壱の1 交換手の歌声
おばちゃんは、よく歌をうたっていた。歌詞のないハミングのこともあった。隣の家のことだから、うちにもよく聴こえる。洗濯物を干しながら、庭の手入れをしながらおばちゃんは、洗濯物よりも草木よりも歌の方に熱中しているようだった。
「電話交換手だからじゃろうな」
おれの父親は分析した。民営化してNTTになる前の日本電信電話公社(電電公社)で、おばちゃんは働いていた。電電公社の電話交換手とは歌をうたう職業なのかと、幼いおれは思っていた。
「昔は、市外局番には電話機から直接かけられんかった。電電公社にかけて、話したい相手の電話番号を伝えてから、交換手につないでもらいよった。それより前は、電話機にダイヤルがなかった。市内でも市外でも、交換手に番号を口で言いよった。そういう、客からかかってきた電話の相手をして線をつなぐんが電話交換手たい」
ダイヤルの付いていない電話機など見たことがない。しかし、母親と出かけた際に、おかしな機械を目にした記憶がある。
普段は車が止まっていて運転手が建物内で待機しているタクシーの営業所に、タクシーが一台もなく、係員が一人もいなかった。母親は、窓口に設置されている、側面にハンドルの付いた黒い機材のハンドルをぐるぐる回した。あれが「ダイヤルの付いていない電話機」なのではなかったかと思い当たった。
その話を父親にしたら、それはタクシー会社の本社につながる直通電話なのだろうと言った。その直通電話に電電公社の交換手は介在しないが、かつての電話はどれもそんな調子でかけていたのだと言っていた。
「今は市内でも市外でも直接つながるのに、なんで電話交換手がおるん」
おれは疑問を抱いた。番号案内とか国際電話とかで必要だとかいうような説明を父親から受けた気がするが、いずれもなじみがないから、よく覚えていない。
ただ、電話交換手というのは声が勝負の仕事だから、隣のおばちゃんも声を使う歌が好きなのだろうと、漠然と考えていた。
電電公社が民営化され日本電信電話株式会社(NTT)が発足した年に、おれは大学に入学した。十年ちょっと前まで日本ではなかった沖縄の大学に進学し、大学近くのアパートで独り暮らしを始めた。
学生が独り暮らしの部屋に電話を引けるような時代ではないから、中曾根康弘内閣の「公共企業体三公社の民営化」には関心がなかった。同時期に日本たばこ産業(JT)が設立されたが、民営化前の旧日本専売公社時代には喫煙しなかったから、どこがどう変わったのか知らない。二年遅れの国鉄民営化に伴うJRの発足は、そもそも沖縄には鉄道が走っていなかったから、実感がない。
ただ、旧電電公社から転換したNTTの電話交換手なのかオペレーターなのかには、たびたび世話になった。沖縄と本土の間では、通話料が膨大になる。だから、通話料金を着信者に負担させる「コレクトコール」を活用した。実家の両親にお金を無心するための電話だ。お金をせびるための手段の費用も、親にせびる。
十円硬貨一枚あれば、あるいは度数の残っているテレホンカードがあれば、公衆電話で「106」にかけるだけでオペレーターが出てきて、自分の名前と相手先電話番号を言うだけでつないでくれる。
〈つながりました。お話しください〉
受話器の向こうの交換手だかオペレーターだかが言うと、たいてい父親か母親が先にしゃべりだした。遠方に送り出している長子のおれのことが気がかりだったのだろう。決まった仕送り額を超えるお金を、キャッシュカードだけ持たされた地元銀行の口座に入金してくれた。
そのうち、無心の度合いが過ぎたのか、両親は電話には出るものの、お金は入れてくれなくなった。ついには、コレクトコールも受け付けてくれなくなった。
〈先方の方がお断りなさっています〉
交換手は冷淡に言った。
大学を卒業して就職した直後、NTTの番号案内「104」が有料化された。「104」を使うのはビジネス用途だけだったし、職場の電話料は勤務先の会社が払うのだから、おれの腹は痛まない。
しかし、コレクトコールの「106」にしても番号案内の「104」にしても、ほぼ女性である交換手の対応は、極めて典型的なお役所仕事。口調がつっけんどんで投げやりだ。
〈それでは、〇〇市の××さんの番号をご案内します。××さんのお名前ではお届けがありません〉
前段と後段がつながっていない。漫才のようなこんなやり取りに、ずっこけさせられたり嘆息させられたりした。
旧電電公社時代や番号案内が無料だった時代をよく知らないが、民営化しても、番号案内で利用料を徴収するようになっても、通信事業の独占体制にあるNTTは「殿様商売」なんだなと納得した。
(「壱の2 テレクラで修行」に続く)