参の5 元祖天才バカボンのパパ
コールセンターは地下鉄半蔵門線「水天宮前」駅から歩いて五分のオフィスビル九階にある。出勤時に一階のホールでエレベーターを待っていたら、同じく出勤途中らしい司法浪人の濱元が近づいてきた。
「こうして横に並んで立ってみると、森さんって結構、腹が出てるのが分かりますね」
無礼な濱元は言う。
「もう年だからな」
「いくつなんですか」
「『バカボン』のパパと一緒だ」
「げげっ。まさか、四十一歳ってことですか。そんなにいってるんですか」
徹頭徹尾、濱元は無礼だ。
「そうだぞ。もっと若く見えたか」
「ぼくと同じくらいかと」
「濱元っちゃんはいくつなのよ」
「森さんより全然若いです」
「『元祖天才バカボン』のテーマソングを知ってるってことは、おれと大して変わらんだろ。それとおまえ、慶応には内部進学か指定校推薦で入ったあほたれだな。『全然』の後には否定的なワードしか来ない。そういうつたない日本語能力でコールセンターのオペレーターが務まると思ってるのか。深く反省しろ」
慶応ボーイとしての日本語能力の欠如と、コールセンターオペレーターのそれとを二重で皮肉にしてやった。
濱元が慶応義塾大の学部を二つ卒業してからなにをやっていたのか、彼の年齢が実際はいくつなのか知らないが、正規雇用で働いたことはないようだ。さまざまなアルバイトを経験していた。治験の被験者にも何度かなったことがあると言っている。
製薬企業が開発中の医薬品の有効性と安全性を調べるため、実際にヒトの体に投与して行う臨床試験が「治験」だ。被験者には、給与といった報酬ではなく、協力費という名目で謝礼が支払われる。
もともと人づてに口コミで被験者を募っていたが、時代の流れと開発医薬品の進化に伴い、年齢や性別だけでなく、体格、体質、病歴など被験者の属性を細かく分類する必要性が高まり、最近では広く公募している。
おれはそのころ、活字メディアに載せるため、「ネットカフェ難民」を取材していた。その過程で、治験の募集広告が都内のインターネットカフェ個室の壁に貼られているのを見つけた。ネットカフェ難民問題が顕著化していたころで、居所を持たぬ「難民」に向けた都の福祉関連部門や、多重債務者向けの金利返還請求訴訟を手掛ける司法書士事務所などの広告と並んで、治験の広告は掲示されていた。
治験はそのメニューによっては泊まり込みでの長期にわたったり、驚くほどの高額謝礼を受け取ることになったりする。宿も金もない「難民」にとっては好都合かつ好条件だ。
しかし、「難民」を収容して治験に供するのは危険だ。薬務行政を所管する厚生労働省の省令では、《失業者または貧困者》などの《社会的に弱い立場にある者》を被験者とする場合には、《特に慎重な配慮を払うこと》とされている。なぜなら、そういう社会的弱者は自らの健康状態を正確に申告せず、正しいデータが得られないだけでなく、健康を悪化させる恐れさえあり、そのこと自体も見逃されてしまう可能性が否定できない。
だから、厚生労働省と製薬企業、関連団体に、おれは取材を掛けた。どこも、ネットカフェで被験者の募集を広告している実態を把握していなかった。
実際に治験を行うのは製薬企業本体とは別の、それ専門の実施機関だ。被験者の募集も実施機関の裁量に任され、製薬企業は目が届かない。ただ、厚生労働省、製薬企業サイドとも、ネットカフェでの募集広告は不適当と回答した。
しかし、これも厚生労働省、製薬企業サイド双方が口をそろえ、治験の実施では厳格に被験者の身元を、住所地も含め調査するので、ネットカフェ難民が紛れ込む可能性はないと胸を張る。
だからおれは、被験者経験があるという濱元に、厚生労働省や製薬企業サイドの言い分は正しいのかどうか尋ねてみた。
「正しくないですね。治験が終わると、『休薬期間』って言って体を元に戻すために別の治験には四カ月間参加できないって定められてはいるんですよ。だけど、他人になりすましてそれをくぐり抜けるのは簡単です。身分証明書のチェックなんていいかげんだし、別の運営元がやってる治験ならいくらでも重複して参加できます」
仮説通りの話だったから、濱元の了承を得た上で、発言者を匿名にして、夕刊紙『内外タイムス』(その後、廃刊)に千八百文字の原稿を出した。
すでに経営が行き詰まっていた『内外タイムス』は社内に記者がほとんど残っていないという事情もあり、おれの署名入り記事に、おれの撮影した写真三カットが添えられ、一面全紙を使って掲載された。
《恐怖の人体実験》
《現代の「売血」》
おどろおどろしい大きな見出しが躍った。
掲載日の出勤途中、駅の売店で『内外タイムス』を二部買い求め、その日にシフトが入っていた濱元とそろって退勤した帰宅途中、一部進呈した。濱元は道すがら紙面を両手いっぱいに開き記事を声に出して読み、紙面をつかんだまま腹を抱えて大笑いし、自分のコメントが活字になったことを喜んだ。
「これって、森さんの研究ってことなんですよね」
「研究? そうね。研究かもね」
取材とか報道とかのワードは、慶応ボーイで正規雇用歴のない濱元にとって縁遠い存在のようだ。
(「参の6 早稲田のイモがお気に入り」に続く)




