128話 「並ぶ力」
「………に……するな」
その小さな声はすぐ隣から聞こえてきた。
「……アリス?」
アリスのポニーテールが揺れている。いや、よく見れば揺れているのはポニーテールだけではない。雰囲気そのものが……体からあふれだす魔力をともなって揺れていた。
それは時間の経過と比例するように強くなっていった。
すでにその勢いはアリス自身のスカートを舞い上げん勢いである。
「……」
僕はごくりと喉を鳴らした。
そして、いったいどうなってしまうのだろうと、アリスのふわりと舞い上がるスカートを眺めながら思う。
そんな僕の視界を遮るように、クライムはアリスの前までくると肩をすくめて笑った。
「……作戦失敗ってところかな。実際恐ろしくはある。けれどここまで言われて引き下がったのではエルロードの名がすたる。……ただ、誓うよ。僕は後悔しない」
君もだろ? とでも言いたげなその爽やかな表情に僕が困惑していると、うつむいていたアリスが顔を上げる。
瞬間、僕の頭の中は真っ白になった。
「……ユノを……バカにするな……っ」
瞳に涙をためて男をまっすぐ睨みつける幼馴染の顔。
断言できる。その怒りは本物だった。
いまだかつて、ここまで怒りをあらわにするアリスを僕は見たことがあっただろうか?
「……」
僕は全身から汗が噴き出してくるのを自覚した。
たぶん、僕の予感は間違っていない。
争いは避けられない。それほどの憤怒だ。
「……」
変わりゆく状況にはっきりと僕は動揺していた。
なにが、正しいのかを、未だ掴めずにいる。
男……先輩の言葉は正しいと思った。もちろん僕のことに関しては、だけど。
けれど争うことなく引き下がる理由としては十分だったはずだ。
けれど、状況がそれを許さない。
アリスが怒っている。あのアリスがだ。
品行方正でどこにだしても恥ずかしくない自慢の幼馴染が、怒りに身をまかせようとしている。
それも僕の為を思って、だ。
あとクライムも。
瞬間、僕が頭の中に勝手に創りあげた天使のように可愛いミニ神様が、赤い瞳を潤ませながら胸の前で祈るように手を組んで僕の耳元で囁く。
『堪えてください……ユノさん……争いはなにも生みません』
小さな翼をパタパタとさせながら、神様は僕にそう囁く。
……確かに。
忘れるな僕。まだ辞退した訳じゃない。少なくとも今の僕は闘技大会の覇者であり、学年の代表ともいえるユノ・アスタリオだ。
それに……僕の行動は、神様の評価に直結する。軽はずみな行動はもちろん、勢いに身を任せることはできない。
「……アリス」
僕はひとつ頷くとアリスを諫めようと肩に手を伸ばす――その時だった。
『えー? それでいいの? ほんとにー?』
なんということだ。
その小悪魔はまるでアスタロトのような黒い翼をはためかせて、僕の耳元で囁いた。
『こんなにバカにされてるのに、ゆの、にげるんだ? ふはは、だっさー』
ケタケタと笑いながら転げまわる小悪魔。
「……」
逃げるわけじゃない。ただ、丸くおさめたいだけなんだ。
瞬間、ニタリと笑って小悪魔は囁く。
『それをにげるってゆーんだよ。おさななじみがなかされてるのに、ゆのはにげるんだ?』
「……」
はっとさせられた。
……アリスが泣いている。
僕の大事な幼馴染が泣いているのだ。
『それにおねーさまならこうゆーね。やっちゃえって』
瞬間フラッシュバックしたのはルナの笑顔だった。
あの時以来、一度も拝めたことのない太陽のような笑顔。
けれど、同時に神様に初めて出会った時の寂しそうな笑顔が重なるようにして頭に浮かんできた。
「……」
この時、僕はあふれんばかりの焦燥感に身を焦がしていた。
……本気で、まずいかもしれない。
選びきれない。
どう、うごけばいいのかも分からない。
ここで争っては去年の焼きまわしだ。
少なくともそれが良い評価につながるわけじゃないのは確信できる。最悪、更なる悪評として今後僕に付きまとう可能性だってあるだろう。
……それはつまり、せっかく上げた神様の評価が落ちるということだ。
けれど、ここで黙って生徒会への入会を辞退するのも正解じゃない気がしてきたのも事実だ。
たしかに丸く収まるだろう。そこに争いはない。
でも、アリスの気持ちはどうなる?
僕の為を思って、涙を流した彼女の気持ちを僕は無視するのか?
「……」
堂々巡る自問自答。
煮え切らない自分に、僕自身が苛立ち始めた時、その記憶はまるで僕を導くように浮かび上がった。
――『隙をみせない』
――『自分を低くみせない』
――『下手に出ない』
その声は凛とした強さを宿して脳裏に響き渡った。
『つまり、なめられてはいけないの。いい?』
「…………」
なんだか結局、最初に僕自身で考えていたことだな、と素直に思った。
似たようなことを僕は経験している。
……ベストな選択なのかは分からない。
けれど、少なくとも今は、そう信じるしかない。
……覚悟はきまった。あとは、自己満足の領分だ。
僕の、創り出した都合のいい幻想だってことは分かってる。
……神様、ごめんなさい。
その言葉に、神様は小さく首を振って、にっこりと笑った。
その後ろでフィーアさんがフッと笑って親指を立てる。
「……」
さて、やるか。
僕はだれに断りをいれるでもなく、空いていた席にどしりと腰を下ろす。
瞬発的に怪訝そうに眉をひそめた眼鏡先輩が口を開きかけた瞬間。
僕は目の前の円卓の上に、たたきつけるようにしてかかとを下ろした。
――生徒会室の空気が凍り付く。
当然だ。たぶん誰かに同じことをされたら僕も唖然とする自信がある。
実際、無表情だったセレナさんの目がまんまるになっているのが見えた。
……あとで謝らなきゃ。
そんなことを思いながら、僕はこれみよがしにわざとらしく大きなため息をついてみせた。
当然、眼鏡先輩が黙っている訳が無い。
「……何の真似だ」
低い声色で放たれたその言葉には、強い怒りが宿っていた。
「……」
「……聞こえなかったのか? ユノ・アスタリオ。何の真似かときいている」
その問いに僕は答えなかった。
代わりといってはなんだが、口の端をつりあげて僕は言う。
「……眼鏡先輩……あなたは勘違いをしている」
「めがね……先輩……?」
目を見開いて動揺する先輩。
僕はかまわず一つ問いを投げかけた。
「この魔力は……先輩のですか?」
僕は人差し指を宙へと向けてくるくると指を回してみせた。
「……そうだ」
硬い表情をして頷く先輩。
……大したものだ、と素直に思った。
同時にこの人は間違いなく強者なのだろう、とも思った。
視覚化できるほどの魔力。
それは間違いなく強者の証でもあるのだろう。
だが、この程度の芸当は、僕にもできる。
ロイド先輩も、そしてセレナさんだって可能だろう。
僕は諭すように言った。
「なるほど。たしかに素晴らしい魔力の濃さだ。勘違いするのも仕方のないことですね」
「……話がみえないな」
言って眉をひそめる眼鏡先輩。
僕はニヒルに笑って真実を告げた。
「だから、こう言ってるんですよ。この二人は別に先輩の魔力に恐怖した訳じゃない、と」
「……」
閉口する眼鏡先輩。
後ろで「……ユノ?」なんて困惑する声が聞こえるが一旦、スルーだ。
僕は補足するように続けて言う。
「彼らが恐れていたのはあなたじゃない。この僕ですよ。僕が怒りださないかを憂いていたんです」
「……どういう意味だ?」
本気で困惑している様子の眼鏡先輩。
僕はやれやれとでも言いたげに鼻をならして、口にした。
「あなたも噂ぐらいは聞いたことがあるはずだ。模擬戦でクラスメイトを血祭りにあげた新入生のことは」
瞬間、ガタリと音を立ててセレナさんは目を見開いて僕を見つめる。
「本当だったの……?」
そうパクパクと口にして、唖然とするセレナさん。
あとで説明しなきゃな、と思いながらも僕は止まらない。正しくは止まれない。
セレナさん同様、目を見開いたままの眼鏡先輩に僕は問いかける。
「理解……できましたか?」
「……まさか。少なくとも君に恐れている、というのはハッタリだな」
「なぜそうお思いに?」
眼鏡先輩は鼻を鳴らすようにして笑うと、眼鏡のレンズに手をかけた。
「ユノ・アスタリオ。きみは自分が可笑しなことを言っていることを自覚できていない」
「と言いますと?」
「ただの比較のはなしさ。きみの言葉を正しいものとするには圧倒的に足りない現実が存在する」
「……」
僕は黙って言葉の続きを待った。
眼鏡先輩は自信ありげな顔で口の端を吊り上げて口にする。
「この魔力さ。分かりやすく説明してあげよう。彼らがこの空間に満ちる魔力以上に君を恐れるという事は、つまり君は少なくとも同じ芸当ができるということを指している」
「……」
「違うか? それとも否定してみせるのか? それもいいだろう。だが言葉では不可能だ」
そう言って眼鏡先輩は眼鏡をくいっと持ち上げると変わらず自信満々な表情で笑みを浮かべた。
事実、自信があるのだろう。
眼鏡先輩はこう言っているわけだ。
『俺と同じ芸当を、お前にできるのか?』 と。
僕は肩をすくめて笑った。
状況は理解している。
その行動によって生まれるであろう結末も、それから神様への影響も。
想像した。結論はでている。
なにも不安がることは無い。
つまり僕は許されたわけだ。
少なくとも目の前の先輩と並ぶだけの実力があるということを、この場で示すことを――。
「……では、遠慮なく」
一つ笑って、僕は魔力を制御しながらじわりと放出していった。
少し加減が難しい以外に、問題は無い。
時間の経過に伴って、僕の身からあふれ出た魔力が光となって明滅を始める。
眼鏡先輩の瞳がゆっくりと、見開かれていくのが分かった。
ロイド先輩は口の端を吊り上げた。