殺人予定、あり。
彼女は、崖の上に立っていた。
自らの浮気が原因で家族、友人、職の全てを失い、力なく、空虚に。
絶望を胸に抱いて身を投げたはずだった。
夢か、現か、彼女は過去へと戻っていた。ちょうど、夫になる男性と出会ったその日に。
彼女はやり直す決意をする。
その身に待っている破滅から逃れるために、間違った道を避けて通ることを固く誓う。
そうすれば、夫を殺してしまうことも、きっとない。
未来の自分はどうかしていたのだ。浮気相手に唆されて、悪い夢を見ていたのだ。追い詰められていたのだ。
そう自らを納得させて、彼女は二度目の生活を送る。
けれど、彼女が殺人の道から逃れるすべは、どこにもなかった。
これで最後だと、彼女は何度自分に言い聞かせただろう。数え切れないほどの最後宣言は、いつでも自分の手で反故にしてきた。全て、自らの意志薄弱さが招いた結果だ。その挙句が今の彼女の状況を生んだのだ。
人の来ない二月の早朝に、崖の上から眼下の海面を憔悴しきった顔で眺める。彼女は、これから身投げをする。もう、何も残っていないのだ。家族も、友も、職場の仲間も、家も。そして、全てを失う元凶となった、夫以外の恋人も。
震える唇から、息が漏れた。寒くてたまらなかった。コートの上から自らを掻き抱き、膝からその場に頽れた。その肩に手を置いてくれる存在は、もう誰もいない。
「浮気なんて……」
――しなければよかった。そう、口から出しきる前に声は掠れ、少しだけ咳き込んだ。乾いた咳に胸骨が軋む。もう、二日ほど碌に食べていなかった。ああ。もう、いい。自分にはもう何も残っていないのだから、もう、いい。
倒れ込むようにして、崖下の海面へとその身を投げた。
◇
身を投げた、その、はずだった。
転寝から急に醒める時の、あの急激な落下感と共に、びくりと肩を震わせて彼女の意識は浮上した。果たしてそこは、孤独な崖の上ではなかった。どこか見覚えのある、華やいだ会場。小綺麗に着飾った男女がめいめい、グラスや小皿を片手に談笑に勤しんでいる。自らの風貌もまた、白を基調とした清楚なクラシックドレスで、先ほどまで着ていた服装とはまるで違っていた。
瞼を二度三度と瞬かせてみるが、先ほどまでのうすら寒い早朝の孤独とは縁遠い風景が眼前にはあった。
「大丈夫ですか。少し、ぼうっとしておられるみたいですが」
肩口、後ろから声が降る。それは、よく知った声。もう聞くはずのない声。びくりと肩を震わせて勢い、そちらへと振り返る。そこにいたのは、彼女の夫であった人だった。
――どうして。どうして彼が。私が、殺してしまったはずなのに。
夫は、死んだのだ。間違いなく、彼女の目の前で。では、目の前の人物はいったい誰だ。彼女が混乱の中で声を発することができずにいると、彼はそれを警戒と捉えて言葉を続けた。
「ああ、すみません初対面で急に。体調が悪そうに見えたので、つい」
彼女の混乱はいよいよ深まった。
「宗二……さん?」
「あれ、どこかでお会いしましたか」
よく見れば、随分と若く見える。まるで出会った時と同じような。そこまで考えて、はたと彼女は気が付いた。
手が、違う。自らの手が、いやに若々しかった。
もう一度、周囲を見渡して彼女は気が付いた。
ここは、夫と初めて出会ったパーティー会場だ。
心臓が、跳ねた。
過去に戻ったとでもいうのだろうか。そんな、非現実的な。それとも、これは走馬灯なのだろうか。身を投げた自分が今際の際に見ている過去の影灯篭なのだろうか。けれど、彼女の五感はしっかりと世界を捉え、夢の浮遊感などは一切感じなかった。
「あ、の。その時計……素敵ですね」
意を決して、言葉を投げてみた。夫との初めての会話を、彼女は覚えていた。10年以上も前のことだったが、それでも鮮明に思い出せた。
「あ、これ、実は見栄を張ろうと思って昨日買ったんです」
「よく似合ってます」
出会った時と、まったく同じやりとり。白いクロスの掛かったテーブルに触れた指を滑らかにすらりと這わせて、小皿を持ってローストビーフを口に入れた。
少し酸味の効いたソースが強く舌に残る。空腹感などは感じていなかったが、数日ぶりの食事に、感覚は大げさに反応してしまうらしく、つんと抜けるような味に思わずむせた。
「わっ、大丈夫ですか」
「大、丈夫、です」
軽く咳き込みながら、どうやら夢ではないらしいと彼女は考え始めていた。それと同時に、湧き上がる一つの想い。もしも、もしも過去に戻れたというのならば。やり直せるのではないだろうか。後悔と共に身を投げる結末を、変えられるのではないだろうか。いや、変えるのだ。変えたい。あんな結末は、嫌だ。嫌だ嫌だいやだ。
「ごめんなさい、少しソースの味が濃くて」
「別のもの、何か取ってきますよ」
「いえ、私が。宗二さんはハッシュドポテトがお好きでしたよね」
「や、やっぱりどこかでお会いしてませんか?」
「ふふ、内緒です」
取り戻した落ち着きに比例して、彼女はその身の軽さに驚く。10年前の体。まだ20代半ばの、瑞々しい肉体。自分で言うのも何だが、壁の姿見に映る自分の姿はとても魅力的だった。
◇
彼女からしてみれば二度目の交際。それはとても順調だった。未来が見えない不安というものが彼女には無かったから。何から何までまるきり一緒、というわけではなかったが、大まかに過去をなぞって差し支えなかった。
かつては、結婚するまでに幾度か喧嘩をしたこともあったが、その原因も解決法も、全て知っているのだ。つまずく石は事前に取り除いて、平坦穏やかで幸せな道を彼女は進む。
逢瀬を、体を重ねて数か月。
当たり前の風景になった宗二の家での朝のコーヒータイム。何を言われずとも、宗二の好みである濃さで、ミルクのみ。砂糖はなし。
「本当に、あなたは不思議です。まるで未来が見えているみたいだ」
「宗二さんが素敵な人だからです。私のことを、真剣に考えてくれているんですもの」
宗二が照れたように笑い、そして鋭く息を一つ吸って、彼女の名前を呼んだ。
「結婚、してくれませんか」
「え、もう……?」
「僕なりに、真剣に考えたんですよ。いい夫婦になれると思います。きっと」
少しだけ、不安がよぎった。結婚は、出会ってから二年目の春だったから。あまりにも早いプロポーズに、彼女はしばし沈黙する。宗二はそれを見て不安げな顔を浮かべるが、何も言わずに彼女の言葉が紡がれるのを待っていた。
大丈夫。きっとこれが、望んだ結末のはずだ。何一つ間違うことなく進めてきたのだ。過去と違う道へ踏み出したとしても、それはきっと最悪の未来から遠く離れることに他ならない。
――宗二さんは、とっても、良い人だもの。大丈夫。そう、大丈夫よ。
これから先は、また不安と共に過ごすことになる。先の見えない不安。それでも、順風満帆の末に得たプロポーズだ。間違えているはずがない。これが正しいはずなのだ。
「喜んで……。お受けします」
宗二は顔を綻ばせて彼女の元へ歩み寄り、力強く彼女を抱擁した。少しだけ痛かったが、その痛みこそが彼女の不安を塗りつぶした。
結婚を間近に控え、宗二の家に荷物を運ぶ日々が続く。予定していたよりも早い結婚だったが、確定していた未来として心づもりはしていたので、コツコツと荷造りは進めてあった。最小限の荷物でよかったし、かつて結婚後に捨てたようなものは予め捨てておいた。あまり着ることのなかった服などがその大半を占めていた。内容を知っていたので雑誌を買うという習慣もなくなっていた。
その生活習慣の変化から、彼女の意識にも変化が生まれた。
より強く、宗二に対して気持ちを向けるようになった。それは依存にも似た感情であったが、宗二のために、自分ができることはしたいと願う。
「ねえ、宗二さん。私、料理教室に通おうと思うの」
「君の料理、とてもおいしいけど?」
「もっとおいしいもの食べて欲しいから。それに、楽しいの。料理」
「そっか。君が楽しいなら大歓迎さ」
「ありがとう、宗二さん」
料理が楽しい、と思えるようになったのは、過去にはなかったことだ。これも、余裕のある生活が成せることなのだろうと彼女は思っていた。
◇
駅前の料理教室は、家庭料理を中心にした指導をしていて、普段の料理を少しだけ彩り豊かにしてくれるような、華やかさを増してくれるような場所だった。それが彼女には嬉しかった。新たなものを積み上げていくのではなく、今そこにあるものを中心に据えることは彼女の望みと近しいものだったから。
週に一度、木曜日が待ち遠しかった。
ある日。
料理教室に新しく参加者が増えた。料理教室には珍しく男性の生徒、それも見目の良い若い男性だということで、周囲の人々は俄かに色めき立っていたが、彼女だけは焦りを覚えた。
崖に身を投げる結果を生んだ、すべての元凶。自らのかつての浮気相手が、そこにはいた。
心中、焦りを無理やり抑えつける。
大丈夫だと。一時の欲を追い求めた結果、あんなに酷い結末を迎えることになったのだから。
そもそも、今はまだ初対面なのだ。
必要以上に近づかなければいいし、今度こそ、宗二さんを裏切らない。今度こそ。
決意を固めて、胸の前で両手を重ねて強く握る。
浮気相手だった男性は、周囲ににこやかに挨拶を交わしながら彼女の目の前までやってきた。
「どうも、お久しぶり。優里さん」
「ど、どこかでお会いしましたか……?」
男性が口の端を上げて不敵な笑みを浮かべる。
「いやだなぁ」
さわやかな声が、厭に耳にまとわりつく。少し身をかがめて彼女だけに聞こえる声で男性は言った。
「結婚する前に会えていたら、って10年後に言ってくれたじゃないですか。今度は、もっとうまくやりましょうよ」
血の気が引き、目の前が暗転していく中で、男の吊り上がった口元だけが優里の視界に映っていた。