中編
夜会から帰り、王宮で夜を明かした翌朝のこと。
アイシャは父であるアリソン・ペール・オネットに、鋭く冷たい氷のような声音でお叱りを受けていた。
「アイシャ。お前は以前からジャックと違ってろくでなしだとは思っていたが、今回の醜態、どう申し訳をするのだ? 公衆の面前で婚約破棄などとほざきおって。あれは王家とペリド公爵家が結んだ、いわば契約なのだぞ。頭の回らぬお前にはわからぬだろうがな。せめて解消という形であれば良かったものを。……ただでさえ戦が近づいているというのに混乱を極めてどうする。お前は、王太女などに向かぬ馬鹿な娘だ」
その言葉にアイシャはうつむき、ずっと押し黙っていた。
父にはわたくしの心の内なんて何もわかっていないのですわ、と彼女は改めて思う。普段一日中と言っていいくらい言葉を交わさない間柄だし、別に傷つくわけでもないのだけれど、静かに怒り狂う父が少し滑稽に見えた。
解消という形にすれば穏便に済ませられたことも、この国に戦禍が近づいていることも、アイシャは知っている。むしろ、それを知っているからこそ今回の行動に及んだのだ。
アイシャがラーダインと婚約破棄した理由。それは決して、あの場で口にした通りの意味ではない。
『わたくしがもうあなたを愛することができなくなってしまったからですわ』なんて嘘だ。アイシャは今でもラーダインのことを想っている。本当ならば添い遂げたいと思っていた。
けれどこのオネット王国には今、隣国のプランス大帝国が攻め込もうとして来ていることを彼女は知っていた。我が王国とプランス大帝国には平和条約があったが、最近になってそれを破棄しようという動きが出ていると聞く。動機はまったくもってわからないが、まもなく宣戦布告されることは火を見るより明らかだった。
両国の兵力の差は凄まじいものである。
オネット王国は、今まで武器や防具の大半をプランス大帝国から輸入して仕入れていた。それほどの大国であるわけだから、小さなオネット王国が帝国に勝てるはずもないのだ。
王家は滅びる。アイシャはそれを予見していた。きっと王族は皆捕らえられ、処刑されてしまう。
だからアイシャは決めた。ラーダインだけは絶対に守り切ろうと。
きっとラーダインと婚約を結び続けていたら、戦禍の時、彼はアイシャを庇って最前線に行ってしまう。
でも彼は別に剣の腕が立つわけでもないことをアイシャは知っていた。それでもきっと彼は戦場に行ってしまうような、そんな人だとわかっていたから。
だから彼女はその前に縁を切り、彼だけでも救う道を選んだ。王家に裏切られれば当然ペリド公爵家は憤慨するはずで、だから、帝国側につくことだってできる。
そう。全てはラーダインの命を守るため。
これがラーダインの望んでいることではないのはわかっている。だからこれはアイシャの単なるわがままだ。自分の大切な人を、もう二度と失いたくない。兄を亡くしラーダインまでいなくなってしまえば彼女の心はがらんどうになってしまうだろう。
たとえ彼に恨まれ、最低の女だと思われたとしても構わない。どうせ自分は死ぬか、ひどい辱めを受けながら生き地獄に陥る未来が待っているのだ。そんな女に未練を残させてはいけないのだ。
きっと彼なら戦争を乗り越え、素晴らしい未来が待っている。
きっとそこでまた新たな運命の人と出会えるだろう。アイシャのことなんか綺麗に忘れて、その人と、幸せになってくれればいいのだから――。
「ラーダイン、さようなら」
愛しい、心から愛せるたった一人の青年に、アイシャは心の中で別れを告げた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――ああ、神よ。多くの民が苦しまずに済みますよう。
――わたくしの愛しい人がどうか生き残れますよう。
――わたくしの愛しい人が、世界で一番幸せになれますよう。
――ああ、神よ。わたくしの胸に、ほんのわずかなる勇気をお与えくださいまし。
アイシャは王宮の近くにある神殿に赴き、神へ祈っていた。
王政であり王を最も高位とするこの国では宗教は軽んじられがちなのだが、アイシャは神を信じている。だから、この身に余る願いを神に届けようと思ったのだ。
父に見られたらまた大目玉を食うでしょうね、とアイシャは頭の片隅で思う。まだ朝のお叱りから数時間しか経っていないので今度は監禁されるかも知れない……などと考えつつ、しかしアイシャに関心のない父王がわざわざ彼女の行動を把握することがないのはわかっているので大して心配はしなかった。
父はアイシャのことを、愛する妻を死に追いやった元凶だと決めつけ、憎み続けている。本当ならば早々にどこかへ嫁がせ追いやりたかったであろう王女が、王子の死によって王太女となったのだからますます冷遇は厳しくなった。まるでアイシャがそこにいないかのように彼は思っているし、昨日のように問題を起こした場合はゴミクズでも見るような目で見下ろしてくる。
――まあ、別に慣れたことですけれど。
ああ、集中が乱れてしまった。
アイシャは祈りをやめ、そっと頭を上げる。神殿の中央には大きな女神の像が置かれ、こちらに微笑みかけていた。
これで少しでも自分の願いが聞き入れていただければ幸せなことだと思いながら彼女は神殿を後にする。もう二度と足を踏み入れることはないだろうからと神官たちに別れの挨拶をして。
彼女は、自分の女々しい未練を振り払うように激しくかぶりを振り、足早に王宮へ戻ったのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
もしお兄様ならば、と思うことがよくある。
あの時お兄様が死なず、今でもわたくしの隣にいて、民を導いてくださっていたなら……と。
アイシャは所詮、力のない一人の少女でしかない。
藤色の髪に紫紺の瞳。まるでおとぎ話の妖精のようだと称賛され、『麗しの紫水晶姫』と呼ばれるほどの美貌に恵まれてはいるが、為政者としては未熟にもほどがあった。
終わったことをいつまでもウジウジと後悔してしまう。今も頭の中にチラつくのはラーダインの笑顔、そして最後に見た悲しげな目ばかりだ。
――もしもお兄様ならば、こんな迷いはなかったはず。
お兄様さえいてくだされば、もしかしたらこの小さな王国が帝国に敵う手立ても見つかったかも知れない。けれどわたくしにはそんな立派なことなどできませんわ。
けれど兄には最期に、この国を頼んだと言われてしまった。
だからアイシャは力のない両足で必死に立つ。そして自分が選べる最善を取るのだ。
「――アイシャ王女殿下! 大変であります。隣国プランス大帝国が我がオネット王国との平和条約を破棄し、その上で宣戦布告したとの知らせが届きました!」
王宮に帰るなり兵団長に告げられた言葉に、アイシャは「いよいよですのね」と悪戯っぽい笑みを浮かべる。
そして、言った。
「わかりましたわ。ではわたくしも戦地へ赴きますから、どうぞ手配をよろしくお願いいたしますわ」
その紫紺色の瞳には固い決意の色が込められていた。