのように、私の席のそばまで歩いてくると、私のスケッチブックに視線を落とした。そこには、先ほどまで私が描き殴っていた、感情の行き場を失ったかのような、歪で、攻撃的な螺旋模様が、黒々と描かれている。
「これ……水無月さんが、今、描いてるの?」
「うん……まあ、そんなところ」
彼女の問いは、ごくありふれたものだったけれど、その後に続く沈黙の中に、何か言いたげな、しかし言葉にできないでいる気配を、私は敏感に感じ取っていた。まるで、嵐の前の静けさのような、張り詰めた空気。
「……あのさ」
晶が、まるで清水の舞台から飛び降りるかのような、そんな悲壮な覚悟を秘めた表情で、意を決したように口を開いた。
「この間のこと……灯台でのこと、本当にごめん。穂乃花に私たちがああしているところを見られてから、なんだかずっと気まずくって……水無月さんにも、嫌な思いさせちゃったよね」
彼女の言葉に、私は少しだけ、いや、かなり驚いた。彼女の方から、あの灯台での出来事について、こんなふうに真正面から切り出してくるとは、全く想像していなかったからだ。てっきり、彼女はもうあの日のことなど忘れてしまいたい、あるいは無かったことにしたいと思っているのだろうと、勝手に決めつけていた。
「……ううん、別に。私は、気にしてないから」
それは、半分は本当で、そしてもう半分は、彼女を安心させたいがための、優しい嘘だった。気にしていないわけではなかった。むしろ、ずっと気にしていた。けれど、今の彼女の、まるで懺悔をするかのような痛々しい表情を見ていると、彼女を責めることなど、到底できなかった。
「でも……私は、すごく、すごく気にしてたの」
晶は、力なく、そして悲しそうに首を横に振った。その美しい瞳には、うっすらと涙の膜が張っているように見える。
「穂乃花はね、別に悪気があるわけじゃないんだろうけど……ああいうふうに、何でも面白おかしく噂されたり、人のプライベートに土足で踏み込んでくるようなところが、昔からすごく苦手で……怖いんだ。また、何を言われるか分からないって思うと……」
彼女の声には、切実で、そしてどこか怯えたような響きが込められていた。それは、彼女が普段決して他人に見せることのない、弱さの告白だった。
「水無月さんと話してると、飾らない自分でいられるっていうか、なんだか、すごく心が落ち着くから……だから、本当はもっと、もっとたくさん一緒にいたいし、色んなことを話したいって思ってるんだけど……でも、やっぱり、周りの目が気になっちゃって……ごめんね、私、臆病で」
そこまで言って、彼女は言葉を詰まらせ、俯いてしまった。その震える肩が、彼女の内心の葛藤を痛いほど物語っている。
彼女の飾らない、素直な言葉は、私の心の奥深くに、まるで春の陽光のように温かく、そして優しい波紋を広げた。彼女もまた、私と同じように、あの灯台で過ごした特別な時間を、かけがえのない大切な記憶として、胸に抱き続けてくれていたのだ。そして、彼女もまた、私との間に生まれたこの繋がりを、失いたくないと願ってくれていた。その純粋な事実が、どうしようもなく嬉しくて、愛おしくて、胸がいっぱいになった。
「……私も、東雲さんと一緒にいると、すごく安心するよ。こんな気持ちになれたのは、東雲さんが初めてだから」
気づくと、私はそう口にしていた。それは、何の計算も、何の躊躇いもない、私の紛れもない本心だった。
私の正直な言葉に、晶は驚いたように、そして信じられないというように、ゆっくりと顔を上げた。その大きな瞳には、先ほどまでの涙の膜が嘘のように消え去り、代わりに、驚きと、そして微かな喜びの色が浮かんでいる。
「本当……? 本当に、そう思ってくれてるの……?」
「うん、本当だよ」
私は、少しだけ照れくさかったけれど、彼女の目をまっすぐに見つめ返し、はっきりと頷いた。
その瞬間、私たち二人の間に漂っていた、あの重苦しくてぎこちない空気は、まるで魔法が解けたかのように、嘘のように綺麗に消え去っていた。代わりに、そこには、雨上がりの澄み切った空のような、清々しくて、そしてどこか神聖な雰囲気さえ漂う、特別な空気が満ちていた。お互いの魂が、ようやく本当の意味で触れ合えたような、そんな感覚だった。
「ねえ、水無月さんの絵、もっと、もっとちゃんと見てもいいかな?」
晶が、まるで宝物を見つけた子供のような、純粋な好奇心に満ちた目で、私のスケッチブックを、今度は何の遠慮もなく覗き込んできた。その距離の近さに、私の心臓がまた小さく跳ねる。
「え……いや、これは……まだ全然途中だし、それに、あんまり人に見せるような代物じゃ……」
私はいつものように慌ててスケッチブックを閉じようとした。自分の内面の、混沌とした部分を、こうも無防備に曝け出すことには、やはりどうしても慣れない抵抗があったのだ。それは、まるで自分の秘密の日記を読まれるような、そんな気恥ずかしさだった。
「いいじゃん、少しくらい。お願い。私ね、水無月さんの描く絵、本当に好きなんだ。なんていうか……言葉じゃ上手く言えないんだけど、すごく、正直で、嘘がない感じがするから。魂が、そのまま表に出てるみたいで」
彼女は、悪戯っぽく、そしてどこか懇願するような眼差しで私を見つめながら、私の手からスケッチブックを、まるで大切なものを受け取るかのように、優しく、しかし有無を言わさぬ強さで奪い取った。そして、深呼吸を一つすると、期待に胸を膨らませるように、そのページをゆっくりと、一枚、また一枚とめくり始める。
私は、もう逃げ出すこともできず、ただ心臓が飛び出しそうになるのを必死で押さえつけながら、彼女の反応を、まるで判決を待つ罪人のような気持ちで、固唾を飲んで見守った。私の描く、歪で、暗くて、時として攻撃的でさえある、混沌とした色彩と言葉にならない形の世界。それを、この完璧で美しい少女は、一体どう感じるのだろうか。軽蔑されるかもしれない。あるいは、気味悪がられるかもしれない。そんな不安が、私の心を支配していた。
「……すごい……やっぱり、すごいよ、水無月さんの絵は……」
しばらくして、晶が、まるで心の底からの叫びのような、深く、そして熱のこもった感嘆の声を漏らした。その大きな瞳は、普段の冷静さを失い、まるで何かに取り憑かれたかのように真剣な、熱っぽい光を宿して、私の絵の一点を見つめている。
「これとか……この、どうしようもない閉塞感とか、息苦しさとか……なんだか、すごく、すごく分かるような気がする。言葉には絶対にならないんだけど、胸の奥が、ぎゅーって締め付けられるような、そんな感じ……。私だけじゃなかったんだね、こんな気持ち抱えてるのって……」
彼女が震える指先で指さしたのは、何重にも塗り重ねられた黒に近い灰色の背景の中に、ほんの一筋だけ、まるで希望の光を求めるかのように、か細く、しかし必死に、鋭い純白の光が差し込んでいるような、抽象的な絵だった。それは、私自身も無意識のうちに、今の自分の心境を投影して描いていた、特に思い入れの深い一枚だった。
「私には、とてもじゃないけど、こんなふうには描けないな……。私の描くものなんて、ただ感情を紙の上にぶちまけてるだけで、何の技術も、何の抑制もなくて、全然、形になってないから……ぐちゃぐちゃなだけだから」
彼女は、どこか自分を卑下するように、そして少しだけ寂しそうに、力なく呟いた。その声には、深い劣等感と、そして表現することへの渇望が滲んでいる。
「そんなこと、絶対にないよ!」
私は、まるで自分のことのように、彼女の言葉を強く、そして反射的に否定していた。
「東雲さんの絵だって、すごく……ものすごく強くて、一度見たら忘れられないくらい、人の心を激しく揺さぶって、惹きつけるものがあると思う。あの、燃えるような赤と、深く沈む青の色使いなんて、私には絶対に、逆立ちしたって出せない、特別な色だもの。あれは、東雲さんにしか描けない色だよ」
私の、何の計算もない、心の底からの言葉に、晶は驚いたように、そして信じられないというように、ゆっくりと顔を上げた。そして、その白い頬が、夕焼けの空のように、ほんのりと、しかし確実に赤く染まっているのに、私ははっきりと気づいた。
「……あ、ありがとう……水無月さん……そんなふうに言ってくれて……すごく、嬉しい……」
彼女は、まるで大切な宝物をそっと胸に抱くかのように、心の底から嬉しそうに、そして少しだけ照れくさそうに微笑んだ。その笑顔は、今まで私が見た彼女のどの笑顔よりも、ずっと自然で、無防備で、そして息を呑むほどに美しかった。それは、仮面を脱ぎ捨てた、彼女の魂そのものの輝きのように思えた。
その時だった。不意に、彼女が私の描く手元をもっとよく見ようとして、ぐっと身を乗り出した。その拍子に、シャンプーのいい香りがする、彼女の柔らかくて艶やかな黒髪が、ふわりと私の頬を優しくかすめる。そして――。
彼女の細くて長い指先が、スケッチブックを押さえていた私の、少し冷たい手の甲に、そっと、本当にごく僅かに、触れた。
それは、ほんの数秒にも満たない、蝶の羽が触れるような、ごくごく僅かな接触。けれど、その瞬間、まるで予期せぬ高圧電流が全身を貫いたかのように、私の身体はびくりと強張り、呼吸が一瞬止まった。
彼女もまた、まるで熱いものにでも触れたかのように、弾かれたように慌てて手を引っ込め、顔を耳まで真っ赤に染めて俯いてしまった。その動揺は、隠しようもなく明らかだった。
がらんとした美術室の中に、気まずいような、それでいてどこか甘美で、背徳的ですらあるような、言葉では到底形容しがたい、濃密な緊張感が、まるで目に見える靄のように立ち込める。窓の外の、鉛色の重苦しい曇り空とは裏腹に、私たち二人の間には、まるで真夏の陽炎のような、熱く、そして揺らめくような空気が生まれていた。
どちらからともなく、恐る恐る、視線が絡み合う。
彼女の、潤んだ大きな瞳の奥に揺らめいている光は、果たして何を意味しているのだろうか。私と全く同じ、どうしようもない戸惑い? それとも、もっと別の、まだ名前もつけられないような、生まれて初めて感じるような、特別な感情……?
それは、まるで熟しきって今にも枝から落ちそうな、禁断の果実に、どちらからともなく手を伸ばそうとしているかのような、甘美で、そして息詰まるような、危険な予感に満ちた瞬間だった。
私たちの、まだ誰にも知られていないこの特別な関係は、もうただのクラスメイトでも、秘密を共有するだけの単なる友達でもない、もっと深く、もっと複雑で、そしてもっと危うい何かへと、決定的に姿を変えつつあるのかもしれない。
その、まだ硬く閉ざされたままの蕾が、これから一体どんな色の、どんな形の花を咲かせるというのだろうか。あるいは、美しく花開く前に、誰にも知られることなく、静かに散ってしまう運命なのだろうか。
今の私たちには、まだ、何も分からない。
ただ、この激しい胸の高鳴りだけが、まるで真実を告げる鐘の音のように、確かに、そして強く、私たちの間に存在していた。