肆の2 通訳は現役女子大生
テレビ局からの人的支援がないからおれと大泉は、通訳兼助手として、中国語に秀でた若い女性を個人的に雇う必要に迫られた。人選するのもギャラを立て替えて払うのも、企画を通したおれの責任で行わなければならない。
ソーシャル・ネットワーキング・サービス『ミクシィ』で募集を掛けたら、驚くほどたくさんの応募者が名乗りを上げた。使えそうな順に会うことにした。
中国籍で、日本語、英語、中国語に堪能、朝鮮語もある程度できるという慶応義塾大総合政策学部の現役留学生を、東京・霞が関に呼び出した。勝手知ったる厚生労働省庁舎一階のカフェ「ドトール」で待ち合わせた。大泉は別の用事で同席できなかった。
当時、厚生労働省の庁舎に入り込むには、なんらかの身分証明書の提示が必要だった。約束の相手は、車の運転免許を持っていないという。なにかそれらしいものを持ってこいと指示した。履歴書はいるかと尋ねられたので、いらないと答えた。中国人が作成する文書など信用に値しないとおれは知っている。
面談の場所をそこに指定した理由は、よく知るテリトリーだったことに加え、公的機関が入居するビルで会うことで相手に不信感を抱かせないという狙いがある。しかし、それよりむしろ、相手がどのような手段でビルに入るのかを見定めるという目的が大きい。初対面の相手が運転免許証を持っていないことは、人となりを判断しなければならないおれにとってはかえって好都合だ。
約束の時刻より少し遅れて、彼女は「ドトール」に姿を現した。
「電車を降りてから通路に迷いました。すみません」
彼女は頭を下げた。
地下鉄「霞ヶ関」駅と厚生労働省の庁舎は地下通路でつながっており、駅構内には案内表示がたくさんあるから、迷うはずはない。しかし、それはおれが通い慣れているからであって、初めて訪れる者にとっては分かりづらいのだろうかと、旧厚生省時代にこの庁舎の門をくぐった若き日のことを思い出そうとしたが、うまくいかない。
「どうやって入ってきた。守衛の警備員にはなにを提示した」
「在留カードです」
「見せてもらっていいか」
法務省東京入国管理局(現・入国管理庁)が発行した、正規の物のようだ。
学生証も見せてもらった。横浜の住所が刷り込まれている、大学、学部名はあるものの肩書きのない名刺ももらった。慶応大の総合政策学部は藤沢市の湘南藤沢キャンパスにあり、彼女の名刺の住所地からは少し離れている。
「父親が貿易関係の仕事をしていて、日本と中国を行ったり来たりで育ちました。高校からはずっと日本です」
日本語に不自然さはまったくない。ただ、慶応大の総合政策学部が全国に先駆け導入し、彼女もそのシステムで合格したという「AO入試」のことを彼女は、日本人風の〈エーオーにゅうし〉という平板なアクセントでなく、〈エィオゥにゅうし〉と抑揚を付けて表現した。日本社会で育った日本語が母語の日本人ではないことの証左だとおれは受け止めた。
取材を進めている中国人犯罪の概要と、日本テレビに企画が採用されていること、通訳兼助手としてやってほしいこと、身の安全のため最前線には出さないこと、さらに報酬について簡単に説明し、できそうかと尋ねたら、必ずできると彼女は答える。
「相手は福建省出身の輩が多い。大丈夫か」
中国大陸南東部に位置する福建省出身者のふりをすることは難しいが、福建省の人間とのやり取りは問題ないという。福建省からそう遠くない上海の近くで生まれたと話した。
「ちょっと、中国語をしゃべってみてくれ」
「森さん、中国語、分かるんですか」
「いいや。まったく分からん」
うそをついた。
大学の教養課程の第二外国語で中国語を履修した。
彼女と接触する前にある程度の周辺取材は進めている。別件で中国人ネタをいくつも書いている。だから、多少は分かる。だけど、分からないふりをしておいた方が得策なのだ。
学生時代を過ごした沖縄は、日本語とは別系統と位置付ける学説もあるほどかけ離れた、琉球語とされる方言が使われている。地元では「ウチナー口」と称する。本土から来たウチナー口が分からない者に対して、例えば商売人は、足元を見て高額料金を吹っ掛ける。商売人同士、ウチナー口で合図を送る。彼ら彼女らは日本語とウチナー口のバイリンガルだ。
夜の店で、姓が本土風でしゃべりもウチナー口ではないおれは島外の人間と見なされ、おれが聴き取れるウチナー口で、ホステスらがおれの品定めをする。いくら巻き上げるかの相談をしている。
米軍基地の兵士も同様だ。英語が分からないと軽視し、「このくそアジア人から有り金、全部奪うぞ。まずおまえが蹴りを入れろ」などと物騒なことを、南部なまりの黒人同士でよく話し合って喜んでいる。
米軍人の言うことは質の悪いアメリカンジョークである可能性が高いが、生活が懸かっている水商売のぼったくりは、彼ら彼女らの平常運転だ。
「分からないんじゃ、話してもしょうがないですね」
「そうか。そうだな。じゃ、実戦で聴かせてくれ」
おれは、最初に呼んだトライリンガルを自称する彼女を雇うことに決めた。ほかの応募者には、現在の案件は別口で決めたが改めて仕事の依頼をするかもしれないと、あいまいかつ投げやりなメッセージを送信してそれでおしまいにした。
彼女を雇うと決める前から、携帯電話を増台する必要があることは分かっていた。労災保険もなにもないしテレビ局はなんの責任も取ってくれないのだから、中国人犯罪者周辺と密に連絡を取らせるため、通訳兼助手には本人の物とは別の携帯電話を貸し与えなければならない。
おれは、旧ウイルコムの、PHSとカテゴライズされる携帯電話をおれ名義で一台新規契約した。
(「肆の3 中国娘の大活躍」に続く)




