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82話 「予感」

 




 ――「なにか、お困りですか? 女神アテナ」


 ティナの振り返った()()()に、その男はいた。

 まず目に入ったのは黒色の貴族服。随所に美しい金色の刺繍が施されたそれは一目見て男の位の高さを感じさせるものだった。


(……貴族?)


 頭に浮かんできたその単語に、緊張の糸が緩んでいく。


 学園の敷地内とはいえ、学生以外……大人がいることは珍しくはあっても不思議なことではないのだ。


 たとえば生徒たちの保護者。

 たとえば、学園の卒業生。


 たとえば、たとえば――。


 次々に浮かんでくる可能性。それを頭の中でぐるぐると想像を重ねながら、ティナ・バレットはゆっくりと視線を上げていく。


 時間にして数秒。


 いや、そもそもの話だ。


 ティナは自らの不安、そして感じていた緊張に疑念を抱きはじめていた。


 声をかけられただけなのだ。

 ただ、それだけだ。


 貴族だとして、なにを不安がる必要があるのだろう、と。


 視線をあげていく毎に、感じていた緊張が解けていく。



『だって、聞こえてきたその声は、とても穏やかなものだったから』



 ――だから、油断した。



「………………」


 男の顔を見上げるようにしたまま、ティナは固まったように動きを止めた。


 目に映った黒い頭髪。男の表情。その微笑み。

 やわらかく細められた目。その視線が自分に向いたその時に、ティナは呼吸の仕方を忘れる程の恐怖を感じていた。


 声をあげることもままならない。


 叫びだしそうになったその衝動すらも、次の瞬間には忘れていた。


 視線を逸らせない。

 いいや、違う。逸らしたくなかったのだ。


 目を離したその時に、なにか取り返しのつかないことが起こってしまいそうな、そんな予感を確かに感じて。


(……き……ぞく?)


 恐怖で覆われていく思考。その片隅にあった言葉が、(かす)んでいく。


 なるほど確かに服装を含め、男の整った容姿には破格の気品が感じられる。

 貴族らしいといえば、そうとも言えた。


 だが、しかし、その結論をティナの何かが否定する。


 ――これは、貴族というよりも。


 次の瞬間、ティナは驚きに目を見開いた。


 ティナの視界の端で美しい銀色の髪が揺れる。


 まるで(かば)うかのように、女神アテナはティナを背中から追い越すようにして、男の前に進み出た。


「……困ってなどいません……なにも」


 言って、女神は見上げるようにして男の目をまっすぐに見つめた。

 深紅の瞳を揺らしながら。


「……これは失敬」


 男は変わらず微笑みを浮かべたまま、言葉を続けた。


「不安そうな顔が見えたので。つい」


 穏やかな声だった。


「驚かせてしまったかな?」


 顔には、笑みが。


「いや、すまない。――本当に」


 愉快そうな、微笑みが浮かんでいた。


 男の右腕が動く。黒い袖から覗く白い腕。細く長い指には陽の光を受けて輝きを放つ宝石の指輪が。


 同時。


 その(きら)めきを美しいと感じるよりも先に、ティナは自らの足元にあった槍めがけて腕を伸ばした。


 その刹那、思いだしたかのように風が草原を駆ける。


 思わず目を閉じたティナは次の瞬間、槍を手に取るより先に動きを止めていた。



「我が名はマルファス。以後お見知りおきを。女神アテナ」



 男の声を耳に入れてすぐ、ティナは屈んだ格好のまま視線を男――マルファスに向けたまま固まっていた。


 危険だと()()()男の腕。その右手は男の胸の前で甲を向けたままそこにあった。

 5本すべての指にはめられた指輪。そこにある色とりどりに輝く宝石を見せつけるようにして。


「あ…………」


 ティナは再び恐怖した。


 自らの手の先にある槍を、再び視界に入れながら。


(……わたしは……いったい)


 ティナは知っている。


 マルファス。


 英雄神の一柱である、その名を知っている。

 だからこそ恐怖した。


 自分がしようとしていたこと。その意味を理解して。


 言い訳などできない愚行だった。

 しかしあの時。槍を手に取ろうと腕を伸ばすより先に、確信めいた予感があったのだ。


 マルファスの動き出した腕が女神アテナを害そうとしている、などという()()()


「……」


 ティナは震える身体を必死に抑えながら、誤魔化すようにそのまま片膝をついた。

 そしていくつか頭の中で浮かんだ言葉の中から相応しい言葉(いいわけ)を選び出す。


「もうし……」


「ああ、結構です」


 ティナが言葉を紡ぎ始めてすぐに、マルファスはつまらなさそうに言って、制するようにして左の手のひらをティナへと向けた。


「そう身構えないでくれたまえ。今日は非公式での来訪でね」


 そう口にして、視線を女神アテナへと移した。


「学園に用があったのだが、帰りがけにあなたの姿を見かけましてね。ご挨拶をと思い」


 好奇心を宿したマルファスの視線を受けとめながら、湧きあがった疑問をアテナはそのまま口にしていた。


「なぜ、わたしの名を?」


「ふふっ」


 低い声色で、マルファスは小さく声をあげて笑った。

 

 愉快だと。


 心底、面白い質問だと言いたげに、マルファスの口角が歪に吊り上がっていく。




「知っていますとも。野良神でありながら名を授かったあなたのことは」




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