地獄草紙異聞録
幼くして死んだ少年のキョウタロウは、賽の河原で石を積み続けてきた。それを完成させた時生き返ることが出来ると信じて。そしてついに鬼の妨害をくぐり抜けて石の塔を完成させた時、現れた地蔵菩薩が特例として現世にキョウタロウを復活させた。ただし、復活の条件として冥界から持ち込まれる様々なトラブルを解決する使命を与えられたのだった。
キョウタロウはお目付け役としてやって来た奪衣婆の孫娘とコンビを組んで、あの世とこの世を巻き込んだ大事件に挑戦する。
そこには巨大な川が流れていた。
川幅が広すぎるのと、気味の悪い瘴気が辺りを覆っているため、対岸など全く見えず海の様でもあるのだが、轟々と音を立てて水が流れており川である事を主張していた。
河原には拳よりも大きな石が一面に転がっている。
そして、河原には何人もの人間が列を成している。奇妙な事に彼らは全く喋らず沈黙を守り、一様に白装束を身にまとっているのだった。
その白装束の列に沿って、二つの人影が並んで歩いていた。
「婆さんや。もうそろそろかいのう?」
「ああ。そんな頃じゃないのかい。鬼どもがうずうずしているよ。おや? あんたぁ、渡し賃を持ってないね。代わりにこれを貰っとくよ。ほいっ」
並んで歩いているのは、男女の老人であった。
ただの老人ではない、彼らは列を成す人間たちよりも遥かに巨大で、指には鉤爪が生えている。また、皺くちゃの顔に並ぶパーツは、ぎょろりとした巨大な目と言い、乱杭歯と言い、いかにも恐ろしげだ。その彼らは白装束の集団から金銭を回収しながら歩いており、払えない者からは服を剥ぎ取っているのだ。あまりの早業にどうやって服を脱がせているのか全く分からない。
老婆の名は奪衣婆、翁の名は懸衣翁と言う。
この名前を聞いて、賢明なる読者諸兄の方々はもうお気づきだろう。
ここは死者の来る世界である賽の河原、そこに流れるのは冥府との境界線である三途の川だという事に。
「始まったぞ!」「あっちだ!」
三途の川の渡し賃を徴収する奪衣婆と懸衣翁を手伝って済々と亡者を整列させていた鬼達が、にわかに騒ぎだし、一か所に向かって集まっていく。
そこでは鬼達が輪になって取り囲む中、一際巨大な体躯を持つ鬼が暴れまわっていた。この鬼は、他の鬼よりも立派な毛皮を身にまとっており、地位が高そうに見える。そしてよく観察すると、なんと一人の少年が鬼と殴り合っている。
「また始まったな、キョウタロウがああやって鬼に戦いを挑んで、もう何回になるかね」
「さあねぇ。百回から先は覚えてないよ」
鬼と戦っている少年の名はキョウタロウと言い、何年か前にこの賽の河原に来たのだ。
現世でも良く知られている通り、年若くして死んだ子供達は親よりも早く死んだ罪として賽の河原に留まり、地獄にも極楽にも行くことが出来ず、ただ石を積むしかない。それも完成する前に鬼がやって来て崩されてしまう。
しかし、そこにも救いはあり、地蔵菩薩が度々賽の河原を訪れて連れ出してくれ、新たな生へ旅立つことになるのだ。
だが、キョウタロウは地蔵菩薩の救済を拒み、石の塔を完成させるため邪魔する鬼に敢然と立ち向かっているのだ。
始めの内は、簡単に石を崩されていた。当然である、人間――それも子供が鬼に敵う訳なんてないのだから。しかし、キョウタロウは諦めることを知らなかった。
「まさか、人間の子供が鬼と戦えるまで成長してしまうなんてなぁ」
奪衣婆達の視線の先で、キョウタロウはなんと鬼と真正面から対等に殴り合っている。一歩も引くことのない、真っ向勝負である。
「今じゃキョウタロウを抑えられるのは、鬼どもの長の赤鰐だけか。確かにここじゃ、もう死ぬことはないし、どんなに手ひどくやられてもその内元通りになる。でもだからと言って、こんなことをする奴は見た事無いよ」
「ところで婆さんよ。キョウタロウが信じている、石を積み切れば生き返ることが出来るってのは、どうなんだろうな?」
「さあねぇ。仏様や閻魔様からここで亡者を導く様に言いつけられてもう何千年にもなるけど、石積みを完成させた奴なんて見た事ないね。先代の奪衣婆からも聞いた事が無いから、天地開闢以来無いんじゃないかね」
奪衣婆が悲しそうな顔で問いに答えた。現世では亡者から衣服を剥ぎ取る冷酷非道な老婆として知られている彼女だが、それは単なる冥界の役目を果たしているに過ぎない。子供が徒労を重ねているのを見るのは忍びないのだ。
賽の河原において子供達がどれだけ頑張って石を積んでも、鬼がやって来てこれを崩してしまい、完成せず報われないことから、賽の河原は徒労の意味として使われることがある。
しかし、奪衣婆の知識によると、例え完成させたとしても無意味なのだと言う。まさに徒労である。
「キョウタロウが聞き入れてくれればいいんだけどなぁ。前に儂が言っても聞きゃあしなかったよ。赤鰐達も、生き返れるなんて、そんな話を知らないって言ったらしいがねぇ」
「あたしも、あの子に言ったけど聞いてもらえなかったよ。その時あの子が言ってたけど、この賽の河原を通り過ぎていった亡者の誰かが、あの子に言ったらしい。『石積みを完成させれば生き返ることができるかも』ってね。悪意があったのか、単なる冗談なのか、本気で思い込んでいたのかは分からないけど、あの子はそれを信じ込んだんだ」
戦いは続き、殴られ続けたキョウタロウの動きが次第に鈍ってきた。対する赤鰐は、流石に鬼の頭である。疲れる様子も負傷も感じさせることなく、変わらぬ動きで攻撃を続ける。
大木の様な腕から放たれる一撃は、命中すればキョウタロウに血反吐を吐かせ、寸前で回避しても空を切り裂き裂傷を負わせる。猛り狂う暴風の様な存在と戦い続けるだけで消耗していくのだ。
「キョウタロー! もう諦めろ! 諦めて地蔵菩薩様の慈悲にすがり、生まれ変われ!」
「冗談じゃねえ! 俺は、石の塔を完成させて、生き返ってやるんだ!」
赤鰐の懇願するような叫びに対し、キョウタロウは傲岸不遜な口調で答えた。よりダメージを受けているのはキョウタロウの方なのだが、逆の様な印象すら覚える。
「この、分からずや!」
止めを刺す決心がついたのか、赤鰐は渾身の力を込めて拳を突き出した。その凶暴な顔つきにも似合わない洗練された一撃で、予備動作も無く、常人なら躱すことなど能わないだろう。
「何度それを食らったと思ってる? それを待ってたんだ!」
キョウタロウは赤鰐の攻撃を完全に予測しており、すり抜ける様にして背後に回り込む。
「ちぃっ、やるなキョウタロウ。しかし回り込んで殴ろうが、お前の打撃で俺を倒すことなど出来んぞ」
「だろうな。しかし、これならどうかな?」
赤鰐が振り向く前に、キョウタロウは赤鰐が身につけている毛皮の上衣を脱がす様にして、その腕を絡めとってしまった。
「ぬう」
「鬼のパンツは……なんだったっけ? 確か強いとかなんだとかの歌を聞いた事があるが、本当の様なだな。あんたの馬鹿力でも破れないようだ。奪衣の婆さんの見様見真似だがこんなに上手くいくとはな」
身動きの取れない赤鰐を尻目に、キョウタロウは悠々と最後の石を手に取り、これまで積み重ねてきた石の塔に積み重ねた。
「あの子……本当にやっちまったよ」
戦いを見守っていた奪衣婆は呆然と呟いた。
人間が鬼に勝利して石積みを完遂するなど、前代未聞のことである。しかも自分の技を模倣して勝利したのだ。その感慨はひとしおである。
「でも、石を積んだからって何も起こりやしないんだよ……」
石積みを完了させても何も起きないので、辺りを見回すキョウタロウを見ながら奪衣婆は悲しそうに呟いた。賽の河原を取り仕切る彼女にも、こればかりはどうしようもない。
その時だった。
薄暗く日の光が届かない賽の河原が、眩いばかりの光に包まれた。
「地蔵菩薩様、どうしてここに?」
倒れたままの赤鰐が不意の来訪者に驚き、拘束されたまま何とか平伏する。地蔵菩薩は行き場の無い子供達を救いに賽の河原を訪れるものだが、まだその時期は来ていないはずだ。
「よう、お地蔵さんよぅ。見たろ? こうやって石を積み終わったんだ。生き返らせてくれるんだろ?」
「おい。口の利き方に……」
「良いのです。赤鰐」
地蔵菩薩に言いつのるキョウタロウを赤鰐は制止しようとしたが、地蔵菩薩はそれを止めさせた。
「キョウタロウ、今まで石をも赤鰐や奪衣婆さんがあなたに諭してきたように、石を積むことに意味など無いのです。現世で言われているように親より早く死んだ事への罰でも無いのです。もちろん生き返るための試練でもね。ここを訪れた子供達は何故か石を積みたいという衝動にかられ、逆にここで働く鬼達はそれを崩したいという思いにかられるようですが、それに確たる意味などありません。強いて言うなら私がここに救いに来るのを待つための暇つぶしでしかないのです」
訥々と諭す地蔵菩薩の言葉に、流石のキョウタロウも表情を暗くした。今まで地蔵菩薩は戦いを見守るだけで、直接石積みを否定してきたことは無かった。だから、奪衣婆や鬼達が知らないだけで石さえ積めば生き返れると信じていたのだ。
「ですが、人の身でありながら鬼を倒すまで諦めなかったその信念、これは称賛に値します。それにあなたの様な人間を我々は探していたのです。良いでしょう。あなたの望みを叶えてあげます。ついてきなさい」
そう言った地蔵菩薩は閃光を放ち、賽の河原に居た者たちはたまらず目をつぶった。そして、再び目を開いたとき、地蔵菩薩もキョウタロウも姿を消していた。
「なんてこったい。ただの人間が鬼を倒して、しかも地蔵菩薩様が特例を許してくれるなんて」
キョウタロウの成した事は空前絶後であり、彼を生き返らせるという地蔵菩薩の行いはこれまでの世界の理から外れることである。それに、地蔵菩薩が言うにはキョウタロウを必要とする何かが起きているらしい。
何かが、世界を揺るがす何かが動いているのを奪衣婆と懸衣翁は感じ取り、キョウタロウの無事を祈るだった。