氷纏雪駆のリベンジャーウルフ
大地を穢し、資源を浪費し、自然を汚染する人間に対し、星が対症療法として生み出した人類の天敵。
人間だけを喰らう、星の浄化装置とも呼ばれるその漆黒の獣によって、人類文明はこれまでに何百回もの興亡を繰り返していた。
そして今回も新たに、若き天才ピアニスト「ヤコフ・バレリエフナ・セレブリャコーフ」の生きる世界もまた、恒例のように浄化が行われようとしていた。
人は人である限り、漆黒の獣には敵わない。その絶対の法則を前に絶望に暮れるヤコフの前に現れたのは、前回の敗北者であり、人ならざる人類種だった。
結局、人類に価値ありと信ずるは人類のみであり。
どれだけ栄華を極めた社会も、惑星という視点から観測すれば無用有害。完成された自然を汚す醜悪な病原菌でしかない。
穢れは払わなければならず、病は治療せねばならぬ。
そのために奴らは生み出された。
星の浄化装置、文明を喰らう漆黒の獣。
目標はただ一点。原始への回帰、地上に蔓延る知性体の絶滅。
奴らの行動に一切の呵責はない、躊躇も。
これまで幾度も繰り返されてきた処理であり、たとえそれが人類史上初にして唯一の世界統一という偉業であったとしても、全ては興味の埒外にある。
我々が積み上げたものに意味はなく、
人間は害獣の烙印を押され駆除される。
それが星の意志であり、選択だ。
その運命に抗うための力を、人類は持ち合わせていなかった。
「──だからどうした。許せるものか、ここまでされて、許してなるものか」
しかし、どうすることもできない。
敵は人類の天敵として創られた、存在そのものが人類特攻。
人はただ、人であるというだけで奴らと戦うことも許されない。
「知ったことではない、摂理も道理も。私は認めぬ、応報せねば気が済まぬ。たとえ外道に堕ちようとも、私は必ず貴様らを──」
ゆえに──
「コロシテヤル」
・NEXT
万の民を幸福へと導いた稀代の名君
世界の常識を一変させた天才発明家
祖国にその身命を捧げし勇敢な兵士
これといって特徴の無いパン屋の娘
路肩に眠るみすぼらしいホームレス
並べて等しく、肉である。
ヤコフ・バレリエフナ・セレブリャコーフ、彼もその一人だった。
二十三歳の若さにして世界でも五指に数えられる作曲家にしてピアニスト。
彼は今、凍てつくような冬風に吹かれながら、此処ではない何処かを目指して雪の中を歩いている。
「くそぅ……ちくしょう……」
普段温厚な性格の彼をして、状況は最悪だった。
彼の故郷は既に存在しない。一週間前までは確かにあったはずなのに、もう何も残ってはいやしない。
「どうして、こんな目に遭わなくちゃならない……!」
人生で初めて口にする悪態は、誰に聞かれるでもなく雪に溶ける。
ヤコフは「奴ら」が何なのかを知らない。巡業先の地方都市から逃げ出す際に、遠目にその姿をちらりと見ただけだ。
瞬間に強度の吐き気を催し、足の震えが止まらなかった。すぐに視線を逸らしていなければきっと気絶していたろう、邪悪。
故郷を、祖国を滅ぼし、現在も世界を滅ぼしているらしい「漆黒」。
最低だ。ああ、最低だ。だけどそれは謂わば極大規模の災害で、皆が平等に不幸だった。
しかしこのクソッタレな世界は、常に最低を更新し続けて止まない。
軍人だった兄と、託された義姉と姪。
かけがえのない家族も、失うのは一瞬だ。
兄は戦場に向かってしまった。
残された二人を守ると誓ったヤコフは、恩師に騙され集団リンチに遭い、政府から送られた要人輸送用の鉄道切符を奪い取られ。
彼が気絶している間に義姉は火事場泥棒に襲われ殺された。
目覚めたヤコフが目にしたのは荒らされた自宅と、無残な死体。空になったガレージの隅で膝を抱えて泣く姪の姿。
彼の家の合鍵を持っていたのは兄夫婦と、親友だと信じていた男。
明日をも知れぬ貧乏だったはずのそいつが、数時間前に大量の荷物を載せた車で街を出たと、近所の老婆が教えてくれた。
それらを全てを、運が悪かった、間が悪かった。
そんな言葉で飲み込めるほど、ヤコフは聖人ではない。
理不尽を呪い、世界を憎み、人生に絶望した。
それでも──
「おじさん、だいじょうぶ……?」
「……ごめんヴィーシャ、もう大丈夫」
「……そぉ?」
「うん、心配いらない」
──何もヤコフが足を止める理由にはならない。
懐に抱える小さな命。最後の肉親が、ヴィーシャが生きている限り。
この姪っ子だけは死なせない。それが自分を親代わりに育ててくれた兄へ、ヤコフが恩を返す唯一の方法だった。
「死んでたまるか」
決意の言葉を凍土に霞む。
共に故郷を捨てた避難民の数は日毎に減っている。
赤子の凍死体を抱いて泣き叫ぶ母親、死んだ母親の前でべそをかき立ち尽くす子供。そんな光景からは目を背け、両方が死んだら荷物を剥ぎ取った。
「死なせて、たまるか」
涙を瞬く間に凍り、流れることはない。
だからヤコフは、泣いていないのだ。
・NEXT
「逃げてください、生きたいなら」
やっとの思いで辿り着いた目的地。
そこでヤコフを待っていたのは──
「近隣の拠点は全て陥落しました、もうすぐこの街も戦場になる。そして我々には、貴方を守るだけの力がない」
いや、何も彼を待っていなかったのだ。
住人も物資も残されてはいない。
疲労の色濃い軍人たちが貧相な装備で寒さと恐怖から体を震わせているだけの寂れた街。
「無責任だとは分かっています。ですが俺は、貴方に諦めてほしくない。貴方はまだ死ぬべきでない。いつか戦いが終わったとき、きっと貴方のピアノが必要になる」
ヤコフのピアノを一度だけ生で聴いたことのあるという同年代の兵士は、絶望を受け入れながら微かな希望を語った。
質の悪いウォッカとチョコレートをヤコフに持たせ、生きてまたピアノを弾いてくれと頼んだ。
「生きている限り可能性は残る。どうか、ご無事で」
そう言って笑った兵士に言葉を返せなかったことを、ヤコフは死ぬまで悔い続ける。
ご武運を、たったその一言が言えない自分を呪った。
「二人だけ、か……」
街を出るヤコフに続く影はない。
誰もが逃走を諦めた。ここから先は人間を拒絶する氷の大地。
自分が逃げているのか、死に場所を探してるのかも分からない。
「ヴィーシャ、少しで良いから食べないと」
「んーん、おじさんが食べて……」
道中、弱々しく首を振るヴィクトーリヤの体重はずいぶんと軽くなった。
焦燥が、ヤコフの身を包む。
「ふざけるなっ、こんな死に方認めるか!」
体力は限界に近い、早くしないと間に合わない。
「次だ、次の街に着けばきっと──」
……だからといって、体がついてくるとは限らない。
ヤコフはただのピアニストで、訓練を受けた兵士ではない。
ふらつく体で風除けの木の傍らにへたり込み、ギュッとヴィクトーリヤを抱き締める。
──嗚呼、誰か、助けて。
・***** END
たった数時間、ヤコフは気を失っていた。
致し方のないミス。ただタイミングが、どこまでも致命的だっただけで。
「ヴィーシャ?」
呼吸が止まる。
「ヴィーシャ!?」
叫び、体を揺する。だが返事はない。
体が冷たい。血の気がない。命の灯りが消えかかっていた。
「嫌だ嫌だ嫌だ!」
それでも微かに脈がある。まだ生きている。
「頼むっ、死なないでくれ! 助けるから、俺が絶対に助けるから!」
立ち上がり、走り出す。
……しかし。
「あがっ!?」
足に力が入らず、雪に絡まれ無様に転ぶ。
命の灯が消えかけているのはヤコフも同じだった。
頬に触れる雪がどれほど冷たくとも、立ち上がる力は残っていない。
「誰か……誰かいないのか」
肘を杖に、どうにか上半身を起こす。
「どうして誰も助けてくれない……誰でも良い! 誰だって良い! こんなに頑張ったんだ、少しぐらい報われても良いじゃないか!」
なぜ──
「どうしてこの子が死ななきゃならない!?」
残りの力を全て振り絞った慟哭。
それが呼び寄せたのは──
「────」
漆黒の獣。
「ふざけんなよ……なんのために逃げてきたと思ってる……」
こんなものが、人間の死に方であるものか。
「くそっ、くそっ、くっそォ……!!」
敵は星の浄化装置。
人類の絶滅は必定。
その運命に抗う力を人類は──
・NEVER END
「落ち着け後輩、もう死んでル」
──持ち合わせているとしたら。
「え……?」
漆黒の巨体が前のめりに崩れ落ちる。
そして、声の主がヤコフの前に姿を現す。
「もう大丈夫ダ、よく頑張ったナ」
大きな耳、大きな目、大きな口、そして鋭い爪。
それは、お伽噺でしか聞いたことのないような存在。
銃剣一丁携えて、氷を纏いて雪原を駆る。
人ならざる人類種──人狼。
「あなたは……?」
「旧人類……ってのァ、ちょっと格好つかねェカ」
ヤコフが尋ねれば、人狼はニヤリと笑う。
同時にヤコフは気付く。彼方より此の地へ、大地を踏みしめる無数の足音、空気を震わす獣の咆哮。
荒々しく威圧的、しかし秩序立ったそれには聞き覚えがあった。
「軍歌……?」
「俺たちハ、新生シルドベリア連邦赤軍第205強襲突撃大隊」
かつて滅びた連邦は、此処に再起する。
人々は絶望の果てに、踏みつけにされることに飽いたのだ。
滅殺すべきは人類の天敵、人は人である限り奴らに敵わない。
──ゆえに、我らは既に人ではなく。
獣に堕ちた、人間であることを捨てた。
土地を捨て、誇りを捨て、自由を捨てた。
極地に消えて雌伏を続け、今日この瞬間をずっと待っていた。
その全て、奴らに復讐を果たすため。
円環を拒み、星に叛逆せし我らの名は──
「コードネームは──」
──リベンジャー。