前編
「ラーダイン・ペリド公爵令息。ここに、わたくしの名において、あなたと婚約破棄を宣言させていただきますわ!」
――とある夜会にて。
オネット王国の王太女アイシャ・アメティスト・オネットは、彼女の婚約者……否、たった今から赤の他人となる青年へ、そう高らかに宣言していた。
今まで賑やかだった夜会に突然響いたその声に、出席者たちは皆唖然となる。
それはそうだろう。王太女がこんな場で、婚約破棄などと口にするなんて誰も思っていなかっただろうから。
そして中でも一番驚き動揺していたのは、ラーダイン・ペリド公爵令息に違いなかった。
「……アイシャ、それは、何のつもりだい」
ともすれば言葉を失って失神してもおかしくないような状況なのに、ラーダインはあくまでも冷静に言葉を返す。
アイシャはそんな婚約者を誇らしく思いながら、しかし紫紺の瞳を鋭く細めた。
「わたくしがもうあなたを愛することができなくなってしまったからですわ、ペリド公爵令息。あなたに非はありません。……それと、今からわたくしとあなたは全くの他人となりますから、どうぞ呼び捨てはやめてくださいまし」
自分でも驚くくらいに冷たい声が出た。
アイシャがまっすぐに見つめる先、ラーダインはわけがわからないという目でこちらを見返していた。それでも彼は言葉を続ける。
「アイシャ……王太女殿下、何があったのか教えてくれないか」
自分で指示しておきながら、彼によそよそしい呼び方をされると悲しくなってしまう。アイシャはそんな自分をまだまだですわね、と内心で叱責し、
「あなたに愛想がつきた、ただそれだけですの。それ以上は何もなくってよ。これ以上わたくしの視界にあなたが映るのは目障りですわ。婚約は破棄。ご理解いただけましたわよね?」
できる限りの拒絶の言葉を吐いた。
これで、彼との関係は終わりになる。
アイシャのラーダインへの一方的な婚約破棄は、夜会という場で行ったわけだからまず間違いなく貴族たちの話題になることだろう。そして王家の力をもってしてもこの醜聞は覆せない。
ペリド公爵家はアイシャに反感を抱き、この先近づこうとは思わないに決まっている。だからラーダインとはもう二度と会うことはない。
――それでいいのですわ。
アイシャは悪役っぽく頬を歪めて笑った。
そして悲しげな目を向けてくるラーダインを置き去りにして、一人、足早に会場を後にする。
今にも溢れ出してしまいそうな涙を、必死で堪えながら。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
アイシャ・アメティスト・オネットはオネット王国の第一王女として生を受けた。
彼女を生んだがために母は死に、父からは嫌厭されて生きてきた。悲しいといえば悲しい話だが、アイシャは特段気にすることはなく過ごしていた。
きっと孤独に感じなかったのは、五歳年上の兄のおかげだったと思う。兄――ジャック・フレール・オネットは王太子にふさわしい優秀な少年でありながら、アイシャを目一杯可愛がってくれる。だから別になんら不満を抱くことはなかったのだろう。
そんなアイシャの婚約が決まったのは八歳の時だった。
相手はオネット王国筆頭公爵家の次男ラーダイン・ペリド。金髪に黄緑色の瞳をした、とても愛らしい少年であった。
最初は、ただ綺麗な男の子だなと思っていただけだ。
見目が美しいことを除けばどこにでもいる貴族令息で、特段頭が良さそうにも見えない。同年齢だったけれど趣味はまだ幼く、庭を駆け回ってばかりのよく言えば活発、悪く言えば落ち着きのない点がアイシャには少々気がかりだったくらいだ。
これが自分が将来夫とする人だと聞いてもいまいち実感が湧かなかった。別に喜ばしいわけでも、嫌なわけでもない。所詮政略である。でも、兄が「良かったな」と頭を撫でてくれたことは嬉しかったのをよく覚えている。
王女として立派に育ち、大きくなれば公爵家へ嫁ぐ。ただそれだけのはずだったのだ。
そんな彼女の心持ちが変化したのは、十歳のある日のこと。
――兄が死んだ。
突然だった。
彼の婚約者であった女に刃物で刺されたのだと聞いた。どうしてそんな悲劇が起こったのか、詳しいことは知らないけれど。
アイシャが駆けつけた時にはすでに兄に生気はなく、血を流してぐったりとしていた。回復の見込みなどもはやなかった。
『アイシャ、ごめんな……。この国を頼んだぞ』
それが彼からもらった最後の言葉だ。
アイシャは深く悲しんだ。この世の終わりかというくらいに。
犯人を自分の手で殺してやりたいと思ったけれど、その前に兄の護衛が取り押さえた時に殺してしまって復讐すら叶わない。やり切れないこの気持ちをどうしたらいいか、アイシャには全くわからなかった。
王太子である彼が死んだからには、アイシャが立太子しなければならない。オネット王国にはジャック王子とアイシャ王女の二人しかいなかったからだ。
でも悲しみから立ち直ることができず、アイシャはまるで魂の抜けた人形のようになってしまっていた。
それを慰めてくれたのがラーダインだったのである。
「アイシャ、どうしたの?」
お茶会をしても上の空なアイシャを見て、ラーダインは心配そうな顔をする。
そして、慌てて「大丈夫ですわよ」と無理に笑おうとするアイシャの頭に手を乗せて、彼は言ったのだ。
「――悲しいことがあったら、僕に言って。僕、君のためなら何でもするから」
その日、アイシャはラーダインに膝枕をしてもらいながら、泣いた。
人生で初めて人前で泣きじゃくったアイシャ。彼女は、心から救われたような、そんな気がしたのだ。
それからというものラーダインに惚れ込んでしまったアイシャは、ずっと彼のことを想ってばかりいた。
今まで兄を慕っていた分までラーダインを愛する。弟のように可愛がり、時には慰めてもらい、時には助け助けられながら過ごす日々。自分が立派な王太女として立てるようになれたのはラーダインのおかげだ。
だからこれからもずっと彼と支え合いながら生きていこう――そう思っていた。
けれど、十六歳になり結婚が半年後に迫った時、彼女の耳に信じられない情報が入ってきて。
彼女は涙を堪えながら決断をした。
…………最愛の人を守るため、自分の恋心を捨てることを。