変
落ちた穴の側面はザラザラとしていた。おーい、と僕は言った。小さかったか、と思い、もう一度言った。返事はない。どうして穴なんかに落ちてしまったんだろう。ちゃんと足元に注意していれば、こんなことにはならなかったはずだ。ただ歩くのは退屈だと思い、音楽を聴くためにイヤホンをポケットから取り出して、それを耳にはめようとした瞬間、落ちた。今イヤホンは右手にある。僕はそれをポケットに戻す。穴は狭い。だから、手の甲が穴の側面に擦れて、白っぽい痕が残る。
誰かに電話をしようかと思うが、まだ自力で何とかなるか。それにしても、なんでこんな深い穴が、人が入れるような穴が、あるのか。穴は、僕が落ちるために、あるのか。僕が穴に落ちるところを、誰も見ていなかったのだろうか。見ていなかったのだろう。助けは来ない。あああ、と、独り言を言っていることに気付き、黙る。まだ空は明るい。
僕は立ち上がる。尻が冷たい。頭四個分くらいの高さが頭上にある。手を横に広げて、足を横に広げて、パッパッパッと、よじのぼることを想像して、やってみる。ダメだ。穴が狭すぎて、飛べないヒヨコみたいになる。なんでこんな狭い穴に、しっかりと僕は落ちたんだ。引っ掛かるだろう、普通。普通じゃないのか。穴が? 自分が?
考えてると、頭を後ろにつけてしまって、嫌な感触がする。頭の位置を元に戻すと、後ろがさっきよりも狭い、と感じる。前も狭い。右も、左も。頭痛がする。頭痛は、さっきよりも狭い、と感じてから始まったことだ。しかし今この頭痛は、狭いからなのか、穴に落ちたからなのか、朝起きた時からなのか、汗を掻いているからなのか、もうよく分からないし、分かっても頭痛は治らない。
少しジャンプする。穴の出口には届かない。逆に、身体が沈んだ気がする。身体が沈んだと考えてしまうくらいなら、ジャンプしなければよかった。誰かが近付いてくる気配がする。僕は息を殺して、その気配が去っていくのをじっと待つ。叫べばいいじゃないか! 僕はそう考えるが、まだなんとかなると思っているし、穴に落ちていることを恥ずかしいとも思っている。気配が去る。僕は安心する。だから、とくに何も考えずに、またジャンプをする。膝を擦る。ズボンの汚れを見て、汚れた、と思うが、他の場所はすでに汚れていた。
空を見上げる。まだ日は暮れていない。また人の気配だ。それはどんどん近付いてくる。カツカツと音がする。あっ、と僕は短く声を出した。目が合う。女だ。女が穴を覗き込んでいて、その目は僕にぶつかる。大丈夫ですか? と聞かれ、ちょっとキツイです、と僕は答える。キツイのか。狭くて、抜けられなくて、困って、キツイになったのか。女の顔を見て、キツイ、に思い至ったのか。
女がこちらに手を伸ばしてきて、その腕は白い。無理ですよ、と僕は言う。持ち上げられないですよ。女は手を引っ込める。引っ込めるのか、と僕は思う。試さないんだな、と思ったが、無理ですよ、と言ったのは僕で、僕は女々しい。女は穴の上で何かをしている。何をしているのか分からなかったが、今分かった。靴を脱いでいたのだ。それはヒールだった。二足あった。
「ジャンプして、この踵の部分を穴の出口に引っ掛けて、それでなんとか出れませんか?」と女が言う。僕は女からヒールを受け取る。つま先を掴んだので、体温は感じない。サイズは思ったより小さい。僕は腕を上に伸ばしてみる。ヒールは届きそうだ。折れるかもしれませんよ、踵、と僕は言う。安物なんで気にせずどうぞ、と女は言う。安いヒールがいくらするのか僕は知らない。やってみよう、と思う。ここでやらずにヒールを返して、もし女がそれを受け取ったら、ああ受け取るのか、と僕は思って、それは女々しい。
僕は両腕を上に伸ばす。踵が引っ掛かるように、位置を調整する。女が顔を引っ込める。僕は跳ぶ。ヒールの踵が地面にめり込み、それは折れない。足をバタつかせながら、よじのぼる。身体を穴から出す。足が、人魚みたいな形で転がっている。風を感じる。よかったあ、と女が言った。僕は、どうもありがとう、と言って、女の足首を掴み、ヒールを履かせようとする。これに足が入るのか。嵌めようとすると、逆逆、と女が笑った。