76話 「覗くモノ」
小さな三つの人影が一軒のあばら家に入っていったのを見届けた後、フィーアは路地裏から顔をひっこめると小さく息を吐き出した。
同時に、僅かに感じていた緊張の糸が切れる。
空気が抜けていくような脱力感そのままに、フィーアはすぐ横にあった家屋、その壁に寄りかかるようにして背中を預けた。
「……」
酷く、静かな夜だった。
耳に入ってくるのは時折吹く風の音ばかりで、人の営みの一切を感じさせない静寂に満ちている。
もともとこの街に活気などというものが存在するかは疑問ではあるが、少なくとも記憶にある中では特別そうだといえる確信がフィーアにはあった。
――当然、そうなるに至った心当たりも。
(……無理もないわね)
どこか自嘲めいた感情と共に心の中で一人ごちると、フィーアは特にやりどころのない視線をはるか遠く、頭上で輝く月へとやった。
明かりのない街の闇夜に降り注ぐ美しくもある白銀の光。
それとは裏腹に、この街全体に広がる重圧とも呼ぶべき緊張感。
それがすべてではないにせよ少なくとも今夜、カンナの街に広がる異様な雰囲気に一役買っていることは確かだろう。
これはフィーアの持論だが、良くも悪くもこの街にはそれを察知できる者が多すぎる。
荒くれ者たちが自然と集うこの街において、その勘ともいうべき危機察知能力は何よりも重要なものであるといえた。
戦闘において”達人”と呼ばれる者の多くは、相手を一目見ただけで彼我の差を知ることができるのだという。
まだ幼かった頃のフィーアはそれをどこか空想の類だと認識していたが、今は違う。
「……少しは隠しなさいよ」
少し意識を向けるだけで分かってしまう圧倒的な存在感。
触れるだけで弾けてしまいそうなほど膨れ上がった闘争心。
隠す気の無い、挑発。
繊細な者であれば見逃すはずがない。
腕に自信のある荒くれ者たちを控えさせるだけの化け物が、この街にいる。
それも一人ではないときた。
この街を覆う異様な静けさにも納得がいくというものだった。
もちろん、その化け物たちの中にも、わきまえている者もいる。
自分もその一人であるという自負。それから――。
「……」
フィーアは再び路地裏から顔だけをだすと、その黒い瞳で闇夜をじっと見つめた。
視線の先にあるのは吹けば飛ぶような一軒の木造家屋。
それが立場上、自分の部下ともいえる二人の隠れ家であることをフィーアは知っている。
そして今、そこに件の少年がいることも。
今頃、どんな話をしているのだろう、とそんなことを考えていた時。
「サボりとは、フィーア。お前にしては珍しいな」
どこか、からかいの色をにじませたそんな言葉が、フィーアの上から降ってきた。
目をやるまでもなく、それが誰から発せられたものであるかは分かっている。
「……ロイド様」
フィーアは、視線をロイドへと向けた。
全身を覆う黒いローブをはためかせながら、ロイド・メルツは静かに屋根の上に立っている。
白銀に輝く月を背景にその姿を視界に入れながら、フィーアは次の言葉を探した。
いつからそこにいたのか――を問う気はフィーアにはない。
そう思えるほどには、フィーアは自分の身の程をわきまえている。
だから次いで口にしたのはロイドへの釈明だった。
「任務を放棄しているわけでは――」
フィーアがそう口にしてすぐ、ロイドは手を宙にかざすようにして言葉を止めた。
「冗談だ。ユノに付いているのはお前の部下か?」
「……いえ、私の隊の者ではありません。ランスとクロエです」
「……例の見習いか。あえて問うがなぜその二人に?」
その問いに、フィーアは少し考える素振りを見せた。
「ユノ君ほどではないですが、ランス、クロエ共に少し立場が特殊ですので。それに彼らは純粋に任務を……仕事を求めています。彼らも日々成長していますが、まだ前線に出るには力足らず。ですので――」
フィーアはそこで一度言葉を止めると、瞳を閉じた。
口にした言葉に嘘はない。だが、より純粋な思いが欠けていたことに気が付いたのだ。
「……良き、友人になれるかと」
「……」
ロイドの表情をうかがい知ることはできない。
月の光が、そうさせた。
「……哀れみ……偽善なのでしょうか。この街で必死に生きている彼らを見ていく中で、何かをしてあげたいと思うのは」
「そうは思わないさ。たとえそれが同情であったとしても」
そのロイドの返答をきいてすぐ、自分の口にした言葉の恥ずかしさをフィーアは知った。
言い訳だった。
自分では変えられないから、それを彼に――ユノ・アスタリオに求める浅はかさ。そう考えた自分自身への遠回しの釈明だった。
「……この街が嫌いか? フィーア」
「……私は」
フィーアは言葉を詰まらせた。
見透かされたという羞恥。
そして、この街とはつまり、彼の、ロイド・メルツの領地でもあったからこその迷い。
しかし、フィーアは言葉を偽らなかった。
「好きではありません」
風がフィーアの黒い髪を小さく揺らした。
「そうか」
そう短く言ってロイドは街を見渡すようにして視線を前へと向けた。
彼の目にはどう映っているのだろう、とフィーアは思う。
神様のいない街などと呼ばれ、荒れ果てているこの街が――
「俺は嫌いではない。いやそれどころか、美しいとすら思う」
フィーアは小さく目を見開いた。
驚きからではない。
フィーア自身が、きっとそうなのだろうと考えていたからこその、どこか納得からくるものだった。
「この街にまつわる多くの神話。中でも有名なのは、とある女神が悪魔から人々を救うべく立ち上がり戦いを挑んだ戦地……それがこの街だったとされている。つまりはこの街は聖地ともいえよう」
フィーアはただ黙って言葉の続きを待つ。
ロイドが口にしたそれはフィーアも知っているこの街の有名な神話の一つだった。
「そんな聖地でもあるこの街を、神々は忌み嫌っている。もちろん、その女神が悲運の死を遂げたことが関係しているのだろうと想像はつくが。この街の神話だけが、他の華々しい神話とかけ離れている」
ロイドはここに至ってフィーアに語りかけていることを忘れかけていた。
もう何度も繰り返した自己問答を口にしているにすぎない。
「つまり、この街において、神は悪魔に負けているということだ。そしてそれを嫌った神々によって秘匿され、復興を禁じられている。結果、訪れたのはこの街の事実上の崩壊だ。暗部の拠点としてはたしかに都合がいいが…………」
「………………ロイド様?」
静寂が訪れた。
それから少しの間、何かを考えるように黙っていたロイドは、まるで自らに言い聞かせるようにして静かに口を開いた。
「なぁ、フィーア。この街を救うべく立ち上がった女神とは、いったい誰だったのだろうな」
「……」
その問いに、フィーアは押し黙った。
質問の答えも、意図も、フィーアにはまるで分からなかった。
「死してなお、その女神の行動は英雄的なものだったはずだ。そこにあるのはただ純粋に神による救済の一幕だったことに違いない。だが、その女神の名すら俺たちは知らないでいる」
言って、ロイドはフッと薄く笑みを浮かべた。
「……俺は特異なものに強く惹かれている。そういった意味では、やはり俺はこの街が好きだよ。フィーア。神に見放されたと人は言うが、つまり――」
ロイドは見下ろすようにしてフィーアへと視線を向けた。
「――自由だ。生きるも、死ぬも己次第」
「……」
ここに至り、ようやくフィーアは理解する。
ロイドの語ったすべてが、この街を美しいと思う理由なのだと。
同時に、少しだけ恐怖した。
理解はできる。ただ、共感はできそうもない。
そして再び思うのだ。
彼にはいったい、何が見えているのだろう、と。
「特異なもの……彼も、ユノ君もそうだと?」
そのフィーアの問いに、ロイドは小さく頷くと、ユノ・アスタリオがいるあばら家へ視線を向けた。
「確証はない。だが、少なくともこの世界において特異な存在をおれは新たに二つ見つけ出した。その一つが、ユノ・アスタリオだ。俺は特異点と呼んでいる」
「……特異点」
フィーアの頭の中では、ジースの一撃を受け止めて見せたユノの姿が浮かび上がっていた。
衝撃的だった。
同時にツヴァイの言葉の意味を知った瞬間でもある。
動きが――まるで見えなかったのだ。
自らを強者だと自負するフィーアにとっては、強烈な体験だったといえる。
そして、そこにフィーアは驚きよりも恐怖に似た異常性を感じていた。
12歳の少年が、ジースの一撃を受け止める。
その意味を、理解を、フィーアの何かが否定していた。
「……もう一つとは?」
そのフィーアの問いを聞いて、ロイドは口角を吊り上げた。
「ノアという神は知っているな?」
「ノア……例の邪神ですか?」
何度か興奮気味にロイドが語っていたのをフィーアは知っている。
だが、不思議に思ってはいても、神などというそもそもが異質の存在を理解しようなどとはフィーアは考えてはいなかった。
「自らを邪神と言い張り、英雄神であるアスタロトに戦いを挑んだ、異端の神。その存在そのものが、俺には異質に感じてならない」
「……」
「そんな興味深い存在が現れ始めてすぐ、訪れた事件。野良神の失踪」
その言葉を聞いてすぐ、フィーアは驚きをそのまま口にした。
「……まさか、何か関係が?」
ロイドは、クク、と小さく笑うと視線を夜空に浮かぶ月へとやった。
フィーアは驚きのあまりその場で体を固くして、目を見開いていた。
そして、同じことを思うのだ。
この人には、いったい何が見えているのだろう、と。
「……ロイド様……まさか、あなたはこれから何が起きるのかを知っているのですか?」
未知数ながら、並外れた戦闘力を有するユノ・アスタリオの暗部への加入。
そして序列一位の継承。
謎の邪神の出現と、野良神の失踪。
フィーア自身、焦燥感にも似た不安を薄く感じ始めていた。
「俺は神ではない。これから何が起きるかなど俺には分からないさ」
その返答をきいてフィーアは胸をなでおろす。
「だが――」
そう短く言って、ロイドは視線をフィーアへと向けた。
風が一瞬、強く吹きすさぶ。
それが両者、それぞれの黒い髪を大きくなびかせた。
フィーアの視界。
揺れる前髪。その先に―ー
「――」
ロイドの顔を見て、フィーアは背筋を凍らせていた。
例えるなら、歓喜。
しかし、そこに明るさは無い。
あるのはただ長い時、待ち焦がれていたかのような期待を宿した歪な笑みと―ー
「――なにかが起きればいいと、そう願っている」
メリークリスマス!ฅ^•ω•^ฅ




