前
どうしてこの世界には番というものが存在しているのだろう。
文字を書いていた手を止め、私は何度目かも分からない思案をする。
番とは、獣人特有の運命の相手である。人間の私にはピンと来ないが、獣人は一目で番が分かるという。それは本能なのだそうだ。
私、アリアは半年前にズローア帝国の皇太子であり狼の獣人であるイアン様に嫁いだ。
仮初めの花嫁として。
たった一人の番といつ出会うか、そもそも出会えるのかは分からない。しかし、帝国の頂点として世継ぎがいないのはあり得ない。
そんな事情から、帝国の皇族の男性は仮初めの花嫁を持つ慣習がある。つまり番が見つかるまでの繋ぎだ。一般的に25歳になるまでに番が見つからなければ仮初めの花嫁との間に子を成すこととなっている。
それまでは仮初めの花嫁は公務を共にするだけのビジネスパートナー的存在だ。夫婦ではあるが、夫はあくまで番のもの。触れてはいけない存在なのだ。
一見女性の尊厳を無視した仕組みに思えるが夫が番さえ見つけてしまえば自由の身となり、しかも帝国により生涯衣食住が保障される。再婚も可能なのでそれほど悪い慣習ではないのだ。
そう、私のように、夫を愛してしまう愚か者さえいなければ。
仮初めの花嫁でありながら相手を愛してしまった女性の行く末は地獄だ。
どれほど良好な関係を築いても番と出会ってしまえばそれで終わりである。25歳を過ぎて本当の夫婦になれたとしても、番が現れれば妻の座を明け渡さなければならない。その存在に一生怯えなければならない。
分かっていたはずなのに。
居場所がないからと安易に選んでいい道ではなかった。
「疲れたのか?無理はせず休んでくれ」
「イアン様…」
背後から声をかけられ思わず肩がはね上がった。振り返ると、仮初めの夫が心配そうに眉を下げて私を見ている。
私は首を振って小さく微笑んだ。
「大丈夫です。少し訳の難しい文章があったので悩んでいただけです」
「…前にも言ったが、私は仮初めの花嫁を迎えるつもりはなかった。でも、あなたがいてくれて本当に助かっている。ありがとう」
イアン様に求められている。
例えそれが仕事上の話でも単純な私は喜んでしまう。
そもそも私はズローア帝国からすれば吹けば飛ぶような小国のとある侯爵家の長女だった。
十歳で母がなくなり、ほどなくして母と呼ぶにはいささか若い女性と父が再婚し、一年後には異母妹ができた。
可愛く幼い妹に家中のものが夢中になり、私の居場所がなくなった。
よくある話だ。
当時私は王太子妃候補の一人だった。
家のためにと王太子妃候補として毎日のように王宮に通い詰め勉学に励んでいたが、今思えば疎外感に耐えきれなくて逃げていただけのように思う。
ただ、その甲斐あって王太子妃候補の中で学力は一番だったと自負している。
特に読み書きのみなら周辺諸国全ての言語を網羅した語学力は自慢だった。他国に吸収されずにいるのが不思議なくらいの弱小国は外交に力をいれなければならないため特に指導が厳しかったのだ。
しかし、こうして仮初めの花嫁になっていることから分かるように、私は王太子の婚約者に選ばれなかった。
どれほど知識を詰め込もうとも王太子殿下のお眼鏡に叶わなかったのだからしょうがない。でも、こうしてイアン様のお役に立てているのだから決して無駄ではなかった。
「あなたの翻訳は素早く正確で助かっている。手紙の代筆もありがたい。まさか他国の令嬢がズローア語の公用語のみならず地方の方言まで精通しているとは思わなかった」
「基本的な文法はそう変わりませんから発音となると自信がありませんが」
「ハハ、これで発音まで完璧にされてしまうと私の努力不足だと周りになじられてしまうよ」
声をあげて笑うと鋭い牙が露になる。イアン様以外ならば恐ろしいと震えるだろうに、かっこいいと見惚れてしまう。
その、大きな狼の耳も。
豊かな灰色の髪も。
鍛えられた筋肉も。
イアン様の全てが魅力的に見える。
「あと少しでこの文章の訳が終わります。次に急ぎの書類はありますか?」
「あるかといわれたら山ほどあるが、とりあえずあなたの仕事はそこまでにしよう」
「な、何か問題がありましたか?」
「ああ。あなたの休みが少なすぎるという大きな問題がある」
茶目っ気たっぷりにウィンクするイアン様に、私は思わず目をぱちくりとさせてしまう。
「我が国に来てからまともに休んでいないだろう?明日1日は好きに過ごしてほしい」
「そうですか。ありがとうございます」
笑顔でお礼をしたがどうしたものか。
急に休みができてもすることがない。
故郷であれば友人とよく出掛けていたが、まだズローア帝国内で友人はいない。
通常の妃と違い仮初めの花嫁は番が現れず本当の夫婦になるまで社交の場には出ない。気疲れがなくていいと思えるけど、同性との交流の場が全くないのも問題だ。
「イアン、それじゃアリア様も困るだろう。お前も働きすぎだし、たまには休みを取って二人で観光でもしてこいよ」
私に気を遣ってくれたのか、普段は黙って壁際に控えている護衛の騎士がイアン様に声をかける。
以前紹介してもらったが、イアン様の側近の一人だという。そんな大切な人を私の護衛にしていいのか戸惑ったけれど、信頼できるからこそ大切な妻の護衛をやってもらうんだといわれ、うっかりときめいたのは私だけの秘密だ。
しかし、彼の提案は私個人としては胸が弾むけれど、私たち夫婦としてはなんとも気まずい。イアン様もどう答えるべきか考えあぐねているようだ。
仕方がない。
私は苦笑しつつ首を横に振る。
「気を遣っていただいてありがとうございます。素敵なお話ですが、イアン様と一緒だとどうしても仕事の話をしてしまいそうです」
「それもそうだな。たまには仕事を忘れる時間も必要だろう」
「はい。せっかくですので流行りの服でも買いに行きたいですね」
「それはいい。費用は出すから心置きなく楽しんでくれ」
「ふふ、そんなことおっしゃって、大金になっても知りませんよ?」
「あなたのことを信頼していますので」
「…っ」
何故、そんなことをさらりと言えてしまうのか。
分かっている。
それは、イアン様が私を異性として見ていないから。
仕事上のパートナーとしての情しか持っていないから。
楽しそうに微笑むイアン様は、私がこんなにも胸を弾ませていることも、顔が赤くならないように必死になっていることも知らない。きっと、一生知らないままだ。
私とあなたが結ばれるとき、それは、世界が滅びこの世で二人きりになった時でしょう。