20話 「クライム」
肩までお湯につけながら、僕は夜空に浮かぶ月を無心で眺めていた。
「先輩たちに感謝しなくてはいけないね」
共に入浴しているクライムのその呟きに僕は頷く。
元はただお湯が沸いていただけだったというこの場所も長い年月を経て、宿屋の温泉といって差し支えない程、見事な造りとなっている。
「――ですか? ルナ様」
……心が乱れた。
薄壁一つ隔てた先ではルナたちが何やら楽しそうに話す声が聞こえてくる。
僕は自分を律するように再び夜空を見上げ、星と月とが仲良く寄り添うその光景にため息をつく。
「……綺麗だな」
月の光だけが、唯一の明かり。それが僕らを優しく照らしている。
「ユノ、ルナ様とはうまくやれているのかい?」
ぽちゃん、という水が弾ける音と共に、クライムが僕を見てそう言った。
「うまく……やれてるのかな? どうだろう。少なくともまだクビにはなっていないかな」
僕がそう言って笑うと、クライムは何故か儚げな表情を浮かべる。
そしてポツリと、小さな声でこう呟いた――。
「――羨ましいな」
「……え?」
「……正直に言うとね、悔しかったんだ。とても」
そう言ったクライムが何を悔しがっていたのかを僕はすぐに察する事ができた。
だから僕は直接尋ねてみる。
「……クライムはルナが好きなの?」
僕がそう聞くと、クライムは少し驚いたように目を見開くと、次いで頬を指でかきながら顔を赤くする。
「どうなんだろうね。僕はずっとこの気持ちを憧れだと思って生きてきたから」
……背中が痒い。
クライム……僕でも分かるよ。その気持に名前をつけるなら、きっと『恋』になるのだろう。
「小さい頃からの憧れだったんだ。どうしても彼女に認めてほしくて、僕は今まで頑張ってこれた」
そう誇らしげに言うクライムは、僕にはとても眩しく映った。
「だからという訳では無いけれど、僕からも一つ、君に聞きたいことがあるんだ」
そう言って真面目な表情をしたクライムに、僕は少し迷って頷き返す。
「……なに?」
「君は……どうして今まで手を抜いていたんだい?」
僕は息を飲んだ。
「それは、どういう――」
「――スキル《槍術》。それが女神アテナ様と契約した時に君が手に入れた力だときく」
僕は黙って頷いた。
「だとすると、おかしな点がある。君が今日使った結界魔法はどう説明するつもりだい?」
「どうもなにも……あれはアリスから教えてもらった魔法で――」
「――上位魔法《聖域結界》。それが今日君が使った魔法の名だ。位階の難度はレベル七。とてもじゃないが今まで無能と呼ばれていた者が使える魔法じゃない。事実、その魔法を扱えるのは新入生の中じゃアリスさんくらいさ」
合宿が始まる前、一度僕がお願いしてアリスに見せてもらった結界魔法。
その魔法が発動した時、アリスが少しほっとした表情を浮かべていた事を僕は思い出す。
そうか。そんな難しい魔法をアリス、君は僕に見せてくれたのか。
「ずっと……ずっと不思議に思っていた。どうしてルナ様は君を選んだのだろうと。確かに君は神との契約で手に入れた《槍術》スキルでクラスメイト達を血祭りにあげた」
いや、それは違うね。一撃だよ一撃。血は一滴も流していない。
「けれど、その結果はスキルの有無によるものだと少し考えれば誰にでも分かる。それほどスキルというのはある意味絶対的な力の象徴になり得るからだ。けれど違う。僕は今日はっきりと確信したよ。だから改めて君に問おう」
クライムの碧い瞳が僕を貫く。
「どうして君は無能を演じているんだい?」
……無能を、演じる、か。
「自分を低く見せる事に、一体なんの意味が――」
「クライム」
ただ一言、僕がそう言うと、クライムは口を閉ざし、僕の言葉の続きを待っている。
「僕は確かに無能ではないのかもしれない。けれど、今まで無能を演じてきたつもりもない」
力の制御を覚えるのに苦労してきた。
少しでも気を抜いて誰かを傷つけるのが怖かった。
そんな恐怖を克服した時に、僕についていたのが《無能》というレッテルだったというだけだ。
加えて言えば、力を使ってやりたいことも無ければ、英雄願望だって僕にはありはしなかった。
「けれど君は自分の本当の力を隠している。そしてルナ様はきっとそれに気づいた。違うかい?」
……クライム・エルロード。どうやら噂に違わぬ切れ者らしい。
「そうかもね。けれど一つだけ言っておこう」
僕はクライムの瞳を見つめながら、はっきりと宣言する。
「僕はこの先、力を隠す気はまったく無い」
そう。昔はそうでも今の僕には目標がある。
「わぁ! 見てくださいお月様がとっても綺麗です!」
壁の向こうから聞こえる僕の神様の楽しそうな声。
――もう僕はこの力の使い道を決めている。
女神アテナを最高神まで引き上げる。
それが僕の決めた、僕の道だ。
「……すごい目をするんだね。そうかじゃあ、君にも頑張る理由ができたという事かな?」
「……そういう感じかな? じゃあ、僕はお先に――」
――水面が揺れる。
その瞬間、クライムの引き締まった裸体が、柔らかな月の光に照らされて浮かび上がった。
え? なに?
突然の事に僕は驚いた。
なにせ、僕の目にはクライムのクライムがはっきりと映っている。
「ど、どうしたの?」
僕がそう言うと、クライムの熱い瞳が僕へと向くのが分かった。
「ユノ……君に頼みがある……僕とやらないか?」
――え?
「――決闘を」
まぎらわしいわ!
「なんで僕と君とでそんな事」
「ルナ様が認めた君と、戦ってみたい」
重く、深い声色だった。
覚悟を感じさせる漢の目。
だからだろうか。僕はそれに応えたくなった。
「場所と時間は?」
「今日、皆が寝静まった後で。場所はその時に決めよう」
僕が頷くと、クライムは優し気に微笑みを浮かべ、この場を後にする。
「……決闘か」
僕は一人でそう呟きながら、夜空に浮かぶ月へと腕を伸ばした――。
クライムのクライム。




