113話 「爆ぜるもの」
――『刺突』
徒手で放たれたその一撃は武器でのそれを遥かに凌駕していた。
刃よりも鋭い指先と、瞬きの隙も与えない理不尽な速度。それが鉄をも貫く威力で放たれる。
しかし、その人外の一撃は――空を突いた。
手ごたえをまるで感じない指先。その隙間から霧散していく……黒い影。
「――チッ」
状況を正確に理解するよりも早く、ジースは一つ舌打ちをして背後へと視線を送った。
月の無い夜空。その暗闇で爛々と輝くジースの黄金の瞳。
その視線の先では黒い影と明滅を繰りかえす赤い光が、集うようにして大きさを増していく。
その小さな赤い光の一つ一つが瞳だと気がついたのは、それらが翼をもつ『何か』なのだと理解したのと同時だった。
「…………伝説通りとは芸がねぇ」
ため息交じりにそう呟きながら、ジースは自らの指先を眺めるように視線を落とした。
「…………」
――間違いなく直撃したはずの一撃。
事実、ジースの眼は自らの指先が吸血鬼――カミラに直撃する瞬間を確かにとらえていた。
しかし、結果としてそれは直撃していなかった、ということになる。
その矛盾は、手ごたえの無さが如実に示していた。
三度目。
これで三度目だ。
直撃必至の攻撃が、当たらない。
止められたのであれば理解はできる。
躱されたとしてもそうだ。
もちろん、理解の範疇であれば――の話だが。
躱すとは肉体での動作であり、間違っても蝙蝠に化けて消えることではない。
ジースは気だるそうに身体ごと背後へと振り返ると、眼光鋭く口を開いた。
「……おい吸血鬼。てめぇのそれは不死の類か?」
問いかけた先。
無数の赤い光が消え去ったのと同時、蠢いていた黒い影が形を成していく。
『絵本の読みすぎだな。吸血鬼は不死ではないぞ?』
闇夜に響く可憐な声。
カミラ・ルージュは暗闇に浮かび上がるようにして姿を現した。
「まぁ……お前相手では不死と変わりないがな」
カミラが言って涼しげな笑みを顔に浮かべたのと同時、ジースは口の端を吊り上げる。
「そうかよ。大した手品じゃねぇか……褒めてやればいいか? ……客は呼べるぜ」
カミラは赤い瞳を細めると、腕を組んで小さく鼻を鳴らした。
「ふん。手も足も出ぬくせに減らず口を」
ジースの笑みが深くなる。
「そりゃてめぇも一緒だろうが」
「……」
カミラは僅かに眉をひそめた。
口にした言葉に偽りはないつもりだ。
事実、ジースの攻撃は一度たりともカミラに届いてはいない。
一緒、とはつまり。
カミラは呆れた表情をして小さく肩をすくめてみせる。
腹を抱えて笑ってもいいほどだ。
攻撃をしていないことと、攻撃が当たらないことは=ではないのだから、と。
「一緒にするでないわ。我がその気であればお前など――」
――カミラはそこで言葉を止めた。
それは直感だ。
視界にある男の顔。その表情があまりにも自信に満ち溢れているようにみえて、カミラは違和感をつのらせた。
安い挑発と切り捨てることもできる。しかし、その自信――狂気的な笑みはカミラに危機感を抱かせるだけの何かがあった。
「…………」
「なんだよ? だんまりか?」
「……随分な自信だな」
「……ハッ」
ジースは最初に鼻を鳴らして、口許に獰猛な笑みを浮かべた。
「いや、別に自信なんかねぇぜ? ただよぉ、あまりにもてめぇが馬鹿正直に言うもんだから、つい楽しくなっちまった」
「……楽しい? 気でもふれたか?」
ジースの笑みは消えない。
「ばか、ちげーよ……自分で言ったんだろーが」
ジースの黄金の瞳が輝きを増していく。
それに比例するようにして、強まる風がカミラの黒い髪をなびかせた。
ジースは挑発的な視線をカミラへと向けて。
――「死ぬんだろ? てめぇ」
簡潔に、それだけ告げてジースは変わらず獰猛な笑みをその顔に浮かべている。
対してカミラが抱いたのは肩透かしにも似た強い失望感だった。
確かに不死では無いと伝えた。
今にして思えば、わざわざ教えてやる道理などないことは確かだ。
しかし、それだけだ。
「……呆れたな。まさか期待したのか? 不死ではないというそれだけで、我に勝てると? だとしたら浅慮が過ぎる。それで埋まる差ではないと知れ」
「違うぜ、吸血鬼」
「……」
「てめぇに勝てるだとか……先の話じゃねぇんだ。いや、まぁ、俺も教えてもらわなきゃ気づかったことだがよ……なぁ、そんな大層な差があるってんなら――」
刹那――ジースの姿が掻き消える。
しかし、その動きをカミラの目は捉えていた。
迫る指先。ジースの刺突。
もう何度目かになるそれを同じように回避しようとした瞬間、その声はカミラの耳に確かに届いた。
「――なんで避けんだよ」
「――――」
その一言が、カミラに小さな怒りと焦りを抱かせた。
一瞬の逡巡。
その隙をジースは逃さなかった。
風を裂くような音と同時、カミラの白い肌。その左頬に一筋の切り傷が生まれる。
突き出されたジースの右腕、その指先。首を斜めにして直撃を回避するカミラの姿。
時が止まったと錯覚させるほどの一瞬を終えて、赤い血しぶきが宙へと舞う。
「不安だったんだぜ? けど考えてみりゃ当たり前のことだ」
額がくっつきそうな程の距離で、ジースはカミラの赤い瞳をのぞき込んだ。
「こえーから避けんだよ。つまり俺の攻撃はてめーにとってちゃんと脅威だってことだろうが」
「……」
「違うかよ? 吸血鬼」
「……」
カミラは静かに瞳を閉じて、おもむろに傷を確かめるように自らの頬を指でなぞりあげる。
「……痛いか?」
ジースの軽薄な笑み。
しかし、それは次の瞬間、焦りの表情へと変化した。
積み重なった戦闘経験。
獣じみた直感。
どれを理由にしても、結果は奇跡と言うほかにない。
「――ッ」
突如として眼前で爆ぜた赤い光。
その直撃を奇跡的に回避してすぐ、猛烈な痛みと衝撃がジースの身を襲った。
まっすぐ吹き飛び小さくなっていくジースの姿を視界に入れながら、カミラは口許に鋭い犬歯を覗かせて優雅に笑う。
「ああ、痛いな。だから、だ。叶うならば痛みなど感じぬにこしたことはない。それが例え稚戯に等しい故のものであったとしても。お前もそうであろう? 半端者」
「くそがっ――ッ」
黄金の瞳。その視界。
小さくなっていく吸血鬼の姿。
カミラ周囲を、赤い光が舞っていた。
驚愕すべきはそれがまるで意思を持っているかのように発光し蠢いているという点だろう。
それがカミラ本人の頬から流れ出た血であろうことをジースは予測してみせる。
しかし、そこまでだ。
今、こうして吹き飛ばされている理由が分からない。
蹴りなのか、それとも――ジースの頭の中で予測がぐるぐると回る。
最中――。
「……ッ」
爆発音と同時、突風が未だ勢いを殺せず宙を舞うジースの背中を強く叩く。
月の無い夜空の下。
目にも止まらぬ速度で飛来し迫る無数の赤い閃光。
「――――」
言葉はない。
未だかつて感じたことのない危機感がジースの全身を奔る。
「もういいぜ。カミラ」
男の声が闇夜に響いた。
あけましておめでとうございます₍˄. .˄₎