第2話 雨宿りの告白
東雲晶の問いは、静まり返った夕暮れの美術室の空気を鋭く切り裂いた。それは、予期していた言葉ではあったけれど、実際に彼女の口から発せられると、ずしりとした重みを伴って私の胸にのしかかってくる。
私は息を呑み、咄嗟に言葉を失う。心臓が早鐘のように打ち、指先が微かに震えているのが自分でも分かった。彼女のまっすぐで、どこか探るような光を宿した視線から逃れたくて、反射的に俯いた。床の木目が、やけに鮮明に目に映る。何と答えればいいのだろう。見た、と正直に言うべきか。それとも、知らないふりを通すべきか。どちらの選択肢を選んだとしても、彼女との間に生まれたばかりの、この硝子細工のように脆く、危うい均衡を、決定的に崩してしまうような気がしてならなかった。
「……何かって、一体、何のことかな」
ようやく絞り出した声は、自分でも情けないほど上ずり、震えていた。動揺を隠そうとすればするほど、それは声色や表情に、隠しようもなく滲み出てしまう。まるで、薄氷の上を歩いているような、心許ない感覚だった。
彼女は、私のそんな狼狽した様子を、瞬きもせずじっと見つめていた。その美しい顔立ちからは、感情の起伏を読み取ることが難しい。完璧なポーカーフェイス。ただ、瞳の奥に宿る複雑な影が、昨日よりも少しだけ、ほんの僅かだけ濃くなっているように感じられた。それは、深い森の奥に広がる湖のような、底知れない深淵を思わせた。
「水無月さんなら……もしかしたら、何か気づいているんじゃないかと思って。ううん、気づいていて欲しい、とでも言った方が正しいのかもしれないな」
彼女の声は、独り言のようでもあり、どこか諦めたような響きを帯びていた。それでいて、その奥には、誰かに理解されたいという切実な願いが、微かに、しかし確かに滲み出ているような、そんな不思議な響きを持っていた。まるで、迷子の子供が助けを求めるような、か細い響き。
「気づくって……私が、一体何に?」
重ねて問い返しながらも、私は彼女が何について話しているのかを、本当は痛いほど理解していた。旧音楽室の床に無造作に落ちていた、あの暴力的な色彩の絵。そして、彼女が押し殺していた、魂の叫びにも似た嗚咽。それを、この私が偶然見ていたのではないかと、彼女は疑っているのだ。そして、心のどこかで、その事実を肯定してほしいと願っている。
彼女はふっと、まるで重いため息を吐き出すかのように息を漏らし、夕焼けに染まる窓の外へ視線を移した。空は、まるで彼女の心象風景をそのまま映し出したかのように、燃えるような赤と、深く沈む群青、そしてそれらが混じり合う紫が、複雑なグラデーションを描いていた。
「……ううん、やっぱりなんでもない。忘れて。変なこと聞いて、本当にごめん」
そう言って、彼女は私に背を向け、美術室の出口へと踵を返そうとした。その華奢な背中が、いつもよりもずっと小さく、頼りなげに見える。このまま彼女を行かせてはいけないような気がした。もし、ここで彼女を引き留めなければ、もう二度と、彼女の本当の姿に、その魂の深淵に触れる機会は永遠に訪れないかもしれない。そんな強い予感にも似た衝動に突き動かされるように、私はほとんど無意識のうちに口を開いていた。
「……ピアノの音」
私の言葉に、彼女の動きがぴたりと止まる。まるで、見えない糸で操られていた人形が、ふいにその糸を切られたかのように。
「少しだけ……澄んだピアノの音が聞こえてきたから。それで、誰かいるのかなって……そう思っただけ。それ以外は、何も」
嘘と本当を巧みに織り交ぜた、我ながら苦し紛れの言い訳だった。あの衝撃的なスケッチブックのことは、どうしても、どうしても言い出せなかった。それは、彼女の最も無防備な部分に土足で踏み込むような行為に思えたからだ。
彼女はゆっくりと、まるでスローモーション映像のようにこちらを振り返った。その表情は相変わらず硬かったけれど、少なくとも、先ほどのような張り詰めた、拒絶するような雰囲気は少しだけ和らいでいるように見えた。ほんの少しだけ、警戒心が解けたような。
「……そう。ピアノ、聞こえちゃってたんだね。下手な演奏だったのに」
彼女は力なく小さく呟き、そして、どこか自嘲するように、美しい唇の端を皮肉っぽく歪めた。
「たいした曲じゃないの。昔、少しだけ習っていたことがあって……ただ、指が勝手に、昔覚えたメロディをなぞっただけだから」
その言葉に、私は何も返すことができなかった。彼女の纏う空気が、あまりにも痛々しくて、そして切なくて。まるで、傷ついた小鳥が必死に平静を装っているかのようで、胸が締め付けられるような思いがした。
その日以来、私たち二人の間に、何か目に見えない、けれど確かな繋がりが生まれたような気がした。それは、言葉で説明できるような単純なものではなく、もっと感覚的な、魂のレベルでの結びつきとでも言うべきものだったのかもしれない。
廊下ですれ違う時、以前ならただの風景の一部、あるいは遠い世界の住人だった彼女の存在が、今は鮮明な輪郭と色彩を伴って私の目に映るようになった。彼女もまた、大勢の生徒の中から私を見つけると、ほんの僅かに視線を交わし、微かに口元を、本当にごく微かにだけれど、綻ばせるようになった。それは、他の誰にも向けられない、まるで二人だけの秘密の暗号のような、ささやかな合図だった。
けれど、それ以上の具体的な進展があるわけでもなく、ただ曖昧で、どこか焦れったいような距離感だけが、まるで薄いヴェールのように私たちの間に漂い続けていた。もっと近づきたいのに、どうすればいいのか分からない、そんなもどかしさを、私は日々感じていた。
そんな奇妙な関係性が数日過ぎた、ある日の放課後。その日は朝から空の機嫌が悪く、分厚い鉛色の雲が低く垂れ込めていた。天気予報では午後から晴れると言っていたはずなのに、にわかには信じがたい空模様だった。授業が終わるチャイムが鳴る頃には、まるでバケツを勢いよくひっくり返したかのような、猛烈な勢いの雨が降り始めた。傘を持たない生徒たちは、昇降口で呆然と空を見上げ、あるいは友人同士でため息をつきながら、この突然の豪雨が止むのを待っている。
私は、今日も美術室へ向かうつもりだった。雨音を聞きながら一人で絵を描くのは、むしろ嫌いではなかったからだ。それは、世界の雑音から隔絶された、自分だけの静謐な時間を与えてくれるような気がした。
けれど、昇降口を出て、中庭を横切る渡り廊下を歩いている途中で、先ほどよりも雨足はさらに強まり、風も出てきて、とてもではないが美術室の建物までたどり着けそうにない状況になってしまった。あっという間に制服の肩がじっとりと濡れていく。仕方なく、一番近い軒下――普段は運動部の生徒たちですらあまり寄り付かない、旧体育館の古びた入り口――で、雨が弱まるのを待つことにした。
冷たいコンクリートの壁に背中を預け、まるで灰色のカーテンのように激しく地面を叩きつける雨のスクリーンをぼんやりと眺めていると、不意に、すぐ隣に誰かが慌てた様子で駆け込んできた。その勢いに、小さな水飛沫が私の足元にかかる。
「わ……すごい雨になっちゃった」
その聞き覚えのある、柔らかな声に、私ははっと顔を上げた。
東雲晶だった。彼女も傘を持っていなかったらしく、艶やかな黒髪や制服の肩が雨に濡れて、普段よりも少しだけ幼く、そして無防備に見える。浅く息を切らせながら、細い指先で髪の雫を払い、そして、私の存在に気づいて、少しだけ驚いたように、大きな瞳をぱちりと瞬かせた。
「あ……水無月さん。こんなところで、奇遇だね」
「……東雲さんこそ」
こんな場所で、こんな状況で二人きりになるなんて、想像もしていなかった。予期せぬ偶然に、私の心臓が、また自分勝手に速度を上げていくのを感じる。
「すごい雨だよね。水無月さんも、傘、持ってなかったの?」
「うん……朝は晴れてたから、油断してた」
彼女は私の隣に、少しだけ間隔を空けて並び、同じように降りしきる雨のカーテンを見つめた。狭い軒下では、互いの肩が、意識すれば触れ合いそうなくらいの距離だ。彼女から微かに香る、清潔な石鹸と雨に濡れた草木のような、甘くも爽やかな匂いが鼻腔をくすぐり、私の思考をわずかに麻痺させた。
気まずいような、それでいてどこか期待してしまうような、不思議な沈黙が流れた。何か話さなければと思うけれど、気の利いた言葉など、今の私には到底浮かんでこない。ただ、激しい雨音だけが、まるで私たちの間の緊張感を煽るように、コンクリートの地面を叩き、大きく響いていた。
どれくらいの間、そうしていただろうか。数分だったかもしれないし、もっと長い時間だったのかもしれない。不意に、彼女がぽつりと、まるで独り言のように呟いた。
「……水無月さんは、絵を描いてると、落ち着く?」
その問いは、あまりにも唐突で、それでいて、私の心の最も柔らかな部分を、優しく撫でるように的確に突いていた。
私は驚いて彼女の顔を見た。彼女は、雨空から視線を外さずに、静かに、そしてどこか遠くを見るような目で言葉を続ける。
「何かに没頭してる時って、余計なこと考えなくて済むじゃない? 少しだけ……ほんの少しだけだけど、楽になれるような気がして」
その言葉は、まるで彼女自身のことを語っているかのようだった。旧音楽室で、憑かれたようにピアノを弾いていた時の彼女も、そうだったのだろうか。あの美しい旋律は、彼女にとっての救いだったのだろうか。
「……うん、少しは。何も考えずに、ただ手を動かしてる時だけは」
私は素直に頷いた。それは偽りのない気持ちだったからだ。
「いつも、何を描いてるの? もし、よかったら教えてほしいな」
その問いに、私は少しだけ躊躇した。自分の描くものを、この完璧で美しい少女に、どう説明すればいいのだろう。言葉にならない感情の塊。誰にも理解されることのない、歪で混沌とした形。それは、あまりにも個人的で、内省的すぎる世界だ。
「……別に、たいしたものじゃないよ。これといって決まったテーマがあるわけでもないし。ただ、その時、頭の中に浮かんだものを、そのまま……感情の赴くままに、紙の上にぶつけてるだけ」
「感情の赴くまま、か……」
彼女は何かを噛み締めるように、私の言葉を繰り返した。そして、ようやく私の方へ顔を向けた。その大きな瞳は、雨に濡れた紫陽花のように、しっとりとした潤いを帯びて、どこか物憂げな光をたたえている。
「私ね……時々、どうしようもなく、何かを、誰かを、傷つけたり、めちゃくちゃに壊してしまいたくなる時があるんだ」
彼女の告白は、激しい雨音にかき消されてしまいそうなほど小さな、囁くような声だったけれど、私の耳には、一言一句がはっきりと、そして重く届いた。
――壊したくなる。
その言葉の奥に潜む、抑えきれない破壊衝動が、旧音楽室で見た、あの暴力的なまでに鮮烈な色彩と、鮮明に重なった。
「綺麗なものとか、完璧だって周りから言われるものとか……そういうものを見ていると、無性に、内側から何か黒いものがこみ上げてきて、ぐちゃぐちゃにしてやりたくなるの。自分でも、どうしてそんなこと思うのか、全然分からないんだけど……そんな自分が、すごく怖くて、嫌になる」
彼女の声は、微かに震えていた。雨に濡れた長い睫毛が、小刻みに揺れている。その華奢な肩を抱きしめてあげたいような、そんな衝動に駆られたけれど、私にそんな資格も勇気もない。その横顔は、いつもの完璧で自信に満ちた優等生の姿からは想像もつかないほど、脆く、痛々しく、そして頼りなげに見えた。
「絵を描いてる時だけは……そういう、自分でも持て余してしまうような黒い衝動を、少しだけ形にできるような気がして。誰にも迷惑をかけずに、自分の中だけで、そっと処理できるような……そんな気がするの」
そこまで言って、彼女は言葉を詰まらせ、きつく唇を噛み締めた。俯いた拍子に、濡れた艶やかな前髪から、ぽたり、ぽたりと、透明な雫がコンクリートの床に落ちて、小さな染みを作った。それが雨のせいなのか、それとも……涙なのか、私には判別できなかった。
私は、かけるべき言葉が見つからなかった。どんな言葉も、今の彼女の痛切な告白の前では、陳腐で無力なものに思えたからだ。ただ、彼女の抱える闇が、その孤独が、自分の心の奥底にある、言葉にならない澱のような何かと、強く、深く共鳴するのを感じていた。私もまた、言葉にできない感情を絵に叩きつけることで、かろうじて自分という存在の輪郭を保っているのだから。私たち二人は、まるで合わせ鏡のように、互いの歪んだ部分を映し出しているのかもしれない。
「ごめん……いきなり、こんな、暗くて変な話をしちゃって」
しばらくして、彼女は無理に作ったような笑顔で顔を上げ、力なくそう言った。その笑顔は、あまりにも痛々しくて、正視しているのが辛くなるほどだった。
「誰にも、こんな話したことなかったから……水無月さんになら、何故か話せるような気がして……つい、甘えちゃったみたい」
「……別に、変だなんて思わない」
気づくと、私はそう口にしていた。それは、何の計算もなく、心の底から自然に湧き出てきた言葉だった。
「むしろ……少しだけ、分かるような気がするから」
私の飾らない言葉に、彼女は驚いたように大きく目を見開いた。そして、その大きな瞳が、みるみるうちに潤んでいき、まるで決壊したダムのように、透明な雫が次々と溢れ出してくるのが分かった。
「……み、水無月さん……っ」
彼女の声は、雨音に負けないくらい、しゃくり上げるように震えていた。
「お願いだから……誰にも、絶対に言わないでくれる……? 今の話も……私が、あんな、醜い絵を描いてることも……お願い……っ」
その言葉は、懇願だった。自分の一番弱い部分、醜い部分を曝け出してしまった人間が、必死に誰かに縋ろうとする時の、切実で、痛ましい響き。
彼女の潤んだ瞳が、私をまっすぐに見つめている。その視線は、まるで助けを求めるように揺れていた。その瞳から、もう私は決して目を逸らすことはできない、と強く思った。
私は、ゆっくりと、しかしはっきりと、彼女の目を見て頷いた。
「……うん。絶対に、誰にも言わないよ。約束する」
その瞬間、彼女の瞳から、堰を切ったように大粒の涙が頬を伝って流れ落ちた。それは、まるで長い間、心の奥底に固く封じ込められていた感情が、ほんの少しだけ解放されたかのような、静かで、それでいて深い、浄化の涙のようだった。
激しい雨は、依然として容赦なく降り続いている。けれど、私たちの間に漂っていた、あの息苦しいほどの緊張感や気まずい空気は、いつの間にか嘘のように消え去っていた。
代わりに、そこには、まだ言葉にはできないけれど、確かに存在する、ある種の共犯意識にも似た、特別な感情が芽生え始めていた。
雨上がりの空に、ほんの一瞬だけ架かる虹のように、それはまだ不確かで、いつ消えてしまうかもしれない、儚い絆の始まりだったのかもしれない。この雨が止む頃には、私たちの関係も、何か新しい形へと変わっているのだろうか。そんな予感が、私の胸を微かに震わせた。