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うたかたの色彩  作者: 或 るい
ご挨拶/プロローグ
2/9

プロローグ 色のない世界

 世界から色が消えたのは、いつからだったか。

 そんな大袈裟な話ではない。ただ、私にとって、目に映る全てが同じような灰色の濃淡に塗り潰されて見えるようになったのは、それほど昔のことでもないはずだ。

 きっかけは、些細なことだった気がする。あるいは、いくつかの出来事が積み重なった結果なのかもしれない。もう、どちらでもよかった。


 雨音が、教室の窓を単調に叩いている。

 退屈な古典の授業は、まるで子守唄のようだ。教師の低い声は鼓膜の表面を滑っていくだけで、何一つ頭には入ってこない。ノートの隅に、意味もなく立方体を描き続ける。線を重ねるうち、それは歪な建造物のような、不気味なオブジェのようなものへと姿を変えていく。

 ――これもまた、無彩色の塊。

 ふと顔を上げると、クラスメイトたちの背中が見える。同じ制服、同じように傾げられた頭。彼ら彼女らが、どんな夢を見て、何に心を震わせているのか、私には想像もつかない。興味もない、と言えば嘘になるのかもしれないが、知ったところでどうなるものでもないだろう。


 水無月みなづき みお。それが私の名前。

 特別取り柄もなく、かといって目立って劣っているわけでもない。人付き合いは、得意ではない。自分から話しかけることは稀で、向けられた言葉には当たり障りなく応じるけれど、そこから会話が弾むことは滅多になかった。

 だから、クラスの中でも私は、背景の一部のような存在だ。それでいい、とさえ思っていた。誰かの特別な存在になることも、誰かを特別に思うことも、きっと私には向いていない。感情とは、厄介なものだから。


 放課後のチャイムが、終わりの合図を告げる。

 教室がにわかに活気づき、様々な声が飛び交い始める。その喧騒を背中で聞きながら、私はゆっくりと席を立った。向かう場所は決まっている。美術室だ。

 別に、美術部というわけではない。ただ、あの場所の匂いが好きだった。油絵の具のツンとした刺激臭、乾燥した粘土の粉っぽい香り、使い古された鉛筆の芯の微かな木の匂い。それらが混ざり合った、独特の空気。

 そして何より、そこでは、誰にも邪魔されずに自分だけの世界に没頭できる。


 がらり、と引き戸を開けると、いつも通り、美術教師の蓮見はすみ先生がイーゼルの前で気怠そうに煙草をふかしていた。実際には火のついていない禁煙パイポなのだが、その仕草は本物そっくりだ。

「……あら、水無月さん。今日も熱心ね」

 抑揚のない声で、先生が言う。私は小さく会釈だけして、部屋の隅にある自分のいつもの席へと向かった。

 古い木の机には、無数の傷が刻まれている。歴代の誰かが残していった、落書きの名残。それを見ていると、ほんの少しだけ、時の流れを感じることができた。


 鞄から取り出したのは、ごく普通のスケッチブックと、数本の鉛筆。

 何を描くという明確な目的はない。ただ、指先から流れ出す衝動のままに、鉛筆を滑らせる。力強い線、震えるような細い線、塗りつぶされた黒。それらが画面の上で混ざり合い、やがて、名付けようのない形を生み出していく。

 それは、言葉にならない私の感情の断片だった。

 誰にも見せるつもりはない。誰かに理解されるとも思っていない。ただ、こうして吐き出すことで、かろうじて心の均衡を保っている。そんな気がした。


 しばらく無心に手を動かしていると、不意に、廊下の向こうから微かなピアノの音が聞こえてきた。澄んだ、しかしどこか切迫したような、美しい旋律。それは隣接する旧音楽室からだろうか。私が知る限り、あの部屋はもう何年も使われておらず、普段は入り口に古い南京錠が埃を被ってぶら下がっているはずだった。放課後になると、時折、吹奏楽部員が気まぐれに調律の狂ったアップライトピアノを鳴らしているのを聞いたことがあるが、今日聞こえてくるのは、もっとずっと個人的で、感情的な音色だった。


 けれど、その音はすぐに不協和音と共に途切れ、代わりに何か硬いものが床に落ちるような鈍い音と、それに続く、押し殺したような微かな声が耳に届いた。

 ――嗚咽、だろうか。息を詰めて泣いているような、苦しげな響き。

 無意識のうちに、私の鉛筆を握る手が止まっていた。


 普段の私なら、気にも留めなかったはずだ。他人の事情に首を突っ込むのは、面倒事を招くだけだと、これまでの経験で学んでいる。詮索は、常にろくな結果を生まない。

 それなのに、その日の私は、何故か鉛筆をそっと置き、まるで何かに引き寄せられるように、ゆっくりと立ち上がっていた。自分でも、何故そんな行動を取ったのか、上手く説明できなかった。ただ、あの押し殺された声が、私の心の奥底にある、何か硬く閉ざされた扉を、静かに叩いているような気がしたのだ。


 美術室の扉を、音を立てないようにそっと開け、湿った空気の漂う廊下へと足を向ける。雨はいつの間にか小降りになっていたが、窓の外は相変わらず薄暗く、廊下の蛍光灯だけが頼りない光を投げかけていた。


 旧音楽室の前にたどり着く。古びた木の扉は、案の定、いつもなら錆びついた南京錠が掛かっているはずのその掛け金部分が外され、まるで持ち主が一時的に離れただけかのように、ほんの数センチだけ隙間が開いていた。誰かが、意図的に鍵を壊したのか、あるいは何らかの方法で開けたのか。どちらにしても、この滅多に人が寄り付かないはずの部屋が無防備に開かれていること自体が、私には少しだけ不気味に、そしてどこか背徳的な雰囲気さえ感じられた。

 そこから中を覗き込む勇気は、さすがに出なかった。他人の秘密を暴こうとする行為は、私の信条に反する。ただ、先ほどの物音と嗚咽が、やけに生々しく耳の奥に残っている。

 一体、誰が……何のために、こんな場所に?

 そう思いながらも、これ以上関わるべきではないと判断し、その場を立ち去ろうとした、まさにその時だった。

 不意に、中から誰かが出てくる気配がした。慌てて数歩下がり、廊下の隅にある古い消火器の陰に、咄嗟に身を潜める。心臓が、まるで破裂しそうなほど、いやに大きく、そして不規則に音を立てているのが自分でも分かった。


 扉がゆっくりと開き、現れた人影を見て、私は息を呑んだ。

 東雲しののめ あきら――。

 同じ学年の、誰もが知る優等生。成績優秀、スポーツ万能、その上、誰もが見惚れるような美しい容姿。いつも穏やかな微笑みを浮かべ、誰に対しても親切で、まさに完璧という言葉がぴたりと当てはまるような存在。

 私とは、住む世界が違う。そう思っていた。


 彼女は周囲を気にするように一度だけ振り返り、そして、早足に廊下を去っていった。その横顔は、いつもと変わらない、完璧な微笑みを湛えているように見えたけれど……気のせいだろうか、ほんの一瞬、その瞳の奥に、凍てつくような暗い影がよぎったような気がした。


 東雲さんが完全に角を曲がって見えなくなるのを待ってから、私はゆっくりと、まるで磁石にでも引き寄せられるかのように、旧音楽室の前に戻った。好奇心というよりは、何か得体の知れないものへの、抗いがたい引力のようなものを感じていた。

 開いたままの扉の隙間から、恐る恐る中を窺う。

 部屋の中央には、グランドピアノが巨大な黒い獣のように鎮座し、その周囲には、譜面台や使われなくなった様々な楽器が、埃を被って静かに並んでいる。窓際のカーテンは半分閉められ、薄暗い室内に、どこか退廃的で秘密めいた雰囲気が漂っていた。そして、ピアノの傍の床には、彼女が頻繁にここを訪れ、自分だけの時間を過ごしていることを示すかのように、持ち主の特定を避けるかのようにラベルの剥がされたペットボトルが数本、くしゃくしゃになったお菓子の小袋、そして読み古されて角の折れた文庫本が数冊、無造作に置かれていた。まるで、誰にも知られたくない、自分だけの隠れ家として、この滅多に人が寄り付かない旧音楽室を、都合よく利用していることを物語っているかのようだった。

 そして、その私物の山から少し離れた場所に――。

 一冊の、少し大きめのスケッチブックが、まるで持ち主の激情をそのまま受け止めたかのように、無造作に開かれたまま落ちていた。先ほどの鈍い音は、やはりこれだったのかもしれない。


 何故か、そのスケッチブックから目が離せなかった。見てはいけない、触れてはいけないものだと、頭のどこかで警告音が鳴っているのに、私の足は、まるで自分の意志とは無関係に、吸い寄せられるように部屋の中へと踏み入れていた。

 床に落ちたスケッチブックを拾い上げ、そこに描かれたものを見た瞬間、私は全ての思考を奪われ、言葉を失った。

 それは、絵と呼ぶにはあまりにも直接的で、暴力的なまでの色彩の奔流だった。

 ページ全体を塗り潰すように、まるで噴出した鮮血のような赤と、深く、どこまでも深く沈んでいくような海の底を思わせる群青色が、激しく、そして痛々しいまでにぶつかり合っている。それは、形を伴わない、純粋な感情の爆発。まるで、声にならない叫び声が、そのまま色という形を取って現れたかのような、見る者の心を抉るような強烈なエネルギー。ところどころ、絵の具が乾ききる前に、何か鋭利なもので何度も強く引っ掻いたような跡があり、画用紙の表面がささくれ立ち、けば立っていた。

 いつも完璧な、一点の曇りもないような微笑みを浮かべている彼女が、これを描いたというのだろうか。あの、誰からも愛される優等生、東雲晶が?

 信じられなかった。信じたくなかった。

 けれど、スケッチブックの表紙の隅に、彼女の持ち物であることを示すように、控えめに、しかし丁寧に記された「A.S」という金色のイニシャルが、それが紛れもなく東雲晶のものであることを、冷酷なまでに示していた。

 この絵は、決して誰にも見せるつもりなどなかったのだろう。むしろ、誰の目にも触れさせてはならない、彼女だけの秘密、彼女だけの叫び。この、誰も寄り付かないはずの旧音楽室という閉ざされた空間だからこそ、彼女はこんなにも無防備に、自分の内面を曝け出すことができたのかもしれない。それを偶然とはいえ、私が目にしてしまった。その事実に、言いようのない罪悪感と、そして同時に、禁断の扉を開けてしまったような、背徳的な興奮が込み上げてくるのを抑えられなかった。


 胸の奥が、まるで氷水を浴びせられたかのように、きゅうっと冷たく縮こまるのを感じた。

 それは、今まで私が感じたことのない種類の、複雑で、そして名付けようのない感情の嵐だった。恐怖でもなく、単純な同情でもない。もっと根源的で、ざらりとした何か。

 私の知る、灰色の、何も起こらないはずだった世界に、ほんの僅か、けれど無視できないほど鮮烈な、強すぎる色が、無理やり、乱暴に叩き込まれたような、そんな圧倒的な感覚。

 私はそのおぞましいほどに美しい絵から目が離せないまま、まるで金縛りにでもあったかのように、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 雨上がりの湿った、そして少しだけカビ臭い空気が、開いたままの窓から静かに流れ込んでくる。そのまとわりつくような冷たさが、妙に肌に心地よかった。

 私の退屈で、色のなかった日常が、ほんの少しだけ、しかし確実に、音を立てて軋み始めたような、そんな予感がした。そして、その軋みは、もう決して元には戻らないような、決定的な響きを伴っていた。

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