剣獣神
父にさらわれ、アジアの小島で獣のような生活を送っていた幼い東郷一郎は、問いかける。
「お父さん、森で鳴いているアレはなに?」
「あれは……、剣獣神だ、誰からも愛されず、誰にも必要とされない、悲しい神さまの泣き声だ」
父の死後、西洋人に解放され日本に帰った一郎だったが、社会にも里親にも馴染めず、ただ、遺品のリボルバー拳銃を学生鞄の底に収め、高校へ通う。
運命の日。
その日、一郎は通学途中、狂女チャリア・チャリオットを見る。
彼女は気の触れた女生徒で奇抜な格好で学校内を徘徊する存在だ。
「ケンジュウシン、ケンジュウシンがくるよ~~、生徒が沢山死ぬよぉ~~」
そして、一郎の通う大尾根第三高校はテロリストに占拠され、彼は射殺される。
夜。
リボルバー拳銃を分解し注油していると、決まってあの頃の事を思い出す。
もう、ずっと遠い昔の記憶だ。
子供の頃、俺は父親にさらわれて南洋の無人島で獣のように暮らした時期がある。
密林。
湿度。
そして飢えと渇きだけを覚えている。
父は気が狂っていたのだろう。
母に裏切られ、子供の俺をさらって南洋へ逃げた、そのずっと前から。
格闘技をたたき込まれた。
ナイフの使い方をたたき込まれた。
銃の撃ち方をたたき込まれた。
殴られ殴られ殴られ、血を吐き、骨が折れ、疾病に倒れ伏し、それでも俺は死ななかった。
父親の目には憎しみの色しかなかった。
彼には我が子を殺す勇気が無かったのだろう。
鍛える、という名目で、殴り、蹴り、技術を教えた。
どこかで俺が死ぬのを期待していたのだろう。
俺は密林が怖かった。
夜、鳴く、猿の声が怖かった。
すすり泣くような高い悲鳴が怖かった。
「お父さん、森で鳴いているアレはなに?」
「あれは……、剣獣神だ、誰からも愛されず、誰にも必要とされない、悲しい神さまの泣き声だ」
父の狂気が怖かった。
何もかもが怖い中で、俺は、ただひたすら技術を覚え、生きていた。
誰からも愛されず、誰にも必要とされない。
剣獣神は、まさに俺だった。
ある日、父は野豚に突かれて死んだ。
猟銃の弾が野豚の堅い頭蓋に跳ね返され、そのまま突かれて、一緒に崖下に転落していった。
崖を降りると、父も野豚も死んでいた。
ふう、と、大きい息をついたのを覚えている。
涙は出なかった。
見上げた空が青かったのを覚えている。
それから一年か二年、無人島の密林で俺は生きていた。
何時しか剣獣神の泣き声は聞こえなくなっていた。
島中の野豚を刈り尽くした頃に、島にクルーザーで遊びに来た外人に俺は発見された。
大きな赤ら顔の白人が痛ましそうな表情を浮かべ、痩せこけた俺を抱きしめた。
俺の発見は少しニュースになり、日本に帰ってきた。
母は迎えに来なかった。
施設に入り、里親をあてがわれた。
知らない養父養母、知らない家、知らない部屋に入れられた。
養父母は俺を愛してくれようとしたのだろう。
とても善良な人達だった。
悪いのはまともな反応を返せなかった俺だ。
いつしか養父母は俺を見なくなり、食事とお金だけを出してくれるだけの存在となっていた。
悪い、とは思っている。
だが、俺は日本の生活に馴染めなかった。
高いビルが建ち並び、蟻のように沢山の人がうごめく街は作り物のような気がした。
誰にも馴染めない。
誰にも心を許せなかった。
中学を卒業し、高校に入った。
ただ勉強をして、成績を上げた。
将来自分がどういう人間になるのかは、何も浮かんでこない。
俺は、まったくの空虚な人間だった。
夜、勉強を終わらせると、親父の遺品のリボルバー拳銃の手入れをするだけの生活が続いた。
拳銃の手入れをしている時だけ、自分に返った気がした。
いつか、隠し持った十二発の弾丸で十一人の人を殺し、最後の一発を自分のこめかみに撃ち込んで、俺は死ぬのだなと思っていた。
だが、殺したいほど憎い相手は誰も居なかった。
俺にも、たった一人だけ、親しくなった人がいた。
公園で出会った、その少女は花のように笑う子だった。
犬の散歩に来ていた彼女は、ぼんやりと池を見ていた俺に話しかけて来た。
物怖じをしない子だった。
山岸小夜子と名乗った。
同じ高校に通っている同級生だった。
話しかけてくるまで、俺は小夜子の事を知らなかった。
彼女と話している時だけ、不思議に景色が色づいていた。
良く笑う子だった。
恋、ではないと思う。
そんな人並みな感情が湧くほど俺の心の壊れ方は小さくなかったと思う。
小さい頃に感じた、友達に対する感情のような物があった。
ただ、時々公園で行き会って、たわいも無い話をする、それだけの関係だった。
それでかまわなかった。
そして、その日が訪れた。
春の暖かい陽気の日だった。
俺は一人で登校していた。
学校前の坂道だ。
極彩色の女生徒がふらふらと踊っていた。
色とりどりのリボン、組紐、布地をひらひらとさせて、蝶の化身のような女生徒が通学路で舞い踊る。
狂気に満ちた暴力的な色彩だが、妙に調和していて、全体で見ると毒虫のような美しさがあった。
彼女はチャリア・チャリオットと自称する狂人だ。
半年前、授業中に急に立ち上がり、訳のわからない事を叫び暴れて取り押さえられた。
発狂前は物静かな女生徒だったが、病院から退院してからは、あの調子だ。
治ったようには見えないのだが、なぜ復学できたのか。
彼女の親戚に学校の偉い人がいたから、とか、実家が大金持ちだからだ、とか、色々な噂が飛び交ったが、幾多の噂と同様に真実は解らなかった。
「来るよぅ、ケンジュウシンが来るよぅ、生徒がたくさんしぬよぅ~」
俺は振り返った。
その先にチャリアは居なかった。
彼女は塀の上に居た。
俺と目線があうと、彼女はにやっと笑い、塀の向こうへ飛び降りた。
どうして、あいつが剣獣神の事を知っている?
病んだ父の頭の中から這い出した哀れな神の事を。
いつしか俺は剣獣神の声が聞こえなくなっていた。
心がすり切れたからなのか。
いや。
俺の心が剣獣神になったのだ。
だから改めて学校に剣獣神が来る事は無い。
俺がもう来ているのだから。
しばらく路上で立ちすくんだ。
チャリアはどこかへ行ってしまった。
おれはため息をついて学校へ向けて坂を登っていった。
大尾根第三高校はどこにでもある平凡な高校だ。
特徴の無い校舎に特徴のない生徒たちが通う。
ときどき、チャリアや俺のような異物が挟まるが、それもまた平凡の証だ。
下駄箱で上履きに履き替えて、廊下をいく。
生徒たちが笑い、潮騒のように声が校舎に響いている。
二年三組に着いた、俺は自分の席に座る。
山岸小夜子はまだ来ていないようだ。
几帳面な彼女にしては珍しい。
予鈴が鳴る。
山岸小夜子は来ない。
なんだか、チリチリした気配がした。
遠くで銃声がした。
心がざわざわとうごめく。
密林の奥に大きい敵が潜んでいるかのような気配。
子供の頃以来の感覚だ。
「な、なにしているっ!! なんだそれはっ!!」
担任教師の声がして、廊下から大きい銃声が三発起こった。
クラスメートがざわめいた。
俺は机の脇に吊した鞄の金具を外す。
ドアが開いて、血まみれの醜い小男の生徒が入ってきた。
手には自動拳銃を持っている。
クラスの不良のボスである田上が立ち上がった。
「おいっ!! ネズミッ!! これは何だっ!! 何が起こってるっ!!」
ネズミはガラス玉のような感情のこもらない目で田上を見た。
「ネズミじゃねえ、泉だ……、泉さんって呼べよ、田上……」
「なんだとっ!! ネズミのくせにっ!」
田上が怒鳴ると、ネズミは無表情で銃を持ち上げ、撃った。
乾いた銃声がすると、田上は頭を打ち砕かれて後ろに倒れた。
血飛沫がかかった女生徒の悲鳴がサイレンのように鳴り響く。
「うるせえっ!! 黙れっ!! 騒ぐ奴は殺すぞっ!!」
ネズミは天井に向けて銃を撃つ。
三発。
奴の持っている銃は、ベレッタM84、総段数は十三発と一発。
これまで八発撃っている。
残弾は四発。
「この学校は俺たちが制圧した。メイジュウ会の者だ、俺たちは三百人いる。学校の全てを制圧した、抵抗は無駄だっ! 逆らう奴はみんなぶっ殺すっ!!」
ラノベかよっ、と誰かがつぶやいた。
学校を占拠するテロリスト集団だなんて、ラノベにしてもお粗末すぎるだろう。
「俺たちは新しい人類だ、お前たち旧人類を支配する。これは始まりなんだ。お前たちは俺たちの奴隷だ、俺たちを崇拝しろ、クズどもっ!」
馬鹿げた事態だった。
銃を持った同級生のテロリストにクラスが制圧されている?
アニメかラノベのお話のようで現実感がない。
そして、俺は、素晴らしく高揚していた。
胸が熱くなり、ワクワクしていた。
くだらない。
とてもくだらなくて意味が無くて、とても気に入った。
現実が急に俺の下に降りてきたような感じだった。
灰色な視界が極彩色に彩られたようだ。
そう、チャリアの服の色彩のように。
俺は鞄に手を突っ込んだ。
ああ、俺なら、やつらの馬鹿馬鹿しい計画を踏み潰す事が出来る。
誰にも愛されない、誰にも必要とされない、馬鹿みたいなテロ組織を、俺だけが愛し、砕く事が出来る。
俺は高揚しながら鞄からリボルバーを取り出し、ネズミに向けて発射した。
頬が緩んで笑顔になっているのが自分でも解る。
二発。
弾は正確にネズミの額に向けて飛んだ。
「あ? ああ?」
ネズミがいぶかしげに反応する。
歯が痛くなるような高周波の音がして、二発の弾は空中で止まっていた。
止まっていた。
「な、なっ、なんだ東郷、おまえ、なんで拳銃もってんだっ!?」
「お前こそ、なんで弾が止まるんだ」
「う、うるせえ、超能力だよっ! 死ねっ!」
ネズミが俺に目がけて銃を撃った。
額に重い衝撃が走り、俺は床に転がり落ちた。
「けんじゅうしん様に逆らう奴はみんなぶっ殺すっ! ぶっ殺すからなっ!!」
けんじゅうしんの名前を聞きながら、俺は、死んだ。