統失探偵
精神病院を退院した井出圭は社会生活に順応するため、同じ病棟で知り合った安在実と共に社会人サークルの会合に参加した。参加メンバー同士の小さな諍いはあったものの、会は無事終わり、二人は降り荒ぶ雪のなか合場となった山荘に宿泊した。
雪が止んだ翌日、山荘の庭でバラバラに切断された死体が見つかった。死体には雪が積もっておらず、死体のそばに足跡もない。被害者が宿泊していた部屋は内側から鍵が掛かっている状態だった。
吹雪の山荘で起こる密室殺人、屋根裏部屋に何者かの痕跡、移動した死体、雪密室、切断された死体の問題、一癖も二癖もある社会人サークルのメンバーたち、信頼できない語り手、ミステリのすべてが詰まった(詰まってない)ニュー本格ここに誕生。ミステリの定石をかなぐり捨てた先で待っている真相に、きっとあなたはスマホを叩きつけるだろう。
頻繁に神の声が聞こえるわけではない。平時において神はじっと私を見守っている。しかし、私がこの世界を漫然と覆う悪意の標的とされたとき、例えば思考盗聴や集団ストーカーに囲まれたときなど、私の意識に神の言葉が流れ込み、解決への道を指し示してくれる。それは鼓膜を伝い聞こえる声ではない。聴神経が直接発火するのだ。
私は神の声に従い幾つかの事件を解決した。この話は私が統失探偵を名乗るきっかけとなった事件であり、神の声が福音になるだけでなく、ときに悪魔の囁きにもなることに気付かされた事件である。
降り荒ぶ雪が区画割を示す白線を覆い隠し駐車位置の確認が出来ない。井出圭は恐らくこの位置だろうと当たりをつけ、バックモニターを確認しながらゆっくりと車をバックさせた。車止めにセンサーが反応し車内に警告音が鳴ると、慌ててブレーキを踏む。井出はサイドブレーキを引いてエンジンを止めると、両手でハンドルを抱え込むように首を落とす。そして大きなため息をついた。
「どうかしたのかい?」
助手席に座る井出の友人、安在実が言った。井出と安在は精神病院で知り合った。どちらかが病院関係者といったわけではなく、お互い患者として同じ病棟に入院していたのをきっかけに仲が良くなった。二人が退院してからもその関係は続いている。
「いや、何でもないよ」
「まさか聞こえてはいけないものが聞こえているわけじゃないよね?」
井出は俯いたまま口を動かす。
「退院してから幻聴は聞いていない。幻視も見ていない。ただ、少し緊張しているんだ。退院してから君以外とまともに会話をしていないからね」
「ここまで来てしり込みしたのかい? 君は勇気を出してこの会に参加することにしたのだろ? こういうのは勢いが大切なんだ。さあ行こう、サークルのメンバーが待っているよ」
井出はハンドルから顔を上げカーナビのモニタに目を向けた。約束の時間を僅かに過ぎている。
「ああ、そうだよな。ここにいても何も変わらない」
井出は体を起こしてシートベルトを外す。運転席のドアを開けると寒さが足元から体幹を伝って駆け登って来るのを感じた。
板張りの大広間の中心に無垢材で作られた一辺二メートル弱の正方形の大きなテーブルが置かれ、一辺に二人ずつ並んで座っている。大広間の入り口から一番奥まった席に座る男がテーブルを見渡して口を開いた。
「皆さん集まりましたので、自己紹介から始めましょう」
男の髪の毛は丁寧に七三に分けられ、もみあげから側頭部にかけて所々白いものが混ざっている。男のとなりに座る金髪の小柄な女が、テーブルの端からにゅっと顔を出して男が話す様子を眺めていた。
「お足元の悪い中、こんな山奥までお越しいただきありがとうございます。私がこの会を主催した菱田です。この山荘の管理人をしています。と言っても温泉地でもありませんしスキー場もない場所なので、この季節にお客さんは殆ど来ません。週に一度、食糧を買い出しに行くとき以外は山荘に閉じこもっています。ですから今日、皆さんとお会いできるのを楽しみにしていました」
そう言って菱田は駐車場に面した掃き出し窓に目を向けた。菱田の右隣に座る井出も菱田の視線につられて窓に目を向ける。叩きつける吹雪によって窓枠がガタガタと音を立てていた。
「この天気なので外に出ることは出来ませんが、大広間にはオーディオセットがありますし、ラウンジには皆さんがお好きな奇術の本をそろえた書棚があります。料理は、これは好みもあるので満足していただけるか分かりませんが、腕によりをかけてご用意させて頂きました」
テーブルの上には大皿に盛られた肉料理やサラダ、酒のつまみに丁度良いディップなどが並び、各々がそれらの料理を自分の小皿に取り分け口に運んでいる。
「菱田さんの料理、全部美味しいですよ。僕は嫌いなものがないので、何でも美味しく食べられるんです」
菱田の対面に座る小太りの男が笑いながら言った。男は薄くなった頭部を覆うように両サイドの髪の毛を整髪料で前頭部に撫で付けている。いや、整髪料ではなく皮脂かもしれない。いずれにしても風が吹けば捲れ上がってしまうだろう。
「それは良かった。羽毛田さんのように好き嫌いがない方だと助かります」
菱田は羽毛田に笑みを返したあと、隣に座る金髪の女に目を向けた。
「彼女はアンナです。見ての通り外国人ですが、日本語は話せるので安心してください」
皆の視線がアンナに向けられる。アンナはすっと背を伸ばし、くりくりした青く大きな目をゆっくりと左右に動かすと、顔に対して幾分小さな口を開いた。
「アンナです。よろしくお願いします」
「アンナさんと菱田さんはどこで知り合ったんですか?」
菱田の左隣に座る女が言った。女は黒髪のショートボブ、赤いオーバル眼鏡越しに興味深げにアンナを見つめている。アンナが女に目を向け「たしか赤嶺さんとおっしゃいましたよね?」と聞くと女は「ええ」と答える。アンナは赤嶺ににっこりと笑いかけ話を続けた。
「菱田とは五年ほど前にチェコのプラハにある雑貨屋で知り合いました。当時、私はその店に勤めていたのですが、あるときふと外を見ると、擦り切れたジーンズにしわくちゃなTシャツを着た東洋人が店の中を覗いていたんです。私の勤めていた店は歴史のある店で、旅行者の方が多く来られますが、バックパッカーがふらりと立ち寄るような店ではありません。その東洋人も、店の中には入ってこないだろうと思っていたら、私と目が合うと、私を見据えたまま店の中に入ってきました。そしてつかつかと私の前まで歩いて来て、いきなりこう言ったんです」
アンナはそこで言葉を区切ると、菱田を見上げた。菱田はアンナに優しく微笑みかけ、アンナに代わって答えた。
「あなたを日本に連れて帰りたい」
「ひゅう!」
赤嶺の隣に座る髪の毛を青く染めた男が首を突き出して口笛を吹いた。その反動で幾重にも巻かれたチューカーに付いたアクセサリーが擦れ合いチャリチャリと音を立てる。
「一目惚れでした。数ヶ月かけてヨーロッパを回るつもりで節約しながら旅を続けていたのですが、彼女を見たら先のことなど考えられなくなってしまい、店の前にあった観光ホテルを定宿にして毎日彼女のもとに通い続けました。アンナは看板娘でしたから、最初は店のオーナーもいい顔をしなかったのですが、何度も通っているうちに私たちの仲を認めてくれるようになりました。もちろん、アンナも私のことを気に入ってくれたようです」
「いやあ、カッコイイっすね」
髪の毛を青く染めた男が声を上げた。菱田は照れ笑いを浮かべる。
「ええと、お名前はなんでしたっけ?」
「俺は蒼井って言います。赤嶺と一緒に住んでいるけど、恋人とかじゃないっすよ。俺は音楽をやってるんだけど、これが全然売れなくて、バイトでもすればいいんだけど、こんな髪色でしょ? だからコンビニでも雇ってくれない。だから赤嶺の家にやっかいになっているんです。それを世間じゃヒモって言うらしいけど、お互い恋愛感情はないからただの居候です。そんな関係だよな?」
蒼井に話を振られた赤嶺が菱田に向かって言った。
「ええ、そんな関係です」
「赤嶺さんは何をされている方なんですか?」
「私は医療機関で働いています」
「それじゃあ、お仕事大変でしょう。今日来ていただいてよかったんですか? お医者さんの休みは有ってないようなものだと聞きますし」
菱田がそう言うと、赤嶺はすぐに言葉を返した。
「いえ、医師や看護師ではなくて医療事務です。定時出勤定時退社、有休もある程度好きに取れます」
「貴重なお休みを使って無理して来られたのかと心配しました」
「いえいえ、忙しかったとしても今日は絶対に来ていましたよ。なかなか同じ趣味の方とお会いする機会は無いですから、凄く楽しみにしていました。ただ、勘違いしている方もいるみたいで……」
赤嶺は目を細め羽毛田を見た。羽毛田はなぜ赤嶺に睨まれたのか理解できずに一瞬目を泳がせたが、次は自分の番だと合図を送られたとのだと解釈したようで、赤嶺に笑いかけてから立ち上がった。赤嶺はあからさまに嫌な顔をして羽毛田から目を背ける。
「僕は羽毛田と言います。職業は農業で、両親と一緒に米を作っています。そして隣に座っているのが……」
対面から菱田が羽毛田に声を掛けた。
「あの、羽毛田さん。別に立ち上がらなくてもいいですよ」
「ああ、そうですね。失礼しました」
羽毛田はポケットからハンカチを取り出して額の汗をぬぐう。そして椅子に座り直して話を続けた。
「幸子です。僕の妻です。僕たちは旅行が趣味で暇さえあれば二人で出かけます。菱田さんが言われたプラハにも行きましたよ。カレル橋をバックに記念撮影したよね?」
羽毛田は幸子に目を向けてテーブルの上に置かれた幸子の手を握った。椅子に座る幸子の頭の位置は羽毛田とそう変わらないが、顔の大きさは羽毛田より二回りほど小さい。眉の上で揃えた栗色の髪の毛に同じく栗色の大きな目、低い鼻梁の下に慎ましながらもふっくらと存在を主張する唇、一見すると十代にも見えるが、細い首筋の下に唐突に現れる巨大な胸が成熟した女性であることをアピールしている。
「お二人はどこで知り合ったんですか?」
菱田が幸子に向かって言った。井出も羽毛田から幸子へ視線を移す。幸子は皆から視線を向けられても誰とも視線を合わそうとせず、窓の外を見つめている。口も半開きだ。幸子の様子を見て羽毛田が菱田に言う。
「幸子無は口なので僕が説明します。幸子とはアダルトショップで……」