久留米大学附設OB
県境に沿い行く手を阻むようにそびえ立つ一〇〇〇メートル級の山々を越えて進学するのは、裕福な家で育った学業成績優秀な子だけだ。久留米大学附設中学校に子弟を送り出し寄宿舎住まいをさせる親は鼻が高い。田舎で生まれ育ったおれは、山の向こうにはエリートが集う特別の中学校があるのだという漠然としたイメージを抱いていた。その中学校はあまりにもハイレベルで、おれたちの小学校のおれたちの学年からは、一人も進学していない。
高校までの六年一貫教育の最初の二年で、おれたちの中学校に逃げ帰ってきた同級生がいる。小学校が別だから、そいつの子どものころの人となりや附設に行くことになった経緯は知らない。
隣のクラスなので、男女別に二クラス合同で行う「技術・家庭科」の授業で一緒になった。本校舎とは別棟の、町工場のような工作機械が並ぶ「技術教室」で、そいつは浮かれていた。壁に掲げられた、自動車エンジンの構造を立体的な断面で表すパネルを手で触れ、うっとりとしている。
「附設じゃ『技術・家庭科』はなかったんか。車のエンジンがそげん珍しいか」
「うん、なかった。珍しいね」
からかって尋ねたら、思わぬ答えが返ってきて驚いた。からかわれたのはおれの方かもしれないと、後になって気づいた。
附設中学では落ちこぼれて難解な授業についていけず、さりとて高校進学を機に帰郷しようとすると、受験で必要な内申書に附設中のエリート教師から落ちこぼれゆえのとんでもない点数をつけられるのは明白なので、エリート校には見切りをつけ、内申書のポイントが傾斜配点で重く評価される中三段階の新学年から地元に戻ったのだとそいつは話していた。
そいつはおれと同じ地元の県立高校に進み、大学で物理を専攻し、製鉄関連企業に就職したようだ。
附設中学・高校の母体である久留米大学は、戦前の旧制医学専門学校(医専)の流れをくむ伝統的な医学部が名門で、二〇一二年から四期八年にわたり「日本医師会」会長を務めた横倉義武がこの医学部を卒業している。しかし、戦後設置された商、法、文、経済の文系学部と伝統の医学部とでは、知名度、入試偏差値とも著しい格差がある。
そのような事情から、附設高校の卒業生は、久留米大には進学しない。名門の医学部さえ念頭に置いていない。医師になりたければ、東京大の理科三類か、同じく旧帝大の地元、九州大の医学部を目指す。それだけの学力が、附設の生徒にはある。それほどの学力がなかったであろう前述の横倉は、なるほど附設出身ではない。
附設高校卒業生には著名人が多く、おれの職域の大先輩であるジャーナリスト、鳥越俊太郎がOBだし、実業家のホリエモンこと堀江貴文もそうだ。だから、「山の向こうのエリート」である彼らに、おれは少なからぬ親近感がある。
そしてそれは、米国留学のため附設高校を中途退学した、ソフトバンク・ブランドの創始者、孫正義(一九五七‐)に対しても例外ではない。
「ホークスの話題についていけんようじゃ、九州で仕事はできんばい」
地元に残る友人たちが、おれが帰省するたびに異口同音で諭してくれる。
福岡ドーム(二〇二〇年二月、「福岡PayPayドーム」に改称)を本拠地とするプロ野球「福岡ソフトバンクホークス」は、おれの少年時代に世界のホームラン記録を塗り替えた「読売ジャイアンツ」打者、王貞治が監督を務めたことも相まって、やはり身内のような思いがする。それは、二〇〇五年に球団がソフトバンク傘下になる前もなった後もなんら変わらない。
こうした背景からおれは、孫正義率いるソフトバンク・ブランドに、どちらかといえば好印象を抱いていた。ただ、「どちらかといえば」というだけで、二十年以上にわたってメインで使い続けている携帯電話は、別のキャリアだ。
ところが、仕事の都合でソフトバンクに接触する機会が訪れ、驚愕させられた。顧客対応最前線のコールセンターが、とんでもないことになっている。
ソフトバンクのコールセンターはオペレーターの対応が悪いとか、オペレーターの時給が安いとか仕事が緩いとかぬるいとかいう根拠の希薄なインターネット情報を目にしたことがある。実態は、そんな生やさしいものではなかった。
記者、編集者として勤めていた報道機関を辞めフリーランス・ジャーナリストとして活動を始めたころのおれは、出版不況や視聴者のテレビ離れのせいもあり収入が安定せず、通販会社のコールセンターでオペレーターとして深夜のアルバイトを数年続けた。だから、オペレーターの職に就く者が、技能の上達を要求されず切磋琢磨の機会を与えられず、本人にそのつもりも資質もない、おおむね短期雇用であることを知っている。オペレーターの宿命と限界を把握している。
今回改めて一消費者として接したソフトバンク外注先コールセンターのオペレーターは、ことごとく、聴きしに勝る、想像を絶する劣悪さだ。
企業がコールセンターをアウトソーシングするのは人件費の抑制のためだから仕方がない。コールセンターのオペレーターが、自身の所属を電話の相手に、発注元ともアウトソーシング先とも答えられないという事情も理解できる。
半面、電話の相手の顧客が、オペレーターの責任を担保させるために所属を聴きたがる、聴く必要に迫られるのも当然のことだ。
しかし、ソフトバンクのアウトソーシング先オペレーターは、自身を『ソフトバンクグループ』従業員だと顧客に誤認させるため、所属名をかたる。かたる名称は、『ソフトバンクグループ』を構成する企業名によく似ている。
「勘違いしたのは電話の相手の顧客であって、自分たちは『ソフトバンクグループ』の従業員とは一言も告げていない。だから、欺罔は阻却される」というのが、コールセンターサイドの発想であり戦略でもある。そして、その詐称には別のガードを設け、詐称が相手に伝わりにくい、相手には見抜きにくい巧妙な仕掛けまでをも彼らは考案した。
オペレーターが名をかたる名称の事業所は、国内に実在する。しかしそこは、孫正義率いるソフトバンクグループとは無関係。アウトソーシング先でも、オペレーターを雇用している事業所でも、コールセンターを展開する企業でもない。ソフトバンクグループは、あるいはアウトソーシング先は、実在する無関係の事業所の名を無許可で使い悪用しているのだ。
そのことでコールセンターは、あるいはオペレーターは、瑕疵責任を免れようとする。「だれが電話を受けたのか」「だれが言ったのか」顧客を錯誤させ、混乱に陥れる。同じ電話番号にかけても、「そのようなオペレータ―はこのコールセンターにはいない。かけ間違いではないか」と切り捨てる。「電話を受けた履歴がない」とさえうそぶく。
新型コロナウィルス感染対策で、世界的にテレワークが浸透した。コールセンターの職場も例外ではない。
通信システム設置や顧客個人情報の漏えい防止、バックアップ体制構築の困難さから、コールセンターのオペレーター職は従来より、在宅勤務への転換には高くて厚い障壁があった。物的、人的管理の行き届いた広大なオフィスで、いつでも電話対応を交代できる責任者の元、業務を行うのがスタンダードだった。
これらの壁をくぐり抜け一度テレワークが定着すれば、もはや、賃料や光熱費、通勤手当を払ってまでオフィスを構えなければならない、物理的実体としてのコールセンターは消滅する。在宅でのテレワークで、管理者の監視の目と耳が届かず、オペレーターの質はさらに低下する。
ソフトバンクだけではない。ネット通販サイト、アマゾンでも同じようなオペレーターのずさんさを、消費者の立場でおれは見せつけられた。アマゾンのオペレーターは、テレワークのようだった。
本書は、コールセンターが抱える深刻な問題を、消費者の立場でも従事者の立場でも体感したジャーナリストの視点で、ソフトバンクグループの名をかたるオペレーターの例から読み解き、コールセンターで常識となりつつある「非常識」を切り崩し、善良な消費者の利益につなげることを目的にレポートする。
登場人物は、故人も含め、基本的に敬称を略させていただく。
また、登場する団体、個人は、実名と仮名を混在させる。無用な憶測を避けるため、だれが仮名でありだれが実名であるかということはいちいち断らない。小説家、村上春樹のノンフィクション作品『アンダーグラウンド』の流儀に倣った。
もし、同名の団体が実在しそこに同名の個人が所属していても、それはあくまでも偶然であって、彼ら彼女らは本書のモデルではないかもしれない。そのことを斟酌の上でお読みいただきたい。
(壱 おれと電話と民営化「1 交換手の歌声」に続く)