115話 「Alice」
目を開けてすぐ、私の視界に飛び込んできたのは白一色だった。
「――――」
……なにも不思議なことじゃない。
仰向けのまま眠っていたわたしが最初に見たのが白い天井だった。それだけのこと。
それなのに……私が息を飲んでその光景に恐怖したのは、それが天井の色である、という認識をしていなかったからだろう。
なぜなのかはわたしにも分からない。
ほんの少し。
たったそれだけの間だけれど確かに私は、自分が今いるこの場所を――死後の世界なのだと錯覚したのだ。
…………死後の世界?
「……」
まるで夢の中にいるようなふわふわとした心地だった。
焦点が、うまく定まらない。
それは視界の話でもあるし、私の頭の中のことでもある。
分かっているのは、私はどうやらベッドの上で眠っていたらしい、ということだけで。
「……」
――……ふと、窓際のカーテンが揺れる。
白くひらひらと動くそれに私の目は吸い込まれていった。
「……」
窓が開いているのだろう。
少しだけ冷たい風が私の頬をなでていく。
同時に、カーテンの隙間から降り注ぐ月の光を見て、綺麗だな、なんて思ったりした。
「……わたし……なんで」
白いシーツの上にあるわたしの体。それから……腕に巻かれた白い包帯。
「…………」
……包帯? いつの間に?
どんよりと重く感じる両腕に力をこめて私はベッドのうえで上体を起こした。
そして再び周囲を見渡してみる。
……。
「…………どこだろ……ここ」
どこか、清潔さを感じさせる香り。
それからまるで私の姿を囲み隠すようにしてある白い帳。
……整理しなきゃ。
少なくとも私の部屋ではないことは確かだ。
そして、見知った場所でもない……はず。
自信がないのは、なんだか今も夢の中にいるような……そんな感覚が抜けきっていないからだ。
これが夢心地というものなのかな?
現実感がない。
まるで物語の中にいるような、そんな錯覚すらしてくるほどに不思議な高揚感が私の中で強まっていくのが分かる。
……私らしくない。
少なくとも、普段、こうあるべきだと私が決めた私じゃないことだけは確かだ。
だって、この状況でわくわくするなんておかしい。
気づいたら包帯が巻かれていて……いいや、そもそも目を開けたら知らない場所にいたのだ。もっと不気味がるのが普通なのかもしれない。
けれど、そんな違和感より強く、非日常が私を興奮させたのだ。
普段は寝ていなくてはいけない時間に起きているということ。
それから包帯だ。記憶にある限り、こんなふうに巻かれたことなんてこれまで無かった。
それに、痛みも無い。
これで涙がでそうになるほどの痛みがあったのであれば、こんな感情を抱くことは無かったのかもしれない。
「……」
そうだとしても別にいいのかもしれない、なんて思った。
ここが夢の中であったとしても、そうでなかったとしても。
ここにいるのは私だけだ。
なにも一人でいるときまで、演じる必要などないのだから。
そんな考えに至ったとき、なんだか、私の中のわくわくが強くなった。
このまま鼻歌を歌いながらごろごろとベッドの上で転がってみるのも良いかもしれない。
……しないけどさ。
でも、そんな私を、誰かが見たらどんな感情を抱くのだろうか。
おかしいって思うのかな。
公爵家の娘らしくないって思われちゃうのかな。
きっとそうなんだろうなって思う。
少なくとも、お姉さまには叱られちゃうだろうな。
……ユノはどう思うんだろ?
もしかしたら、そんな私の方が可愛いって思ってくれたりするのかな。
……そんなはず、無いよね。
「……はは」
思わず笑ってしまった。
いったいなに考えてるんだろ、わたし。
「――?」
ふと視線を感じて、私は窓を見た。
カーテンの隙間。
ガラス張りの窓。
きれいな月が窓の向こうで輝いている。
ルナ様のような綺麗な銀色の光。
窓は、鏡のようになっていて。
ぼんやりと、虚ろな目をした私を映し出す。
「……」
ぺたりと冷たい手でそれをなぞる。
どうやら額にも包帯が巻かれているようだ。
その事実はより一層私を幻想の世界に誘った。
夢だとしても、それでいい。
感情があふれだしてくる。
身に覚えのない怪我。記憶にない場所。
ふわふわとした思考と、酷い目をした……みっともない私の姿。
一人で良かったと心から思った。
こんな私じゃ、歩けない。
アリス・ローゼは公爵令嬢。
たとえ恰好だけだとしても、敬愛するルナ様と並び立つ女の子でなくてはならないのだから。
強がりだとしても、そうあろうとすることは間違ってないって思うから。
一目見て敵わないと悟ったあの日から、私の目指す輝きは、月の色。
同じ道では敵わないと知ったから、違う道を走ってみた。
目標に向かっている間だけは、あの人に近づけているような気がしていたから。
歴史ある学園で一番の成績で入学を果たし、生徒会にも加入を許された。
それで、ようやく――最低限。
まだ、きっと足りていない。
――分かってる。
この先もずっと頑張って、頑張って、頑張りつづけて、ようやく私はあの人の隣に立てるのだ。
その時に、私はようやく伝えることができるから。
「――好きだよって」
ずっと前からだよって。
今日まで、ずっと。
窓に映る私が笑う。
虚ろな目をした私が笑う。
なんでそんな目で私を見るんだろう。
――って思っちゃったから。
私は、気づきたくない現実に、巻き戻る。
誇らしいことのはずだった。
大切な人の、大切なものを守る。
そんな大切なお役目を――私は失敗したのだ。
『君には同情するよ』
思い出したのは、苦しかった記憶。
その白く細い片腕は、私の首をしめあげた。
黒いフードの隙間から、私をじっと見つめていたのは、真っ赤な瞳。
『さすがの僕も、ちょっとだけ可哀想だなって思ってるんだ』
不思議だった。
たしかにそう言われたはずなのに、それがどんな声色だったのか思い出せない。
男の人だったのか、女の人だったのか。それすらも。
『けど仕方ない。これも運命だ』
「――ッ」
歪んで白くなっていく視界。
その隅で、アテナ様とティナさんが地面に横たわっている。
――そんな記憶。
「――――」
全身が震えた。
恐ろしくなって私は自分の肩を抱きしめる。
夢の中なんかじゃない。
現実だ。
「ごめんなさい……」
…………私が弱かったから。
「ユノ……ッ ごめん」
………………その後は?
アテナ様は? ティナさんは?
…………ユノはどう思ったんだろう?
「…………だめだ、わたし」
力が欲しいと、私は願った。