鈴百合は手折れない ─ユニコーンと極天の乙女─
リリィベル・グレイはユニコーンの養い子である。
彼の眠りを守るために揺りかごから攫われ、遠く人里離れた谷へと来た。
しかしリリィはユニコーンを恨んだことはない。
ふたりきり、この日々が永遠であることだけが彼女の願い。
けれどリリィの成熟に合わせ、彼女が無意識に谷へと掛けていた結界が綻びを見せ始める。
誰も立ち入れないはずの谷へ、万薬であるユニコーンの噂を聞きつけて訪れる人々。
そしてその噂はやがて、その傍にいる少女へも言及する。
――かのユニコーンの傍にはそれを手懐ける乙女がいる
少女は≪極天の乙女≫
本来ならば神に仕え王に侍るべき、天の祝福を一心に受けし聖女――
「魔女でも悪魔でも構いません。神を冒涜する名で如何様にもお呼びください。あの方のための私だと、あの魔に魅入られたときに決めたのです」
ひっそりと隠れ住んでいた、いびつな父娘の平穏は崩れようとしていた。
ここ数ヶ月、これまでの生活では考えられないほど数多くの人間がリリィの住まう『谷の隠れ家』を訪れていた。それまでの客人が父の知り合いである数名のみだったのに比べ、大した盛況ぶりである。
こんな人里から遠く離れた山あいまで、ずいぶんとご苦労なことだ、とリリィは思う。彼らは逼迫した願いを持って、わざわざ険しい山越えをしてきた。
――この、二人も。
リリィは白樺のテーブルの真向かいに座る薄汚れた二人組を見つめた。似通った面差しを持つ、若い姉弟だ。リリィが今年で14だから、おそらく弟は自分と同い年くらい、姉は二つほど年上だろうと見当をつける。
まだ太陽が昇ったか昇らないかも定かではない早朝に、寒さで鼻を真っ赤にして彼らはやってきた。もう初夏であっても基本的にこの国は年中冷えている。その上この家は標高の高いところに建っていた。
震える彼らを無下にも出来ず、語る内容はおそらくわかっているのに、ついリリィは姉弟を部屋に入れてしまったのだった。
温まるからと親切心で出したハーブティにもろくさま手をつけず、彼らが語った内容はこうだった。
いわく、父親が重い病にかかり、明日をも知れぬ命なのだと。
(今日も、これ)
リリィは溢れそうになるため息をハーブティを飲むことで誤魔化した。
「ですから、薬がいただきたいのです。こちらは」「ここは薬屋でも医院ありません」
言い募る少女の言葉を、きっぱりとリリィは否定した。「そうではなく、こちらにはあの――」
もどかしげにする彼女が何を言いたいのか、勿論リリィは充分承知している。なにせ彼女以前にも、何十と繰り返されてきた問答なのだから。「いません。ここにはあなた方がお望みの存在は」
ユニコーンは。
はっきりとリリィが口にする前に、前触れなく玄関ドアが開いた。リリィは慣れたもので一瞥するだけだったが、姉弟はびくりと肩を揺らし、揃って背後を見返った。
「……若い雄の臭いがするな」
玄関マットを踏んだ長身の男は不機嫌なバリトンでそう言って、夜を移し込んだ紺の瞳で少年を見下ろした。それはやや神経質そうなきらいのある、美貌の男だった。白皙の肌にほぼ同色の艶やかな銀髪。腰ほどまでのそれを深緑のリボンで結んでいる。出掛けには隙なく着こなして出て行った服はすっかり乱れてしまっているが、それは彼の美しさを高めようとも損ねるものではない。
「お早いお戻りですね、お父様」「眠れなかった。やはり魔都は駄目だ。女が阿婆擦れしかおらん。おまけに魔女どもは私を薬の材料扱いするし」「それはそれは、お疲れ様です」
男はどさりと乱暴に、暖炉の脇のソファに身を横たえた。外套を脱ぐことすらしない。肘置きに掛けた足を組みながら、男はそれで? と促す。「私の不在時に雄を中に入れるなと言い置いていたはずだが、なぜだ?」
少年を睥睨しつつ、その眼差しが少女へも流れたのをリリィは見逃さなかった。彼女はそのあからさまな反応に半眼になるが、皮肉は一応しまっておく。「いつものことです、薬が欲しいと」
「ユニコーン!」
何をかを男が答える前に、少年が椅子を蹴らんばかりに立ち上がり、男の膝元へと駆け寄った。男の眉がピクリと持ち上がり、ゆっくり眇められる。
そう、真実、彼はユニコーンであった。その本性は馬に似て、額に生えた角は万薬に、その血をいただけば不老不死ともなるという。また気性獰猛にして、何人も首輪をつけることは叶わぬ誇り高き魔獣。
「お願いです、父を助けてください!」「断る」
額を床に擦らんばかりの懇願にも、男の返答はにべもないものだった。「では私の身と引き換えなら」弟に並び、少女も跪く。「正真正銘の処女でございます。父をお救いくださるなら、この身いかように扱っていただいても構いません」
ほう、と男の相槌に喜色が混じる。「父のために私に処女をくれてやると? 孝行な娘もいたものだ」
そして、しまった、と言わんばかりのあからさまな視線が愛娘に寄越された。リリィはその眼差しを顔色ひとつ変えず受け取め、構いませんよ、と首を傾げた。
「お父様が納得なさるなら」
興味を持つのも当然だ。失望すら、ない。
ユニコーン、凶悪な本性に反して、彼らは美しい生娘にめっぽう弱い。
しかしいかに本能といえど、何度となくこの古典的な手に引っかかりそうになるには如何なものか。
ごほ、と気まずげに男はひとつ咳払いをする。
「どのような病か怪我か知らんが、諦めろ。それはお前の父の天命だ。ここで私が助けて、どうなる。人はいずれ死ぬ。生き延び……また死期がくれば私を頼るのか? その全てを私で贖うのか? 一人救えばまた一人、また一人。生憎私は万能ではない。私の夜を癒す娘ならあいにく間に合っている。私がしてやれることはない。……リリィ、見送りしなさい」「はい」
リリィは椅子を引いて立ち上がる。
ふあ、と男は欠伸をして、ソファの背もたれに顔を向けてしまった。その背はすっかり客人への興味を失している。
「そんな、待って、それじゃ、父は」
姉弟はほとほとと涙を流している。リリィが姉の腕を取ると、しっかと手を握りあった二人は引きずられるように立ち上がった。
二人を外に導き、後ろ手にリリィは扉を閉める。希望を持ってやってきて、それが確かな形をして目の前にあるのに、無残にそれが砕けるのはどのような心境なのだろう。「お力になれず、残念です」「煩いわよ、澄ました顔して。私たちの気持ちなんて全然わかんないくせに!」
「……では、あなた方はお分かりに? こうして誰かが訪ねて来るたびに、父が損なわれるかもしれない恐怖が。人ならざるといえどあの方は神ではない。人ひとりを病から救うのに、どれだけ血を必要とすると思いますか? あなたのお父様の代わりに、なんの義理もない我が父に死ねとおっしゃいますか、いいえ、義理があっても」
はっと黙ってしまった姉弟にリリィはわらい、それぞれに小瓶を握らせる。「なに、これ」「……ユニコーンの血じゃないですよね」
わずかな期待がこもった少年の声に、リリィは否と返した。「私の調合した薬です。けれどこの薬を飲めば、病が楽になるはずです。我が父ほどの効果はないですが」
二人は目を丸くして、瓶を握りしめて何度も礼を繰り返した。リリィは首を振る。
「せめて別れまでの日々が幸福なものでありますよう」
☆
「……お優しいことだ、極天の乙女。お前、祝福をしたな」
温かな部屋に戻ってきたリリィに、何を言い出すかと思えばそんなことだ。男はソファから身体を起こす。「起きていたんですか?」「一人寝はせんよ」「大したことではありません。わざわざここまで来て、何も成果がなくては哀れでしょう」「最近、この谷に出入りする輩が多すぎる。近頃がばがばではないか?」「嫌な言い方をしないでください。私、結界に関しては無意識なので。できるならさっさと戻しています。前と同じように、誰も立ち入らないように」
手招かれるのでリリィは大人しく男の傍へ寄った。するりとごく自然に腰に手が回され、引き寄せらせる。男の膝に乗り上げるような体勢になり、リリィの目線はわずかに男よりも高くなる。「お前、いくつになった?」「今度の夏至で14です」
リリィは夏至の夜に生まれた、らしい。その証たる刻印を持った子どもは神に祝福されており、その身に降りかかる災禍はすべて取り除される。彼女は存在自体が退魔の効能を持っていて、同時にその身に内包される魔力は魔物にとって極上の餌だ。「ああ、もうそんな時期か。遅いくらいか?」
男はリリィのやわらかに波打つ黒髪を払い、その首筋に鼻先を当てた。「匂いが甘くなるはずだ」「気に入りませんか」「まさか」「噛まないでくださいね。吸血鬼じゃないんですから」
「では代わりに祝福を、リリィベル、私の極天の乙女」「あなたのことはいつも一番に考えているんですが」
まったくまだ少女のリリィよりも、この男はよほど上手に拗ねて見せる。「顔を上げて、お父様」「私はお前のチチオヤじゃない」「ああ言えばこう言いますね、シャーファツォルン・グレイ、お父様」
見事な毛並みを梳き、リリィは男に顔を上げさせる。本来の姿を取っているときと同じく、ぼれぼれするほど美しい。物心ついたときからその優美さは一片も損なわれることなく、変化がない。
リリィはそっと男の目元を指でなぞった。青白い肌に、うっすらと隈が浮いている。まったく、睡眠に難のある男だ。
生まれたばかりの幼いリリィは魔獣の姿をした男の角に触れ、恐れることなく笑ったという。男はリリィの傍ではとてもよく眠れたという。
たったそれだけの理由で、男はリリィを攫ってきた。この人里離れた険しい谷へ。
この男は、シャーファツォルン・グレイはリリィベルの父親ではない。
しかし一体それがなんだというのだろう?
「リリィはお傍に居りますよ、ずっと」「……では膝を貸せ、眠い」「それはおひとりで。日があるうちに家事を済ませてしまわないと」
「あとで私がやろう。こちらの方が大事だ」
「まったく、あなたはいくつにおなりですか、お父様」
呆れたふりをしつつ、男に甘えられると結局リリィは否とは言えない。
「約束ですよ、うんと働いてもらいますからね」
少女の膝に迎え入れられながら、男は「ああ」と満足げに頷いた。
「歌を、リリィ」「注文の多い方」
ささめくようにリリィは歌う。
人から遠く隔絶された、ふたりきりのこの世界。この静謐が永遠に続きますようにと、少女が紡ぐこれは祝福であり、祈りだった。