参の1 できかねません
業務委託契約のディレクターとしてPRPに所属して少し経って、失業手当ての支給が期間満了で切れた。テレビの仕事はあったりなかったり、原稿書きの仕事も、あったりなかったり。だから、時間に融通の利くアルバイトを始めようと思った。
アルバイト先は簡単に見つかると過信していた。すでに四十の大台に乗っていたが、おれよりずっと年上のおっさんが、コンビニエンスストアやらファストフード店やらで大勢働いているから、楽観視していた。番組制作と原稿書きの仕事の穴を埋めるためなので、職種にはこだわらない。
ところが、どこに履歴書を送っても採用されない。理由はとんと分からない。採用担当者から漏れ聴くわずかな情報をつなぎ合わせると、やはり、新聞記者の経歴がネックになっている。転職エージェントから紹介されるなどで正社員採用の面接を受けた企業での扱いと同じだ。
失業保険を受け取るために毎月通っていたハローワーク窓口に相談してみた。
「それはわたしたちも疑いますよ。森さんは職探しをするふりをして、本当はハローワークの実態を取材しようとしてるんじゃないかって。でも、経歴を明らかにしているところから、そんなことはないとも思いますけどね」
新聞記者はつぶしが利かない――。
呪文は寝て見る夢にも出てきた。
だから、すぐに仕事に入れるかと連絡を受けた時には驚かされた。夢かと思った。
深夜だけのシフトの仕事を探していた。仕事内容にこだわらず、条件に合う求人にインターネット経由で応募していた。面接に呼ばれたのは大手人材派遣会社だ。派遣社員という選択肢を、それまで想定していなかった。二十四時間放映しているテレビ通販会社のコールセンターで注文を取るオペレーターの職をもらった。
勤務中はずっと座っていられるから、コンビニエンスストアやファストフードの店員よりは楽そうだ。おれは、四十歳にしてそれまで経験したことのない、コールセンターのオペレーターとしてデビューすることになった。
初出勤の日、中央区の地下鉄「水天宮前」駅で派遣会社の担当者と待ち合わせた。スーツ姿で出かけた。指定の場所で待っていると担当者が現れ、周囲にいた女性十人ほどがわらわらと集まってきた。全員、おれと同じように、駅の近くのコールセンターに初出勤する派遣社員だ。スーツ姿はおれだけだった。
派遣先の通販会社は、衛星放送やケーブルテレビ回線を使って全国に番組を流している。首都圏、中京圏、関西圏にある全国系列に属さない独立テレビ局も、コンテンツ不足からその通販番組の配信を受け、時間を区切って生放送している。
実際に客からの電話注文を受けながら行う研修で、耳を疑った。横に付いて指導に当たる若い女性の先輩オペレーターは、敬語表現がめちゃくちゃだ。
「こういう場合は、『いただいてください』ってきちんとした敬語を使わないとだめでしょ」
「だから、『番組でキャストがおっしゃってるように』ってどうして言えないの」
「なんで『上の者』なんて失礼な言葉を使うの。わたしは物扱い? ちゃんと『上の方』って言いなさい」
電話をかけてくる客が上の立場なのだから、オペレーターは、へりくだるべきだ。「召し上がってください」が正しい。キャストとは番組で商品を紹介する出演者のことで、通販会社側の人間なのだから、やはり電話の相手の客に対してはへりくだった表現で言動を示すべき。「番組でキャストか申しているように」、せめて、普通の表現で「言っているように」とするのが本来の表現。そして、おれも指導役も客にはへりくだるべき立場なのに、おれは指導役のことを「上の方」と客よりも上の扱いで持ち上げなければならないらしい。
オペレーターのベテランであるはずの指導役は、尊敬語と謙譲語の区別ができていないどころか、逆に使う。それが正しいと信じ切っている。
研修を終えて独り立ちし、周囲のオペレーターの通話を聴いていて、五分に一回の割合で冷や冷やさせられた。
「申し上げてください」
「上司がそうおっしゃっておられます」
尊敬語と謙譲語がことどとく逆転している。
しかし、そのことで客との間でトラブルは生じない。客も正しい敬語表現を知らないのだ。
逆転は、敬語表現だけではない。「できない」ことを示す「できかねます」を、オペレーターの多くが「できかねません」と言っている。それで客に自然に通じている。「できかねません」は本来なら、できてしまうことを意味する。
息子のために買ってやるんだという電話の客がいたから、「ご子息は」という表現を使ったら、客から「わけの分からない言葉を使って惑わそうとしている。だまそうとしている。詐欺だ。社長を出せ。首にさせてやる」とキレられた。
(「参の2 ハワイに届かぬ電波時計」に続く)