63話 「月の独白」
まどろみの淵で、ふと眩しさを覚えてルナ・フレイムは眠たげに瞳をあけた。
窓を覆うようにしてある薄地のカーテンからは日の光がわずかに漏れ出し、彼女のいる室内を明るく照らしている。
朝の到来を知った彼女は、おもむろにベッドから腰を上げると、カーテンを開け放ち、窓越しに眼下に広がる庭へと視線をやった。
「……」
雲一つない青空と、煩わしくも感じる日の光。
その下に広がる広大、美美しいその庭を特に感情のない様子で眺めたあと、紫艶の瞳が何かを探すようにしてわずかに動く。
そして――
「……」
音もなく、ルナは優しく微笑んだ。
視線の先には、青々とした芝生の上を、楽しそうに歩く女神アテナの姿が。
「らん、らん~♪」
風がわずかに運んでくるその歌をしばらくの間、彼女はただ黙って聴いていた。
可憐。そして美麗。
それらの言葉がすべてだった。
飾り立てられた屋敷も、無駄に広い庭もルナにとってはとるに足らない現実だ。
しかし、そこに女神アテナがいるだけで、美しい絵画を眺めている気持ちにさせられる。
神だから、という事実だけではきっと正確ではない。
彼女だから、女神アテナだから、きっとそうなのだろうという推測にも似た確信。
しかしそこに、不敬にも愛でるような気持ちがあることも、ルナははっきりと自覚をしていた。
だからこうして朝起きてすぐに、女神の姿を眺めるのが彼女の精一杯。
ある日、同じ時間、女神アテナが庭を散歩するその姿を見つけてから、こうして日課になるほどに気に入っていた時間だった。
目の中に入れても痛くない存在はルナにとっては貴重である。
そこに傲慢さはない。生き方の問題だった。
公爵令嬢として生きてきたこれまでで、人には裏表があることをルナは痛いほど知っている。自分に向けられる笑顔の裏には少なくない割合で下卑た思惑が存在することを。
しかし、それを不快に感じることはあっても、それが間違いではないことも理解している。
小娘であっても公爵という地位が貴族社会においてどれほど大きなものであるかなど、語るまでもないのである。
だが、分かっていてもなお、煩わしいものは煩わしいのだ。
生まれたその瞬間から公爵令嬢であった幸運などに、ルナはすがる気も、誇る気もありはしない。
故に、その生き方はルナ・フレイムという少女にとっては必然だった。
――誰もよせつけなければいい
取り繕った笑顔を振りまくなど、願い下げである。
叶うならば一人でいたいという孤高の願いは本物だった。
だからこそ、自らの取り巻く環境の変化に、いまだにルナ自身が不思議な気持ちでいた。
――『バーン伯爵家が次男。マロ・バーンです。どうぞ今後ともお見知りおきを』
そう言って、どこか引きつった笑みを浮かべた少年の顔を、ルナははっきりと覚えている。
「……っ」
たまらず少女の顔に笑みがこぼれた。
もう何度、思い返しただろう。
その出会いは、ルナにとって忘れられない程に鮮烈だった。
自決すらも覚悟した場面であった。
自分が定めた生き方の結末をどこか悟った場面でもあった。
そして、迫りくる危機に、自らの無力を知った場面でもあった。
そうしたすべてを消し去るようにして、少年は少女の命を救ってみせた。
瞬き一つ。それだけですべて終わっていたのだ。
いかに人嫌いといっても礼を欠くつもりなどルナには無かった。
恩人には報いるべきだという思いから、自らの名をはっきりと名乗った。
驕るわけではないがフレイム家が公爵家であることなど周知の事実。
少年からしたら、最大の功績をもって公爵家に取り入るチャンスだったはずだ。そのはずだった。
しかし。それすらもどうでもいいといった様子で迷惑そうにする少年が、そこにはいた。
ルナの胸に飛来した思いは一つ。
――おもしろい。
名乗りすらせずに逃げるようにして背中を向けたその少年に、気づけば名を問うていた。
思い返せば、自らが公爵位にあることを幸運に思ったのはこの時が初めでだったのかもしれない。
『マロ・バーン』について、できうる限りの情報を集めた。
嫌っていたはずの貴族然とした弱みすらも交渉の切り札にして。
そう。この時に既にルナは自らの騎士を見定めていたのだ。
しかし、自らが調べ上げたその名すら、偽りだった。
命を救った公爵令嬢に偽りの名を告げる騎士がどこにいようか。
その事実を知ったとき、ルナの心を満たしたのは、怒りでも、悲しみでもなかった。
好ましい。
簡潔に、けれどたしかに、ルナ・フレイムという少女は、ユノ・アスタリオに好感を覚えていた。
自らに与えられる地位も名誉も、ユノという少年は欲していないようにすらルナには思えた。
だからこそ。そうであったから彼女は欲したのだ。
ユノ・アスタリオという名の騎士を。
想いは身を結び、ユノ・アスタリオはルナ・フレイムの騎士となった。
その確かな事実と実感が、心地よい満足感となって今もルナの心を満たしている。
そう。心地よいのだ。
不思議な話だった。
進んで他人を遠ざけていた自分が、誰かに傍にいてほしいなど。
あまつさえ、覚悟の象徴といっても過言ではない護身刀すらも手放した。
そんな自分の感情に、行動に、他でもないルナ自身が戸惑っていた。
しかし、仕方のないことなのかもしれない、とルナは思う。
声も、顔も、どこか抜けている行動すらも、総じて全てが好ましい。
ユノを気に入っていることなどルナ自身も自覚しているのだ。
だからその形容しがたい気持ちの答えもそれで説明がついた。
珍しく、誰かを気に入っているのだと。
フレイム家の執事にして、負け知らずだったクロードを打ち負かし、神々への争いに介入し、そして、歴史ある闘技大会の覇者となり生徒会入りを決めた自らの騎士。
気に入らないわけがない。
そうであると。
――しかし、例えば、それらを成していなかったとしても。
「……」
ルナは思考を中止すると小さくため息をついた。
ひとまず今は、ユノに対する自分の気持ちなどを考えている場合ではない。そう思いなおして。
しかし、そうして再び考えはじめるのもユノについてのことだった。
やはり、見つかってしまうものなのね。というのがルナの正直な感想である。
今までは自分こそがユノ・アスタリオを最も評価している、という確かな自信があった。
いや、正確にいえばユノによく似た黒髪の少女も大層ユノを評価していたわけだが……
(……親族は例外ね)
脳裏に浮かんだ女の影をすぐに頭の隅へとおいやると再び思考の海へと潜っていく。
――やはり見る目のある人物は自分の他にも確かにいたのだ、と。
ロイド・メルツ。
あのメルツ伯爵家の次男にして、フェリス魔法騎士学園の生徒会副会長。
その実、暗部の実質的なリーダー。
大層な肩書である。しかしやはり尋常ならざる者でもあったのだろう。
早い段階で、ユノ・アスタリオに目をつけていた節がある。と、ルナはそう予想していた。
ユノの行動を縛るつもりなど、ルナにはありはしなかった。
それこそ、自らが最も嫌う部類である不自由を誰かに強制する考えなど彼女には皆無である。
しかし――。
優先順位はあってしかるべき。そんな思いが確かにあった。
ルナ自身は気づいてはいなかったが、そこには可愛くも拗ねたような感情が確かにこもっていた。
当然、ユノ・アスタリオの最優先事項が自分ではないことをルナも漠然と知っている。
しかしそれでも次にくるのは自分なのだ、と。
「……」
しかし、それらも本当は、どうでもいいことなのかもしれない。
ルナにとって最も大切なのは、ユノ・アスタリオが自らの騎士であるという事実のみ。
今はまだ、それ以外なにもいらない、と。
傍にいてくれるだけで良いのだ。
お気に入りである、ユノ・アスタリオが。
「……そろそろね」
そう一人呟いて、ルナはフェリス女学園の白い制服に着替えると、ベッドに腰掛けながらその時を待つ。
この僅かな時間も、ルナのお気に入りの一つだった。
少しして、コン、コンと、扉をたたく乾いた音が、室内に木霊する。
「……」
思わず笑みを浮かべてしまった自分を律するようにルナは努めて無表情を装った。
なぜだか癪なのだ。
笑みなど浮かべていては、まるで誰かの来訪を喜んでいるように見えてしまう、と。
そんな自分が、ほんの少しだけ気に入らない。
ただ、それだけのことだ。




