幕間 「視線の先に」
夜空に浮かぶ白銀の月とは裏腹に、陰鬱な空気がこの街には満ちていた。
時折、瓦礫の隙間から吹く風が不気味な音を鳴らし、虫の音に混じって聴こえてくる。
饐えた獣臭と、ほのかに香る鉄さびの匂い。
ここが森の中なのであれば特段気に留めることも無いのだが、これが街中となれば話は別だ。それも、人の住まう街であればなおさらである。
――『神無』
『神様のいない街』として悪名高いこの街が、伯爵位であるメルツ領に属することを知る者はそう多くはいない。実際にこの街に入ったことのある者はさらに少ない数になるだろう。
広く知られているのは、荒れ果てたスラム街であるということだけで、その実態はあまり知られていないのが現状だ。
しかし、それは当然の事ともいえる。
神という絶対が存在しないとされるこの街に好意的な視線を向ける者は少ない。何よりも冒険者崩れをはじめ荒くれ者達が住まうとされるこの街に進んで近づきたい者など皆無と言っても過言ではないのだ――というのは建前になる。
暗部――『影の月』
その拠点がこの街にあるという事実こそが、何よりの理由だった。
荒くれ者達が往来を闊歩し、怒号が飛び交う昼間の喧騒とは打って変わって静まり返る夜の街。
その理由も、きっと同じだ。
この街に長く住まう者であれば知っている。
神無の夜は――彼らの時間なのだ。
「…………はぁ」
あばら家が並ぶ街の一角。
硝子の無い窓から覗く月をぼんやりと眺めながら、少女――クロエは机にぺたりと頬をつけた姿勢で小さくため息をついた。
「………………あ」
そして気がつく。
まただ――と。
ある日を境に、クロエは自分がため息をつく回数が多くなったことを自覚していた。
黒い炎――その突然の襲撃。
あの衝撃的な夜の出来事をクロエはまるで昨日の事のように記憶している。
子供たちを守り切れたという達成感。
奇跡的に生還できたという安堵感。
それらもため息の理由ではあるが、それよりもなによりも。
「…………」
思い返す度、あまりの衝撃に頬が緩む。
クロエの頭の中の大部分を占めていたのは、一人の少年の姿だった。
名をユノ・アスタリオ。
クロエと同世代でありながら、影の月幹部。それも序列一位の少年である。
数字持ち。
その肩書がもつ意味を、暗部見習い構成員であるクロエは十分に理解している。
しかし、現実感の無いその事実に、いまだクロエの中で理解が追い付かないでいるのだ。
結果、ユノ・アスタリオについて考える度に、様々な感情がため息となってクロエの口からこぼれ落ちる。
友達だと思っていた男の子が、実は自分が見習いとして働いている組織の幹部で、それも序列一位。
事実だけを並べれば、ため息がでるのも仕方がないと言えよう。
『恋煩いじゃないかな?』
ある日のこと。
クライムは思案顔でクロエにそう告げた。
「こい……わずらい」
――ちょっと、違うような?
年相応に恋愛に興味のあるクロエであったが、環境のこともありそういった機微には疎い自覚がある。
それでも尚、クライムの言葉を聞いて、クロエは直感的にその考えを否定したのだった。
しかし同時に『それでもいい』という想いを抱いたのも確かだ。
手も足も出なかったあの化け物を追い詰めるユノの姿は、素直にかっこよかったと思えるし、何より命を救ってもらった大恩がある。
形容しがたいこの気持ちが噂に聞く『恋』なのだとすれば、それでもいいというのがクロエの正直な感想だった。
未だ答えの出ない自分の気持ち。それでも間違いないと確信していることがある。
――わたしは、ユノの強さに憧れている。
恐らくだが、口にしないまでもクライムも似たような気持ちを抱いているであろうことは、あの夜を皮切りに増えた訓練量が物語っていた。
それも、また仕方がないことだ――とクロエは思う。
良くも悪くも、あの夜の出来事は自分たちにとってあまりにも衝撃的すぎたのだ。
「……」
ユノに尋ねたいことが沢山あった。
どのようにしてそれほどの力を身に着けたのか。
普段はどんな訓練をしているのか。
いっそのこと、どんな女の子が好きなのか聞いてみるのもいいかもしれない。
「…………」
少し伸びすぎた自らの黒髪に指をくるくると絡ませながら、クロエは再び小さくため息をつく。
今ついたため息の理由は分かっている。
――また、会えるだろうか?
クロエはもう知ってしまった。
ユノ・アスタリオの強さと、その正体を。
言ってしまえばユノはクロエの上官ともいえるわけだ。
会えたとしても正しい接し方がわからない。距離感がつかめない。そんな不安がクロエの胸の内で渦巻いていた。
「…………」
クロエはおもむろに机から頬を離すと、振り返るようにして背後に視線を向ける。
距離感がつかめないといえば、もう一人。
クロエの視線の先には、木の壁によりかかるようにして地面にぺたりと座る一人の少女の姿があった。
――少女。
その認識が正しいのかはクロエには分からない。
かつてネムと呼んでいた少女が、実は神さまだった。
その事実は、ユノ・アスタリオの正体を知った時に引けをとらない衝撃となってクロエを強く動揺させた。
クロエにとっては、はじめて自分の目で見た神様である。
これまで軽々しく接していたという自責の念が沸き上がると同時に、これ以上の不敬を働かぬようクロエは細心の注意を心がけていた。
加えて、今現在クロエが暗部構成員として与えられている任務が、ネムの護衛と監視である。
なんでも再び襲撃される可能性があるとのことだ。
結果、なんとも言葉にしづらい気まずさと緊張感をクロエは抱いていた。
「…………」
これまで――つまりネムが神様であると知る前であれば、返答がないことを知りつつもクロエから声をかけることは決して少なくはなかった。
しかし、今はこうして時折視界の中に収めるのが精一杯という状況である。
避けているわけではないのだ。
ただただ、接し方が分からないだけで。
しかし、変化した関係性であっても変わらないこともある。
「……」
すやすやと眠る子供たちを無表情で見つめるネムの姿。
そんな姿を見るたびに、自分がネムに好意を抱いていることを強く認識させられる。
神様であろうと、無かろうと。
クロエにとってネムは保護している子供たちと一緒で、家族の一員なのである。
「……」
不意にネムの眠たそうな瞳が、外から月の光が差す家の出入り口へと向く。
今回がはじめてのことではない。
このあばら家に軟禁されてからというもの、時折ネムは今のようにじっと外の方に視線を向けることがあった。
その理由を、クロエは知っている。
きっと待っているのだ。ユノのことを。
根拠はない。
強いていうなら、女の勘である――と、齢十二の少女は胸の内で独りごちた。