わたしをどこかへ連れてって
「わたしをどこかへ連れてって~!」
リモートワーク中の我が主人は、デスクの前に座ったまま両手を突き上げて叫んだ。
少し離れた床の上で丸まっていた僕は、僅かに首を上げた。
しかし、すぐにまた目を閉じる。
「ちょっと~、少しは構ってよ!」
『はいはい、聞いてますよ』と立てた耳だけクルクル動かした。
僕の名はメフィストという。
生まれた時は、普通の雑種犬であったが、名づけの瞬間に自我と知恵と記憶を得た。
メフィストとは、古より存在する悪魔の名。
同じ名を付けられることによって、その魂の欠片を受け入れてしまったのだ。
いわゆる、前世を思い出しちゃったようなものだが所詮、犬である。
いろんな記憶はあるものの、とりあえず、それには蓋をすることにした。
それよりも、自分の生きる現実の方が大事だ。
主人が見ているテレビのニュースで世の中の様子を知り、主人が外出している隙にネットで情報を得る。
その結果、今の暮らしに不満を持つ必要は無く、犬としては幸福な方だと判断した。
主人はなかなか有能で、そのせいで仕事が多く、働き過ぎである。
だから、時々、逃避行を望むような叫び声を上げる。
実のところ、メフィストの名を持つものの宿命として、同種の願いを百万回、目の前で唱えられてしまうと叶えてやらねばならぬのだ。
だが、この回数は今のところ現実的ではない。
しかし、僕は主人のことを気に入っている。
だから、出来る限り、その意に副いたいと思う。
何度も主人のパソコンを無断使用するのは危険だし、制約が大きい。
というわけで、僕は現実に則り、かつ裏技を駆使して、自分専用のスマホを手に入れ、すっかり人間になりすました。
外国人男性のプロフィールを作り出し、実績を積み上げ、資産を貯め込んだ。
なにせ現在、僕は犬。
犬らしい寿命で逝ったふりをせねばならぬ。
そして、その後は何食わぬ顔をして主人と知り合うのだ。
そのためには、人間の方がよかろう。
その後、惜しくも恋人になれなかったとしても、そこで終わりではない。
主人が天寿を全うした暁には、天国でも地獄でもなく、楽しく暮らせる異世界に移住するのだ。
主人をそこへ転生させ、生まれた時から側に居て、絶対、その心を手に入れて見せる。
世界によっては、人間であっても寿命の長い種族などもあるらしい。
そういうものになって、永く添い遂げたい。
その辺りは、霊体的な分身を送り出して異世界を探索し、統べる神たちと交渉も始めた。
自身は霊体だが、手土産は物質として送ることが出来る。
世界の片隅で穏やかに暮らすだけで良いことを伝え、心づくしの手土産を渡せば、とりあえず門前払いということは無い。
まだまだ時間はある。
主人と移住するまでには、どこか良い世界が見つかるだろう。
「お前がいてくれるから、わたしは頑張れるよ。
長生きしてね! ずっと一緒にいようね」
ある日、機嫌のよい主人が、そんなことを言い出した。
これはもう、永遠の約束である。
二人の未来は明るい! 僕は嬉しくて尻尾を振りまくった。
しかし、恋路に障害は尽きぬもの。
その晩も、僕は鏡の前で悩んでいた。
主人の男に対する外見の好みが、意外に移ろいやすいのだ。
映画を好んで観る主人を観察した結果、彼女の好みは落ち着いていて、かつ出来るイケメン。
だから、クールなイケメン一択だったのに、最近は「犬っぽいのもいいよね」なんて言い始めたのだ。
犬っぽくて出来る男? ギャップ萌え?
「メフィスト! 男前が台無しだよ~」
カラカラと笑う声で目覚めると、どうやら自分はへそ天で爆睡していたらしい。
普通に恥ずかしい。
明け方まで悩んでいて、寝落ちしたのだ。
「もう、ホント可愛いんだから~」
主人にギュウっと抱きしめられた。
ああ、幸せ。
絶対にこの幸福、来世まで持って行ってみせる!
まだまだ越えなければならない壁はあるが、なんとかしてみせる!
僕は誓いを新たにした。