サイェレット・マトカル
内戦の続くシリアで化学兵器が使用されている証拠を掴む為の潜入任務は、ある出来事から思わぬ方向へと走り出す。それは同時に、イスラエル軍特殊部隊の死闘の始まりでもあった。
レバノン・某所
ようやく夜が明け始めた頃、がらんとした廃倉庫に着信を報せるスマートフォンの振動音が響き、それを受けてダークグレーのスーツ姿の男が画面をタップして耳に当てる。
「引き渡しは今夜だ。金を用意しておけ」
電話の相手は一方的に用件だけを伝えると、男の返答を待たずに切った。
「行くぞ、お前たち」
だが、男の方も気にする事なく配下の男達に指示を出すと、自身は黒のメルセデス『G550』の後部座席に乗り込んで車を出させる。こうして車列を組んだ3台のSUVと1台のトラックは、どこかへと走り去り、廃倉庫へは2度と戻って来る事はなかった。
◆
シリア・ダマスカス郊外県
どこまでも続く硬く乾いた地面と大小様々な岩が点在する無人の荒野、この日は珍しく深夜にも関わらず複数の人の気配があった。そして、彼らのうち3人は『Ural-4320』トラックや『UAZ-469』汎用車両、服装などから政権軍兵士だと分かる。
しかし、他は何人かが汚れや傷の目立つアサルトライフルで武装しているものの全員が私服で装備にも統一感は無く、ここへは砂埃にまみれた4台の市販車に分乗してきた政権寄りの立場を取る民兵だった。当然、彼らが人目を避けて会うのには相応の理由がある。
なぜなら、2011年から続く内戦で国際社会から現政権が保有や使用を激しく非難されているVXガス弾頭(化学兵器)だが、言い逃れをする為に実行は民兵組織にさせており、ここが引き渡しの現場だからだ。
「必要な物は揃えておいた。お前たちは手筈どおりに実行するだけでいい」
「分かった」
さすがに階級章や所属部隊を示す物は外していたが、言葉遣いや態度から3人の政権軍兵士の中では指揮官的立場にあると容易に推測できる年長の男が民兵側のリーダーの男に指示を出していた。
もっとも、両者が直接会うのは最終確認をして化学兵器を引き渡す時だけなので、後は『Ural-4320』トラックの積荷を移し替えて立ち去るだけだった。
ゆえに、国防省管轄下のイスラエル参謀本部諜報局の情報収集・分析部門の地道な活動によって引き渡しの場所と日時を特定し、20時間以上も前から現場に潜伏していた4人のサイェレット・マトカル(諜報局直属の特殊部隊)隊員は素早く行動を開始する。
別々の岩陰に転がっていた4つの枯草やぼろ布の集まりにしか見えなかった塊が突然動き出したかと思うと2人ずつのチームを組み、化学兵器の引き渡しを行っている集団を左右から挟み込むようなルートで接近していく。
そんな中、ブルパップ式(発射機構などの機関部が銃本体の後方にある)の『CTAR-21』カービン(取り回しを重視して全長を短くしたアサルトライフル)を構えて右方向から接近するチームの前方を進む隊長でもあるヨシフ大尉は、緊張感のない見張りの民兵が1人で背中を向けて立っているのをヘルメットに装着した『GPNVG-18』NVG(暗視ゴーグル)の緑色の濃淡で表現される視界の中に捉えていた。
そこで彼はスリングで吊った銃から手を放し、背中側へ回して邪魔にならないようにすると、特殊部隊員らしく自費で購入した『Pillar』タクティカルナイフをタクティカルベストに装着した鞘より引き抜いて右手に持ち、ほとんど音を立てずに素早く背後へ忍び寄った。
そして、タクティカルグローブ(ハーフフィンガータイプ)をはめた左手で相手の鼻と口を塞ぎ、すかさず首に押し当てたナイフの刃を自身から見て左から右に勢いよく動かし、頸動脈と気管を一気に切り裂く。
「――ッ!?」
その激痛に民兵の男は悲鳴を上げようとするが、口を手で塞いでいるので誰かに声を聞かれる心配は無い。さらに、大尉は男が抵抗して暴れ出すよりも早く体重を掛けて地面に引き倒し、肋骨の隙間から心臓を目掛けてタクティカルナイフの刃を突き刺した。
しかも、より心臓の傷口が大きくなるようにナイフを持つ手を動かして大量出血を促す。やがて男の身体から力が抜けて動かなくなり、死んだと判断した大尉は口を塞いでいた手を放してナイフも引き抜き、刃に付いた血や脂を殺した男の服で拭いて立ち上がると鞘に戻した。
最後に大尉は、男が持っていた『56-3式』自動歩槍(『AKM』アサルトライフルの中国製コピー)を回収してマガジン(弾倉)を取り外すと、銃本体とマガジンを死体から離れた別々の場所に音を立てないよう注意しながら捨てる。
こうして直ぐには使えないようにする事で、死んだと思っていた敵が生きていた場合に反撃を受けるまでの時間を稼げるのだ。また、大尉が民兵を殺すまでの間、もう1人のマトカル隊員は即座に射撃を行える態勢で後方から周囲を警戒していた。
幸い、今回は射撃を行うような事態にはならなかったので大尉は部下の軍曹にハンドシグナルで移動する事を伝えてから歩き出し、1分程で目標地点に辿り着いた2人は予め目星を付けていた民兵側の車両の陰に身を隠した。
「こちら、アルファ。配置に就いた」
「ブラヴォー、配置に就きました」
そして、大尉が咽喉マイクと骨伝導ヘッドホンを接続した無線機に向かって小声で呟くと、もう一方のチームからも僅かに遅れて同様の通信が届く。この報告には含まれていないが、彼らも民兵の1人をナイフで静かに殺していた。
「アルファからブラヴォー。指揮官の2人は我々が片付ける。お前たちは兵士を始末しろ。こちらが撃ったら行動開始だ」
「了解」
続いて大尉は必要最低限の指示を出すと、傍らで彼に背を向けて後方を警戒している軍曹の肩を叩いて自分に注意を向けさせ、ハンドシグナルで政権軍指揮官を狙うよう伝える。
なぜなら、今回のメンバーでは軍曹が分隊狙撃手(マークスマン:歩兵分隊と行動を共にする一般兵とスナイパーの中間のような存在)の役割も担っており、その優れた射撃技術は重要目標の排除に最適だったからだ。
それもあって彼の『CTAR-21』カービンには、標準装備となっている『MOR』リフレックスサイト(照準用の光点が表示される等倍率の光学照準器)に加え、『MX3』マグニファイア(等倍率の光学照準器と組み合わせ、ワンタッチで使用と不使用を切り替えられる低倍率の光学照準器)が装着されていた。
「準備完了」
やがてブラヴォーを率いる隊員と軍曹の射撃準備が整ったとの報告を受け、大尉は即座に攻撃許可を出す。
「軍曹、殺せ」
「アイ・サー」
まずは、2つの光学照準器越しに政権軍指揮官の頭に狙いを定めていた軍曹が発射モードをセミオート(トリガーを引くごとに1発だけ弾が出る)にしていた『CTAR-21』カービンのトリガーを右手人差し指で真っすぐに引く。
すると、発砲時の反動が射手に伝わるのとほぼ同時に銃口に取り付けた『556MINI2』サプレッサー(減音器)によって減衰され、通常よりも低く乾いた発砲音で5.56mm×45NATO弾が撃ち出される。
こうして撃ち出された弾丸にはバレル(銃身)に刻まれたライフリング(螺旋状の溝)によって前後軸に対する回転運動が加わり、空気抵抗を受ける中でも弾道が安定して命中精度が向上するのだ。
そして、初速900m/sを超える銃弾にとって200m未満の距離は一瞬で威力の低下も無視できる為、弾は指揮官の頭部を易々と貫通して脳組織や頭蓋骨の破片と一緒に反対側へ飛び出した。
「え……、ぐぶっ!」
いきなり頭を撃ち抜かれて絶命した人間が倒れるのを目にした民兵のリーダーが呆然とした顔で何かを呟こうとするが、直後に自身も斜め後方から複数の5.56mm×45NATO弾を撃ち込まれて言葉にならないまま絶命する。
さらに、ほとんど同じタイミングで2人の政権軍兵士にもそれぞれ『CTAR-21』カービンから複数の銃弾が撃ち込まれ、何が起きたのかを理解する暇もなく死んだ。
「アルファからブラヴォー。お前たちは証拠を押さえろ」
「了解」
「我々は敵を制圧するぞ。ついて来い」
「分かりました」
もう一方のチームに無線で化学兵器の確保を命じると、大尉は軍曹を伴って車両の陰から出て敵の捜索を開始した。
その際、彼らは視線と銃口の向きを一致させる態勢で互いに援護しつつ周囲を警戒しながら素早く移動し、大尉が車両の陰にいた『56-3式』自動歩槍を持つ民兵を10mにも満たない近距離から胴体と頭に弾を撃ち込んで射殺している。
また、軍曹は共に100m以上遠方で互いに20mは離れて立つ別々の民兵を連続して狙撃し、どちらも1発で頭を撃ち抜いて殺していた。大尉の無線機にブラヴォーからの通信が入ったのは、そんな時だった。
「ブラヴォーよりアルファ。証拠は押さえましたが、問題発生です」
「なにがあった?」
「対象の数が足りません。10本以上が行方不明です」
それを耳にした瞬間、大尉の表情が険しいものになった。だが、すぐに意識を切り替えると民兵の殲滅を優先する。
「詳しい話は後だ。そのまま確保しておけ」
「了解」
なお、民兵の殲滅後に合流した大尉が受けた説明によると、ブラヴォーの隊員が2人の民兵を排除して確認したところ最大15本は入る運搬ケースの中にあったのは、円筒形の金属製容器(VXガス弾頭)が1本だけというものであった。
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パレスチナ自治区・ガザ地区
実は、消えた14本のVXガス弾頭は私腹を肥やそうとした政権軍指揮官の独断で民兵へ引き渡す前に武器商人に売られ、そのままイスラエル側が把握していないルートで国外に運び出されていたのだ。そして、購入したのはイスラエルにテロ攻撃を繰り返す武装勢力だった。