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後編

「アイシャ様! 戦争に行かれるなんて、そんな……!」


 目に涙をためて今にも泣き出しそうになりながら、アイシャの前に立ち塞がる少女はアイシャ専属の侍女、リリーだ。

 最後だからと自分の部屋を片付けていたアイシャの元に、彼女が戦地へ旅立つと聞いたリリーが慌てて駆けつけてきて、アイシャの足止めをしているのが現状である。


「もちろん女のわたくしが戦地へ行くのが心配だと思っていることはわかりますわ。でも王太女たるわたくしが行かず、兵だけに任せていることなどできませんもの」


「でもっ! 相手はプランス大帝国ですよ!? アイシャ様が行ったら、死んじゃいます!」


 侍女のリリーは、兄が死んでからというものアイシャを大切にしてくれた数少ない人間の一人だった。

 父王が大切にしないので周りの使用人からもやや軽視されがちなアイシャに献身的に仕えてくれたのはリリーただ一人だ。ピンク色の瞳をうるうるさせてこちらを見上げる少女は、ただ切にアイシャを心配していることだけがわかる。


 できればリリーにも悲しませないように旅立ちたかったが、思ったよりも帝国の宣戦布告が早かったためにその時間もなかった。だからこうした別れになることは少し辛くはある。


「大丈夫ですわ、リリー。わたくし、必ず帰って参りますから」


 ――たとえ魂だけになったとしても。


 アイシャは短剣を使ってある程度戦うことができる。しかしそれが練習を積み武器も豊富な帝国軍に勝てるとは思っていないし、自分が戦地で生き残れないことくらいわかっていた。

 だから、リリーには申し訳なく思うけれど、半分嘘で半分本当の誓いを立てる。


 そのまま彼女に精一杯の笑顔を向けて、立ち塞がるリリーの横をそっと通り抜けてアイシャは部屋を出る。

 自分を大切に思ってくれた人とまた別れてしまうことに胸を痛めながら。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 自分の胸で揺れるペリドット色のネックレスを見つめながら、アイシャは後悔していた。

 やはりこんな物、持ってくるべきではなかった。彼のことばかりが思い出されて嫌になる。ラーダインとは婚約破棄をしてもはや他人、このネックレスは必要ないというのに。


 これはラーダインにもらった誕生日プレゼントの一つだった。

 アイシャはそれをずっと大事にしていて、結婚式につけようと何度も夢見ながら部屋の奥底にしまっていたのだ。……もはや彼との結婚式が行われることがなくなってしまった分、最後につけておこうと思ったけれど、余計に胸が苦しくなってしまう。


 彼女は今、王国兵団が率いる隊列の中央で馬を走らせていた。

 乗馬技術を身につけておいて良かった。王太女でなくただの王女であった頃、馬が好きだった彼女は乗馬の訓練をしたのだ。王太女になってからは忙しすぎてそんな暇もなかったけれど昔とった杵柄で簡単な操作ならば容易い。


「……戦地まで、まだまだありますわね」


 王国中央にある王宮から、戦地となる国境までは最速でも三日くらいかかるという。

 王宮を旅立ってもうすでに半日が経とうとしていた。日はすっかり暮れ、夜闇が空を覆い始めている。


 今頃、アイシャが戦地へ行ったことを知ったであろう国王はどうしているのかしら、とアイシャは考えた。

 きっと心配だけはしていないだろうということだけがわかってしまう。リリーが王太女の行動を止めなかったとして解雇されなければいいけれど、と祈るように思いつつ、ため息を漏らす。


 きっと、アイシャの失踪を公にするほど父も馬鹿ではないだろう。

 だからペリド公爵家にこの話が知れるはずはない。ラーダインは婚約破棄されたことで気分が優れないはずだし、アイシャを追って来るようなことは絶対にないだろう。


 これでいい。きっとペリド公爵家が手を尽くしてラーダインを守ってくれるはずだから、後はアイシャは精一杯に命を散らせばいいだけだ。

 何も気に病むことなんてない。……なのに不安でいっぱいになるこの胸は何なのだろう。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 それから、三日後の朝。

 野営地から少し行ったところに帝国軍の姿を見つけ、アイシャたちの馬は一斉に足を止めた。


 ここは国境間近、しかしわずかにオネット王国寄りだ。国境で戦いを済ませてしまいたかったオネット王国軍ではあるが、ある程度の被害が及ぶことは致し方ないだろう。

 王国軍の兵士たちは皆武器を取った。アイシャも、アメジストで彩られたお気に入りの短剣を握りしめる。


 まだ実践をしたことはない。少しでも力になれればいいのですけれど、とアイシャは思う。

 それからまもなく帝国軍と衝突し、高らかに笛の音が鳴った。戦を知らせる合図だ。


 ――戦争が、始まる。


 一体どうしてこの期に及んでプランス大帝国が攻め込んで来たのか。

 父なら知っているかも知れないが、アイシャには何も知らされていない。だから相手の意図は全く読めないけれど、できる限りでぶつかるしかなかった。


 一斉に上がる怒声。他の兵士たちに遅れを取らぬよう、精一杯馬を走らせてアイシャは敵へと突進していく。

 最初に相手になったのは帝国軍の雑魚兵だった。雑魚兵と言っても武力の高い帝国のことだ、こちらの上等兵程度の力がある。


 一瞬で多くの王国兵が死んでいった。アイシャも何人もの帝国兵に揉まれながら、必死で短剣をふるって戦う。

 血の雨が降り注ぎ、あちらからこちらから断末魔が響き渡る。そんな地獄の中を突き進む彼女の頭の中にあるのは、ただ一人の存在だけだった。


 ――ここで頑張らなければ。全てはラーダインのために。


 少しでも敵の進行を遅らせることができればその分だけ彼を救える確率は大きくなる。

 だから、自分の存在がほんの微々たるものだったとしてもアイシャは力の限りを尽くそうと決めた。


 戦のために着てきた女性用の薄い鎧は時間と共に複数箇所が破け、次第にボロボロになっていく。

 自慢の藤色の髪も少しばかり切られてしまった。まだ肌に傷はついていないがそれも時間の問題だろう。きっとわたくしの死に様はとても惨たらしいものになるのでしょうね、と彼女は苦笑した。きっと誰かが亡骸を見ても『麗しの紫水晶姫』だなんて思うまい。


 ……そんなことを考えているうちに、いつしか敵の雑魚兵たちは皆血の海に倒れ伏していた。

 雑魚兵にやられなかっただけでも上等。だが、王国兵もまた、帝国兵以上の数が命を落としている。


 戦場という凄惨な場に初めて立ったアイシャは、山のような死体を見て気が遠くなりそうだった。

 想像はしていたが実際目にするとこんなにも凄まじいものなのか。首のない死体、腹を貫かれた尸。死体、死体、死体だらけだった。

 しかし気絶している暇はない。次は中流の兵士が襲って来る。アイシャは唇を噛み締めなんとか意識をこの世に繋ぎ止めると、さらに馬を早く走らせ、敵兵の中に揉まれていく。


 間違いなく戦況はこちらの方が悪い。わかっていても、途中で逃げ出すことなど許されないのだ。




 気づくとアイシャは取り囲まれていた。

 周りに味方はいなくなっていた。たくさんの血を吸った愛用の短剣は奪われ、馬を押し倒される。


 ――ここで終わりですのね。


 まさか敵も王太女のアイシャが戦場へ出向いているとは思わないだろうから、彼女は一人の兵士として殺されるのだろう。

 なんて呆気なくつまらない終わり。でもこうなることはわかっていたから、絶望や恐怖はない。


 ラーダインの顔が浮かび、すぐに消えた。

 彼ともう一度だけ会いたい。そんな気持ちが溢れ出してきて、どうしようもなくなってしまう。彼なら今の自分を助けてくれるのではないか、だなんて夢のようなこと、決して思ってはいけないのに。


 これで彼は救われる。それだけでいいではないか。それ以上求めないと、あの婚約破棄の夜、決めたはずだ。

 アイシャはここで大人しく死のう。そして兄に会って、謝るのだ。この国を守り切れなかったことを……。


 そう思って、迫り来る死を前に目を閉じた――その時。


「その娘を殺すな! 捕獲しろッ」


 そんな声が聞こえて、アイシャの意識は落ちた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 瞼を開けると、そこは白い天幕の張られた見たこともない場所だった。

 どうやらアイシャは今ベッドに横たわっているようだ。起き上がろうと思い、しかし体が自由にならないことに気がつく。……手足が縛られているらしかった。


 ――確かわたくしは戦争に行って、そこで、負けたはずですわ。


 アイシャは頭の中を整理する。そして気を失う寸前、最後に聞いた声を思い出した。

 その娘を捕獲しろと、彼女の知らない声は言っていなかっただろうか?


「目が覚めたか、アイシャ・アメティスト・オネット」


 直後鼓膜を震わせた声に、アイシャは慌ててそちらを見た。

 寝かされている……というか縛り付けられているベッドの横、そこに誰かが立っているのが見えた。金髪の青年だ。一瞬ラーダインかと思ったが、すぐに全くの別人であることがわかって落胆する。


 その青年は金髪に紅の瞳で、獰猛な獣のような目つきをしていた。敵意と好色の視線がないまぜになってアイシャへ向けられている。間違ってもラーダインではなかったし、アイシャとはおそらく初対面であろう人物だった。

 でもそれならどうして、アイシャの名を知っているのか。そのことに思い至った彼女は身を固くした。


「――あなたは、誰ですの?」


「囚われの身だというのに強気な女だな。王太女のくせに戦場にいる時点で、とんでもなく豪胆な女なのだろうとは思っていたが」


「……。もう一度尋ねますわ。あなたは誰ですの?」


 アイシャの鋭い問いに、青年はわずかに頬を歪めて答える。「ダミアン・プランス。この名にはお前も心当たりがあるだろう?」


 ――ダミアン・プランス。

 確かにその名前をアイシャは耳にしたことがあった。プランス大帝国の皇太子にして女好き。その悪名は高く、おそらく今回の戦も彼が企んだものではないかと噂されていたのをよく覚えている。

 それが目の前の青年だというのだろうか。


「もしもあなたが本当にプランス大帝国の皇太子なのだとして、わたくしに何の話がありますの?」


 ただアイシャの身柄を捕らえるのが目的なら、こんな風にベッドに縛り付けたりはしない。すぐに処刑台に連れていくはずだ。

 そもそもなぜあの戦場でアイシャを殺さず捕らえるということになったのかがわからない。その場で殺し、首を持ち帰った方が楽ではないのだろうか?


 そしてその答えは、彼女が想像もしないもので。


「なぜも何もあるか。プランス大帝国はお前たちの王国に言ったはずだ。姫を渡せ、とな。まさか姫が自らこちらへ身を差し出してくれるとは思わなかった。危うく殺しそうになるところだったぞ」


 その言葉を耳にした瞬間、全身からサァーっと血の気が引いていった。

 姫を渡せ、だなんて、つまり最初からアイシャを狙っての戦争だったというのか。好色の皇太子がアイシャを娶りたいがために戦を仕掛け、あれだけの兵が死ぬ羽目になったのか。


 理解した瞬間、震えが止まらなくなる。


 アイシャはオネット王国の王太女だ。しかも数日前までは婚約者がいた。

 当然父は、いくら嫌っている娘であったとしても身柄を引き渡そうなどとはしないだろう。それに怒ったダミアン皇太子が暴走し、戦争をおっ始めた。充分すぎるくらいに考えられる話だ。

 でもどうして彼がそんなにもアイシャを欲していたのかがわからない。


 視線で問いかけるアイシャにダミアン皇太子は笑って、


「前に一回だけ会ったことがあったろう? あの時、お前を絶対手に入れると決めたんだ」


 なんでもないことのようにそう言った。


 ……そういえば昔、彼と一度オネット王国のパーティーで会ったことがあることを思い出した。

 彼は数人の女を周りに侍らせて、鼻の下を伸ばしながらこちらを見ていた。アイシャは彼へ嫌悪感を抱きつつも、ラーダインの隣で笑顔を王太女として振りまいていた。もちろん、社交の簡単な会話なら交わしたこともある。


 しかしダミアン皇太子との接点はただそれだけだ。それだというのに、この男はアイシャを力づくで手に入れようとしたのである。

 アイシャには到底信じられない話だった。


「さあ。大人しく俺の嫁になるんだ。一応正妃に据えてやる予定だからその気でいろよ? 他の女も百人くらいはいるけど、お前はとびきり美人だからな」


「――ふしだらな男ですわね。わたくしには愛する人がおりますのよ」


「おっと、嘘を吐いても俺は騙されてやらないぞ? お前がつい先日婚約破棄したのは知ってるんだからな。相手の男に愛想を尽かしたんだと聞いている。まったく面白い女だ」


 ……嘘じゃありませんわ。

 そう言いたかったけれど、しかし婚約破棄したのは事実だったからアイシャは何も言えなかった。それにラーダインに何か被害が出ては困る。

 悔し紛れにキッと睨みつけてやると、彼は楽しげに笑った。


「そんな風に睨むなよ。敗者は勝者に従うものだろう? ……じゃあまずはその強気な顔を屈辱で歪ませてやろうか」


「――っ!」


 紅色の双眸に残虐な色を灯し、明らかにこちらを見下したダミアン皇太子は、そっとアイシャへ顔を近づけてくる。

 彼が一体これから何をしようとしているのかがアイシャにはすぐにわかってしまった。必死で顔を背けるが、彼の手によって強引に引き戻されてしまう。


 この男はアイシャを貶め、自分の物とすることしか考えていない。

 アイシャがここに至るまでどんな気持ちで過ごし、死を覚悟してまで戦っていたのか。そんなことは一切考えず、ただ自分の操り人形のようにして遊びたいというだけだ。

 これでアイシャが自分の思い通りのおもちゃになってしまえばオネット王国などどうでも良くなって退くかも知れない。しかしアイシャは、自分がこの男に弄ばれることを耐えられるとは思えなかった。


 青年の、他の女の紅で汚れた唇が迫って来る。

 アイシャは身動きができないままで呻いた。――神様、どうかわたくしをお助けくださいまし。心から祈り、目の前の男を全身で拒絶した。


 きっとその祈りが神に届いたのだろうと思う。

 互いの唇が触れ合うその寸前、奇跡が起きた。


「――そこの君。僕の姫君に何をしているのかな?」


 その声はとても鋭く、それでいてとても優しい声だった。

 アイシャはその声を聞いて思わず固まってしまう。嘘だと思った。だって彼がこんなところにいるはずがない。


 なのに目の中から何か熱いものが溢れてきて止まらなくなった。ああ、来てくれたのだと、それだけはわかったから。


「お前、誰だ」


 先ほどまでニヤニヤしていた男が慌てて振り返り、入って来た人物に叫ぶ。

 けれど彼からの答えはなく、その代わりに皇太子へ鋭い刃物が突きつけられた。見るとそれは、奪われたはずのアイシャの短剣だった。


「僕が先に質問したはずだけどね。さて、ダミアン・プランス皇太子。姫君を返していただこうかな。それとも……」


「俺が名無しのお前なんかの脅しに乗るとでも? これは、俺の嫁だ」


 あくまで余裕を装うダミアン皇太子。だが、その顔色は蒼白に見えた。

 彼はきっと、突然の侵入者に怯えているのだろう。――ここがどこかは知らないがきっと警備は万全だったはずだ。それを乗り越えられるくらいの者となれば、警戒しないはずがなかった。


「もう結婚式を挙げてしまったのかな? 姫君が永遠の愛を誓ったのなら、僕としても君たちの結婚を祝福したいところだけれど……姫君はそれを望んでいるのかい?」


 アイシャはかぶりを振った。言いたいことはたくさんあったが、とにかくダミアン皇太子の花嫁になることだけはごめんだ。

 そしてその瞬間、顔を現した侵入者は嬉しそうににっこりと微笑んで、


「良かった。これでもう、僕は躊躇わなくていいね」


 ダミアン皇太子の首に迷いなく剣先を走らせていた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ――ダミアン・プランス皇太子が息絶えた帝国軍の部屋からは場所を移し、彼の乗って来た馬車の中でのこと――。



「ラーダインっ……!」


「あんまり無理しちゃダメじゃないか、アイシャ王女殿下」


 拘束を解かれたアイシャは、彼――ラーダイン・ペリド公爵令息の膝の上で泣きじゃくっていた。

 こうして涙を流すのは二回目だとぼんやり思う。ただし一回目とは違い、これは心からの嬉し涙だった。


「ごめん、なさいっ……。わたくし、あなたを守りたくて。なのに」


 危険なことに巻き込みたくない。ただその一心で奔走したというのに、逆に助けられてしまっただなんて格好がつかないにもほどがある。

 色々と理解の追いつかない点もあったが、とにかく彼の膝に体を預けているという事実だけで彼女はとても幸せな気持ちになれた。


 ――嬉しい。


 泣いて泣いて泣きじゃくって、泣き腫らして。

 ずっと頭を撫でていてくれたラーダインは、彼女が泣き止むのを待ってから言った。


「僕が現れて、君は驚いたかい?」


「ええ。でもどうして、来てくださったんですの」


 アイシャは確かに、ラーダインに婚約破棄をしたはずだ。

 それはたとえアイシャが今でも彼を愛していたとしても、公然の事実で。そんな女をどうしてここまで追って来たのかが彼女にはわからなかったのである。

 すると彼は笑顔でこう答える。


「言ったでしょ、僕、君のためなら何でもするって。愛する人のためならどこにだって駆けつけたいと思うんだ。……っていうのは格好をつけすぎかな。君の侍女のリリーから教えてもらった。君がどうしてあの夜、あんなことを言ったのかをね。

 それで一度戦場に向かったんだが、短剣が落ちていただけで君の姿はなくて。でも幸いなことに形跡だけは残っていたからこうして君の元へ辿り着けたというわけさ」


 ――ああ、リリーが。


 アイシャは納得し、小さく頷いた。

 彼女には事前に厳しく口止めしておいたのだが、そんなことを聞く娘ではないことも薄々わかってはいた。きっとアイシャの身を心配するために、ペリド公爵家へわざわざ真実を伝えにいったのだろう。


 余計なことを、と思いはしたけれど、おかげでこうして今彼と一緒にいるのだから何も不満はなかった。


「むしろ帰ったら一番に感謝しなくてはいけないですわね」


「ああ、僕もさ。おかげでこうして君が狼に汚される前に助けることができた。……アイシャ王太女殿下、本当に、ご無事で良かった」


 安心したように息を吐く彼を見て、アイシャはたまらなく愛おしくなる。

 ああ、再び彼と同じ道を歩めるならどんなに素敵だろう。そんな風に想像して思わず頬が緩んだ。


「ねえ、ラーダイン」


「何かな? 僕の姫君」


「……わたくしのことはぜひアイシャと、そうお呼びくださいませんかしら? そして――わたくしとまた、やり直してほしいんですの」


 非常に勝手な話であるとはわかっているけれど、もう彼の手を離すことは嫌だからとアイシャはわがままを言った。


 彼女の紫紺の瞳とラーダインの黄緑色の瞳がそれぞれ見つめ合って、しばらくの沈黙が落ちる。

 そしてその沈黙を破った声はとても甘く柔らかく、まるで天使のもののようにアイシャには思えた。


「アイシャ。そんなに不安そうな目で見なくても大丈夫だよ。僕も、君と同じことを思っていたから」



 そしてラーダインはアイシャへ、そっと触れるだけの口づけを落とした。

 それは二人にとって初めての口づけであり、二人の愛が確かなものとなった瞬間だった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆





 それからアイシャたちはオネット王国へ帰り、国王や公爵の激しい反対がありつつも、ダミアン皇太子を討ち取ったという功績のおかげで渋々ながら婚約者同士として認められた。

 戦争もすぐに収まって戦勝を機にアイシャがオネット王国の女王となり、夜会での婚約破棄という稀代の大事件はその後の祝賀ムードによってかき消され、大した反発もないままアイシャとラーダインは幸せな結婚式を挙げて夫婦となったのである。



 ――そしてその数十年後、『愛する人を守るために戦った王女と勇敢な公爵令息の恋物語』として語り継がれる美談となるのだが、そんなことは彼女らの知る由もないことだ。

 後編がかなり長くなりましたが、これにて完結です。

 ご読了ありがとうございました。


「面白い!」など思っていただけましたら、ブックマークや評価をしてくださると作者がとっても喜びます。

 ご意見ご感想、お待ちしております!

 評価★★★★★欄の下、作者の別作品へのリンクがあります。もしよろしければそちらもよろしくお願いします。



※追記

 連載版始めました〜。


【連載版】婚約破棄なんてしたくなかった。〜王女は婚約者を守るため、婚約破棄を決断する。〜

https://ncode.syosetu.com/n0494hx/


 短編版では出て来なかったキャラやシーンが盛りだくさん! ぜひこちらもよろしくお願いします♪


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― 新着の感想 ―
[気になる点] 国力差のある帝国の皇太子を殺害しておいて報復がない……? つまり、皇太子は国内で鼻つまみ者だったってことでしょうか? 女タラシで女(主人公)が欲しいって理由だけで開戦するような輩だから…
[一言] いやあ、そういうことでしたか! ハッピーエンドでよかったよかった( ˘ω˘ ) 名作をありがとうございました!
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