反跳ナルシシズム
須永由里は天より美貌を預かった。己の美しさは人を幸せにするためにあると信じていた。
だがある日突然、暴君に襲われ顔を傷つけられてしまう。命に等しい美貌を奪われて絶望した由里だが、彼女を救いたいと申し出る美少年が現れた。
少年の名は秦野頼司。醜い容姿のせいで不遇な日々を送っていたが、由里は美に恵まれた自分がそばにいることを約束し、彼の自殺未遂を止めたことがあった。やがて由里と関係を持った奏野は自信を持つようになり、まるで由里と入れ替わるように、自らの顔を耽美に作り替えたのだった。
──由里の信念は神が封じた才能にナルシシズムを与え、世紀の殺人鬼を覚醒させたのである。
やがて「鏖殺の天使」と呼ばれた二人は性的優位の頂点となるアダムとイブとして信仰され、日本を美男美女の楽園へと導いたのである。
卵型の小さな輪郭、透き通るような白い肌、すらりと通った鼻筋、均等に垂れた目尻、茶色味がかった髪と瞳。大人も子供も老人も、周りの全てが私という花を愛でて育てた。
この美しさは単なる才能ではない。私は、人の幸福のために生まれてきたのだ。
順風満帆な十代を送り、私は高校教師になった。もちろん、赴任した先では大いに歓迎された。
読者モデルや芸能人の友達はたくさんいるが、私はその道の経験がない。「意外だ」とよく言われるけど、理由は簡単だ。美貌を理由に群れるより、身近な立場で人のためになることをしたかった。
教師の労働は過酷だが、みんなが私の存在を癒しだと言ってくれる。職場が華やぐなら、この仕事についた甲斐があったというものだ。
出勤すれば皆が振り向く。見知らぬ男に声をかけられるが、穏便に振り払った。他校の生徒が校門に立って私を見ている。職員室で挨拶をすれば空気が明るくなり、教室に入れば生徒が私の噂を囁く。
常に注目の的。でも私はそうなるべくした存在であり、そうあるべき存在でもある。
英語の教科書を開く前に、課題を回収する。何人かの少年少女が「忘れました」と惚けた。私はため息をつき、「提出してない人は居残りね」と、黒板に名前を羅列した。
私に説教されても、誰一人嫌そうな顔はしない。居残りメンバーはいつも決まっている。
美の弊害。ペナルティのプリントを一枚やらせたら、担当教師のところに提出しに行かなくてはならない。つまり私と直接話す口実が欲しいために、わざと課題を出さない人が後を絶たないのだ。
いつものメンバーを書き終わった後、一人のいつもじゃないメンバーに声をかけた。
「奏野くん、あなたも課題やらなかったの?」
「……はい」
立ち上がる彼の周りがざわついた。
左右非対称の顔貌と細く吊り上がった目。潰れた鼻とニキビの絶えない肌。ヤスデの集まりと誰かが例えたといううねる髪。その芸術的な容貌から、彼はピカソと呼ばれている。
生徒が課題を出さないことについては半分諦め気味だが、彼にだけは不安があった。
「ピカソ、お前ふざけてんの?」
始まった。居残りメンバーに入った一人が、舌打ちしながら陰口を叩く。
「その顔面で居残り希望とか」
「立場弁えろっての」
男女問わずの口撃に弁解しない奏野。私は生徒達の気を逸らさせるべく、「教科書十八ページを開いて、今から五分間黙読、はい!」と指示をした。
ピカソ……奏野もすとんと席に尻をつき、教科書をパラパラと捲る。
しんと静まり返る教室の中、私はじっと彼のつむじを見てから、かつかつと黒板に名前を書いた。
……私の口利きでだいぶ和らいだとはいえ、いじめは完全には止まってはいない。主犯だった居残りメンバーたちと一緒にするわけにはいかなかった。
奏野には努力だけでどうにもならない現実があるのだ。それを理解し助けることも、私の責務だと思っている。
もちろん、美を持つ者にだって苦労がある。私も自分自身にできるだけのことはしているつもりだ。美容院には週一回通い、週末はエステに向かう。肌につけるものに金は惜しまず、ファンデーションも半年に一度は新しいものに交換する。食事や運動にも徹底して気を使う。でも同じことを人に押しつけたって、全ての人が美しくなれるわけではない。
私のようになれないからと嫉妬する人もいる。比較して苦しむ人もいる。でも私が誰かの花となることで、心穏やかになる大勢がいる。
この顔は自分だけのものではない。だからこそ、私は手を抜かない。
──授業が終わる。
やがて放課後。
HR後に、自分の担当クラスにメンバーを集めた。プリントを配って、私は教室を出る。
奏野は私がこっそり呼び出して、「プリントは家でやりなさい」と言って帰らせた。不服そうだったが、「あなたを守るためよ」と説得したら黙っていた。
廊下で不意に携帯電話が鳴る。
「──え?」
母からだった。父が倒れて救急搬送されたという。私は慌てて職員室に戻り、別の教員に生徒のことを任せて、校舎を飛び出した。
タクシーが捕まらない。駅前まで行こうと足を早めると、後ろから誰かがついてくる気配がした。
見知らぬストーカーもどきに後をつけられることはよくある。駅前に行けば交番があるし、タクシーに乗ってしまえば振り切れると思っていた。
──だが。
私を追う人物は、私より足が早かった。
背中をどんと突き飛ばされ、地面に転がされ、相手が私の上に馬乗りになる。仰向けになった顔の上、空の黄金色を反射してぎらりと輝くナイフが私の前に、
──────
────
──
……例えれば白い薔薇の花。
自分の美しさは、人のために咲かせたい。私は残酷な世の中に咲き誇る花になりたかった。
でも、傷ついた花には誰も振り向かない。花は花だと言ってくれる人はいるかもしれないが、以前のような関係には戻れない。
あの日暴君に襲われた私は、顔のあちこちの肉を剥がされた。右目は潰れていたため病院で摘出。シミを作らないように気を使った肌も、鍛えあげた表情筋も、あっけなく奪われてしまった。ナイフ一本で、たったの数秒で。
退院後も学校に復帰できなかった。教壇に立つ自分が想像できない。目を閉じて浮かべる俯瞰した教室では、自分の顔にもやがかかっていた。教科書を開いてと生徒に告げても、誰も言うことを聞かない。私の一番近くにいる生徒に目を向けると、私から視線を外す。醜いものは見たくないというように。
美は私のアイデンティティ。顔を奪われた私は、もう私ではない。
化粧水が傷にしみる。その痛みに耐えつつ、孤独を囲う部屋で布団にくるまった。チャットアプリを通じて届く実家の母の連絡には、適当なスタンプを返しておく。母も母で父を失った悲しみにくれ、余裕がなさそうだった。
負の感情任せに醜く人を恨みたくなかったが、犯人への憎しみは、何をしても消えない。大勢のための花を傷つけて、相手は満足したのだろうか。淀んだ感情を抑えるようにぎりっと歯を食いしばり、片目だけで涙を流す。
「先生、泣いてるの?」
幻聴かと思った。とんとんと、わた布団の上から私をあやすような、手の感触。布団の隙間からちらりと外を覗く。
「誰……?」
カーテンを閉め切った部屋の中、ぼんやり浮かぶ人影は奏野によく似ていた。だがその顔立ちはまるで人形のように精巧だった。つんと尖った鼻の先と、切長で穏やかに垂れた目尻。ところどころ赤くなっているが、腫れがひいてしまえば絶世の美男子に違いない。
「だよね、僕も同じこと思った。まだダウンタイムだけど、今日ようやくギプスが取れたんだ。早く先生に見せたくて」
「……」
「ずっと連絡しなくてごめんなさい。元の僕のままじゃ、合わ せる顔がないと思ったから」
そこにはピカソと蔑まれていた惨めさはない。放課後の教室で首を括ろうとして、「もし先生の彼氏になれるなら生きます」と苦そうに笑っていた時の悲しさもない。
私は奏野に特別目をかけていた。劣等感に疲れ果て、死を選ぼうとした彼を救うため。その関係は、事件の後に自然消滅したと思っていた。なのに。
「どうして来たのって思ってる?」
奏野は合鍵の二重リングを指で弄びつつ、唇の端を吊り上げる。
「先生が僕を救ってくれたように、僕も先生を助けたいからだよ。僕が美貌を手にすれば、先生の心も少しは安らぐかなって。時間はかかっちゃったけど」
「……親御さんよく許したわね」
「両親は僕が整形したこと知らないよ。というか家の金を持ち逃げしたドラ息子だと思ってるかも。あと、奏野頼司は行方不明ってことになってるよ、今」
「え!?」初耳だ。
「まあ、先生が顔を切り刻まれたことより、一人のブサメンの失踪なんて些細なことだろうけど」
「でも同意書もなしにどうやって」
「そこはうまくやったから大丈夫」
奏野は慣れた仕草で椅子を見つけて座る。
「一般家庭にある財産なんて、百万円あればいい方だよ。だから手術は初期投資。これから先生を治すために稼ぐから」
「稼ぐって、どうやって」
「顔を武器にすれば何でもできる」
水商売を連想した。布団から頭を出して「ダメよ!」と叱りつける。
「もっと自分を大切にしなさい」
「僕が大事にしたいものは自分じゃない」
「馬鹿なことを言わないで」
「僕が今生きているのは、先生がそばにいてくれたからだ。綺麗な花の存在は、僕がこの世に留まる唯一の理由だった」
「……」
「犯人、まだ捕まってないんだってね。でも僕がまとめて処理したから、もう大丈夫だよ」
「まとめて……?」
「花を枯らそうとする雑草は根絶やしにしないと」
恐ろしい予感がした。物を退けてリモコンを探し当て、ぷちぷちとニュースのチャンネルに回す。
『──午前十一時頃、××高等学校の生徒と教員百数名が病院に搬送されました。ほとんどは意識不明の重体で、一部はすでに死亡が確認されているとのことです』
「ふぅん。パラコートってよく効くんだね」
呆然とする私に対して、少年は「ねぇ」と呼ぶ。私の手を取り、その人工的に作り上げた頬に、擦り寄せるように当てた。
「今度は僕が助けるからね、先生」
その笑顔は本当に私のためなのか、秦野という存在を隠すためのカモフラージュなのか。
咲く花の真意は、わからない。