幕間 「御伽話ノ夜」
「……ゲッ」
虫の音も聞こえぬ静かな夜だった。さっきまで。
夜空に浮かぶ黄金の月。その光が木々の隙間から漏れるようにして緑の大地を優しく照らしている。
かつて【神獣の森】と呼ばれ聖地にもなっていたこの場所は、魔軍暴走の厄災を経て【精霊の森】と呼び名を改めていた。
青い流星の飛来。
自らを邪神と名乗る者の出現によって魔軍暴走の原因についての真相はうやむやになったかと思われたが、こうした形でその結果は如実に現れている。
しかし――。
「……」
『そんなことなど、どうでもいい』と言った風に。かつてこの森の主であった神獣ポチは、時折後ろ足で耳をかきながらも、フェンリルの名に恥じぬ凛々しいお座りをしてその時を待っていた。
「……」
そんな神獣の様子を不機嫌そうに眺めていたのは、吸血鬼の真祖であるカミラ・ルージュだ。
白く細い腕を黒いドレスの胸元で組んだまま、闇夜で輝く赤い瞳を時折チラチラと神獣に向けている。しかし、頑なに自分から口を開こうとはしなかった。
結果、決して短くない時間、森の静けさそのままに両者のいる場には静寂だけが満ちている。
そんな現状を嫌ってか……は定かでは無いが、神獣ポチはその場に四つ足で立ち上がるとおもむろに身体を前へと伸ばしながら黄金の瞳をカミラへと向けた。
「………………おぬしだけか?」
その神獣の問いに、カミラは即答する。
「こっちの台詞、だッ!」
いーっ、と顔をしかめて、カミラは鋭く尖った犬歯を口許にのぞかせる。
「……」
ポチは伏せるようにその場に横になると、大きな尻尾を左右に振った。
以て会話の終わりである。
「……」
再び訪れた静寂に、カミラが呆然としながら言葉を探していると、不意にポチの両耳が空を向くようにしてピンと立つ。
男の声が聞こえてきたのは同時だった。
「なかなか壮観な眺めだな」
少し遅れて、カミラは振り返るようにして赤い瞳を頭上へと向ける。その視線の先には、カミラ達を見下ろすようにして太い木の枝に立つベルフェゴールの姿があった。
「月の晩に神獣と吸血鬼の真祖が逢い引き、てな感じか? メルヘンチックでいいじゃねーか。物語にしたら人気でるかもな」
「……はぁ?」
ベルフェゴールの言葉に呆れた表情を浮かべるカミラ。
「……そうじゃな」
ポチは言ってその場に四つ足で立つと、鋭い視線をベルフェゴールへと向けて言葉を続けた。
「……おぬしさえいなければ、あるいは」
ベルフェゴールは愉快そうに笑う。
「はは。言うじゃねーか」
「そんなことはどうでもよい」
言ってカミラは不機嫌そうに眉をひそめて、視線をベルフェゴールへと向けた。
「……随分待ったぞ。我をいきなり呼び出しておいて、そのお前が遅れてくるとはどういうことだ?」
「悪かったな。せっかくだからと森を見て回ったらこのザマだ。だが、カミラ。直接来るのはお前も初めてじゃないか? 結構広いんだぜ? ここ」
その言葉に呆れたように鼻を鳴らしたのはポチだ。
「……酔狂なことを。見て回ったところで何もありはせんというのに」
「ああ。そうだったな。……だが、綺麗だ」
神獣の黄金の瞳と、ベルフェゴールの赤い瞳。その視線が闇夜の中でぶつかり合う。
「……話の流れで聞かせてくれよ。実際どういう気分なんだ? 半ば強制的に追い出された……住処とも呼ぶべき場所に帰ってくるっていうのは。しかも、もうここは以前とまるっきり同じってわけじゃない。名も変わった」
そのベルフェゴールの言葉に、神獣は瞳を閉じて答えた。
「……何も思わん」
「へぇ?」
ポチは穏やかな声色で口にした。
「わしから言わせればこの森は何も変わってはおらん。それに……今は帰る場所もある」
ベルフェゴールは笑って肩をすくめた。
「……だろうな。変わったっていっても所詮記号だけ……いや、それすらも怪しいところだ。実際お行儀よくこの森を【精霊の森】なんて言い改めるやつはまだ少ないだろうぜ。…………よかったな?」
その物言いにポチは怪訝そうに目を細めた。
「……分からぬな。何が言いたい?」
ベルフェゴールはニヤリと笑う。
「古くからそうであったものを変えるのは、とても……難しいってことだ」
「……皮肉のつもりか?」
ベルフェゴールは肩をすくめて笑った。
「そう構えるな。他意はない」
意味深に交わされていく言葉の応酬。
「……」
その最中、ポツンと一人。まるで輪から弾かれた気分になっていたカミラが、帰りたいなー、と思っていたとき。
ベルフェゴールの赤い瞳がカミラへと向いた。
「さて、お姫様がむくれる前に、違うお話でもするか。予定通り、な」
「誰が姫だ……バカにするでない」
頬を膨らませてそっぽを向くカミラ。
ベルフェゴールは一つ笑みを浮かべた後、新たな話題を切り出した。
「で、本題だ。話はついたのかよ?」
ベルフェゴールの瞳は神獣をまっすぐに捉えている。
カミラはぽかんと口を開けていた。
ポチは瞳を閉じると、ため息混じりに言う。
「……うむ。驚くほど簡単に、な」
「そうだろうな。むしろこの場合俺たちがアイツの手のひらの上って見方もできるわけだ」
「本題ってなに?」
「……知れたことを。おぬしの気まぐれじゃろうに」
ベルフェゴールは肩をすくめると、木の上から飛び降りた。
「それを含めての話だ。まぁいい。じゃあ予定通りってことになるわけか」
「「…………」」
ベルフェゴールの言葉に閉口するカミラとポチ。
両者、沈黙の理由は違ったがベルフェゴールの言葉が自分たちの今後にとって重要なことであることだけは理解していた。
「……ベルフェゴール」
低い声色で言って、カミラは真面目な表情を浮かべて目を細めた。
「……つまり、あれであろう? 決まったのだな?」
「ああ。決まった」
「……もう少し説明がほしいところだな」
そのカミラの言葉にベルフェゴールは軽薄そうに笑うと、背後にあった木の幹によりかかるようにして背中を預けた。
「つまり、だ。俺たちとやりあったあの人間どもが仲間になる……かもしれないって話だ。前にも言っただろ?」
「……ふん。なるほどな。そのことについて我ははっきり言わせてもらうが……足手まといにしかならんと思うぞ」
「なんだよ? まだ納得いってないのかカミラ」
「当然であろう。敵は神々だ。人など何の役にも立たん」
「だが、その神々を信教する人間も、また敵になり得る……って話さ。考え方によっては俺たち以外のすべてが敵って言い方も過言にはならないだろうな」
「……」
「対して俺たちは数での対抗は不可能だ。ならば質を高めようって話さ。実際、俺とお前に戦いを挑んでまだ息をしているってだけで十分条件は満たしている。……ちょっとは本気だしてたんだろ?」
カミラはそっぽを向いた。
「……ふん。……………ちょっとだけな」
やれやれといったようにベルフェゴールは薄く笑うと、カミラへと向けていた視線を神獣へと移す。
「場所は?」
「神無じゃ。奴の拠点がそこにあるらしい。話の結果次第では今後も自由に使ってよい……と言っておった」
口笛の音が森に小さく響いた。
「ほらな? カミラ。さっそくこれだ。神どももあんな縁起の悪い場所近づきたくないだろうぜ」
カミラは不機嫌そうに頬を膨らませて小声で言う。
「……別に場所なんて、どこだっていいし」
「まぁ、たしかにそうだが。念には念をってやつだ。実際、動きやすい場所があった方がなにかと便利だしな。…………で?」
ベルフェゴールはそこで言葉を止めると、目を細めて神獣を見た。
「なにか心配事でもあるのか?」
「…………そうじゃな。大きな懸念が一つある」
「言ってみろ」
「最終的にノアが納得する保証はないぞ。わしができるのは橋渡しまでじゃ。奴の決定を捻じ曲げてまでこの話をまとめる気はない」
瞬間、笑い声が森に木霊する。
ポチは小さく目を見開いて、楽しそうに笑う悪魔の姿を見て固まっていた。
「はははっ……なんだ。そんなことかよ」
「…………何が可笑しい」
「いや、そうだとしてだぜ? 奴に関しちゃいくらでも説得のしようはあるだろ。俺としてはお前を納得させる方が難しいと思っていたくらいだ」
「……わしのことなどどうでもよい。何と言って説得するつもりじゃ」
ベルフェゴールはおもむろに指先を宙へと浮かべると、円を描くようにしてクルクルと回した。
「ようは需要と供給さ。奴にとって俺たちの話にうまみがあると思わせればいい」
「……うまみじゃと?」
「ああそうだ。奴は何の為に邪神ごっこなんてしてると思う?」
そのベルフェゴールの問いに、神獣は納得したかのように瞳を閉じた。
カミラは月を見上げて綺麗だなーと思っていた。
「俺は世界と殺りあいたい。ヤツは女神アテナを……ひいては野良神を守りたい。互いに利用しあうだけだ」
瞬間、強い風が木々とベルフェゴールの美しい金色の髪を揺らす。
――「簡単だろ?」
月の晩に、悪魔が嗤った。