79話 「高鳴る鼓動」
「やっ」
白い歯をにっ! と口元に覗かせて手をひらひらと振るセレナさん。
その可憐さに思わず手を振り返そうと腕をあげてすぐに。
「……」
僕は固まったように動きを止めた。
ゆっくりと腕を下ろして、代わりに笑みを作って取り繕う。
顔に浮かんでいるだろうぎこちない笑みのまま、僕は逃げるように足元へと視線を落とした。
……気づくのが遅れた。空気が酷くピリついている。
まるで戦場にいるかのような緊迫感だ。
それに……。
僕は再び顔をあげた。
気のせいだろうか。
セレナさんの顔に浮かんでいる笑みが、どこか嘘くさく感じてしまうのは。
いや、たぶん気のせいじゃないのだろう。
僕を見ているようで、見ていない。
控え目でありながらも、隠す気のない、敵意。
言葉にしなくても、その矢印が誰に向いているかなど明白だった。
しかし。
コツコツ、と足音が廊下に木霊した。
生徒たちの喧騒が聞こえてくる廊下。
決して静かとは言えない中で鳴るその音が、不思議と大きく僕の鼓膜を強くたたいた。
腰まで伸びた綺麗な金色の髪が、歩みと共に左右に揺れる。
そうしてフィーアさんは、何事もなかったかのようにして無言でセレナさんの前を通りすぎていった。
状況を理解できないまま、慌てて僕もその背を追う。
もちろん、セレナさんへの挨拶は忘れない。
あははー、と笑い。
「お久しぶりです」
と、口にしながらセレナさんの前まで来てすぐに。セレナさんが再びにっ! っと笑みを浮かべて左腕を僕へと伸ばした。
「え――?」
やわらかな感触が僕の頬を伝う。
瞬間、ティナと少しだけ似た甘い香りが鼻の奥へと広がっていった。
「え――?」
セレナさんの左腕が抱きしめるようにして僕の首へと回っている。
形だけでいえばこれは、ハグともいえよう。……肩を組んでいるだけともいえるが。
状況を理解していくと共に、僕の鼓動は高鳴った。
最高の不意打ちである。
な、なにか言わないと。
いや、そもそもいきなりどうしたというのだろう。
「ありがとうござっ」
「大丈夫? ユノ君。ケガはない?」
至近距離から放たれたその声が僕の鼓膜を直撃する。
……ケガ?
少しだけ見上げるようにして目を向けると、セレナさんの薄い緋色の瞳が今にもくっつきそうなほどの距離で、僕の顔をのぞき込んでいた。
「――――」
近い……けれど……悪くない。
……。
いやー、前々から思っていたが、血筋なのだろうか。
ティナもそうだが四大貴族に名を連ねる正真正銘の大貴族のはずなのにこの気安さ、否、親しみやすさ。
それに加えて年上の女性特有の優しく包み込んでくれるような優しい色気がなんというか――。
――「あの」
冷たく響くその一言が、僕を現実に連れ戻してくれた。
見れば、背中越しに冷たい視線をセレナさんへと向けて。
「私たち、急いでおりますので」
言って、フィーアさんは煩わしそうに目を細めた。
僕に向けられた視線ではないことを知っていても、思わずゾクリとさせられる。
瞬間、くすり、と笑う声。
再びセレナさんを見上げると、その顔には悪戯そうな笑みが浮かんでいた。
「急ぐって……生徒会室に?」
片目を閉じてニィ、と吊り上がる口の端。
……こういう顔をしたお姉さんも良いよね。などと思っていると。
フィーアさんはこれ見よがしにため息をついて、体全体を向けるようにして振り返った。
長く美しい髪がふわりと舞い上がる。
「……聞いていたのですか」
「まさか」
セレナさんは小さく首を左右に振った。
「でも、あなたがこっちに来てるってことは、そういうことでしょ」
セレナさんはちらりと僕を見た後、再びフィーアさんに視線を送った。
「……ユノ君の教室に行ったのは意外だったけど。あなたの立場上、目立つ行動は避けるべきじゃない?」
僕もちょっと気になるその問いにフィーアさんは即答した。
「一度あったことは二度目もあるでしょう。立場上、慣れていただく方向が得策と考えただけのこと。……ユノ君にも、クラスメイトの皆さんにも」
言って、フィーアさんは静かに瞳を閉じた。
たしかに再び教室にフィーアさんが突然来ても今日ほどは驚かれないだろうけど。
たぶん、慣れる、なんてことは無いんじゃないかな。
……でも確かに一度認知されてしまえば、違和感は薄れるか。
それにしても闘技大会でロイド先輩を咎めるようにして現れたときから感じていたが。
セレナさんの口ぶりからして、やはりフィーアさんの素性を知っている節がある。
学園の生徒会長と、副会長という関係性。それに加えてバレット公爵家の令嬢だ。
知っていても不思議ではないか。
「そう何度も来られても困るんだけどね」
苦笑いするセレナさん。
フィーアさんはその言葉に返答することなく、無表情のままセレナさんを見ると。
「それで、ご用件は?」
と、冷たい声色で問いかけた。
その瞬間、セレナさんは僕の首に回していた腕でぎゅっと僕の肩を再び強く抱き寄せた。
「――――!」
頬に感じる柔らかな感触に喜んでいる僕をよそに、セレナさんは簡潔に告げた。
「私も行くわ」
……え?
思わず僕は、セレナさんの顔を見上げる。
そこには親しみやすい笑みの影はなく、ただ真面目な、真剣な表情があった。
しかし、だとしてもフィーアさんの返答は想像に難くない。
いかに生徒会長相手と言えど、暗部の活動の詳細を教えていい理由にはならない筈だ。
フィーアさんは、少しの間考えるようにして瞳を閉じると再び冷たい瞳をセレナさんへと向けた。
「……好きにしなさい」
フィーアさんの声が、廊下に小さく響いた。
「……え?」
思わず僕は声を漏らす。
あまりにも意外な返答だった。
だが、そう感じたのは僕だけではなかったようで、フィーアさんのその言葉をきいてすぐ、セレナさんが怪訝そうに眉をひそめたのがわかった。
フィーアさんが髪をなびかせて僕らに背を向けるようにして振り返る。
そうして背中ごしに、今度ははっきりと僕を見て口を開いた。
「時間をとられました。少し急ぎます」
どこか皮肉交じりの言葉の後、淡々とした足取りで前を行くフィーアさん。
セレナさんはその背中を少しの間じっと見つめていると。
「……なるほど。想定済みってわけね。……だとしたら面倒だなぁ」
そう、ため息交じりに呟いて。
「いこっか。ユノ君」
再びその顔に笑みを灯した。
同時に、肩に回されていた手が離れていく。
それを少し残念に思いながら、僕はセレナさんと並ぶようにしてフィーアさんの背中を追った。
そうしてしばらく生徒会室を目指して歩いていると。
「……ケガとかはしてないんだよね?」
と、最初に聞かれた質問を再びセレナさんが口にした。
諸々の事情を知っていると仮定して……心配してくれているのだろう。
「問題ないです」
僕はそう言って腕を回してみせる。
しかし、セレナさんの表情はどこか硬いままだ。
「いい? ユノ君。怖いことや危険なことがあったらすぐに私に教えてね? どんな口車に乗せられたのかは知らないけど、君は――」
「――ご心配には及びません」
セレナさんの言葉を遮るようにして、フィーアさんはそう言って立ち止まると、視線だけをセレナさんへと向けた。
ちょうどタイミングも良かったのだろう。生徒会室はもう目の前だ。
「……どういう意味かな?」
少しだけ低い声色でセレナさんがそう口にしてすぐ、フィーアさんの顔に挑発的な笑みが浮かんだ。
「ユノ君のことは、私が、任されておりますので。どうぞお構いなく」
言って、変わらぬ挑発的な笑みのまま、前へと視線を流すフィーアさん。
瞬間――
「むかっ!」
などと、心の内がそのまま飛び出たようなセレナさんの声をききながら、フィーアさんが扉をノックするのを僕は黙って眺めていた。




