111話 「鏡」
鼓膜を震わせる爆発音。
それから生まれた衝撃は空気を震わせ突風となり、ベルフェゴール、そしてロイドの髪を大きくなびかせた。
「……」
ベルフェゴールの視線が、その衝撃の源である背後の頭上へと向く。
その隙を見逃すロイドではない。
姿勢低く駆け出し一瞬で間合いをつめてみせると、対象が失った右腕――その側面へと体を捻るようにして斜め下から拳を放つ。
しかし、その攻撃――ロイドの左拳は吸い込まれるようにしてベルフェゴールの残った片腕、その手のひらへと吸い込まれた。
空気を震わせる衝撃音。
生まれるは突風。
両者の姿を掻き消すほどに天高く舞い上がる砂煙が、その衝撃の程を如実にあらわしていた。
「……」
時間の経過と共に砂煙がはれていく。
ロイドは未だ掴まれたままの己の拳に一度視線をやった後、変わらず背後の頭上へと視線をやったまま薄笑いをうかべるベルフェゴールの横顔を見て目を細めた。
無感情故の無感情。
それが今、ロイドが顔に浮かべているものだ。
隙を突いた自らの一撃を容易にあしらわれたにも関わらず、驚きや動揺の類を一切垣間見せないその表情に、ベルフェゴールは再び興味の対象を目の前の男へとうつす。
「大した奴だよ……お前。右腕を落とされたこともそうだが――」
ベルフェゴールは掴みとめたロイドの拳を強調するように視線をやって薄く笑みをたずさえた。
「――俺に攻撃を防がせる……それ自体が稀有な例だ。それに……」
ベルフェゴールの赤い瞳。その視線が再び空を向く。
「あいつもお前のお仲間なんだろ? カミラがやる気ってことは、つまりはそれに値するってことだ」
「…………カミラ」
小さく一言。
ロイドは確かめるように言って、口の端を吊り上げた。
「なるほど。人外であるとは予想していたが、あれがカミラ・ルージュか」
「……博識だな。だが、その割には大して驚いてないように見えるが?」
視線鋭くベルフェゴールの声色が低いものへと変化する。
対して、ロイドの反応は酷く軽薄なものだった。
まるで昨日あったことをそのまま語るような気楽さで。
「お前の言葉通りだ。納得はあっても驚きなど俺には無い。いいや……むしろ喜ばしいことだ」
「……と、言うと?」
ベルフェゴールは眉をひそめた。
カミラ・ルージュを知っている。つまりは彼女がどのような存在であるかを目の前の男は理解したはずなのだ。
人間にとって脅威の対象である吸血鬼。
事実、魔物の討伐をはじめとした役割を担っている冒険者ギルドではその脅威度は最上位のS級とされている。
ただの吸血鬼でそれなのだ。
そのうえで――ロイド・メルツは笑みを歪めてみせた。
「理解した気になっていたのか悪魔。そうなのだとしたらまだ浅い」
そう囁くように言って、ロイドは肉薄するようにその顔をベルフェゴールの眼前へと近づけて狂気的に笑う。
「これは御前試合にも似た神聖なものだ。あのお方に我らの力を示す絶好の場。相手が吸血鬼の真祖だった……なるほど確かに驚異的だ。だが同時にそうでなくてはいけないと……いいや、それでようやく最低限」
「……はは」
ベルフェゴールはたまらず乾いた笑い声をこぼした。
「やっぱお前、どっか壊れてるな」
――刹那。
はじき飛ばされるようにしてロイドの身が宙へと浮かぶ。
蹴りでも掌打でもない。
予備動作も無く放たれたベルフェゴールの覇気とも呼ぶべきもの。
それは魔力が瞬間的に、それも爆発的に体から放出されることによって起こる衝撃波だ。
当然、常人が真似しようとしてできるものではない。
超越存在。
大悪魔ベルフェゴールだからこそ可能な必中の奇跡。
しかし、ロイドはただ直撃を許したわけでは無かった。
瞬時に自らの意思で後方へと飛びあがり、迫るその魔力の塊を受け流そうと試みる。
しかし――
「……ッ」
衝撃を殺しきれずに着地して間もなく、足裏で二筋の線を地に描くように引きずることでようやっと勢いを殺しきる。
砂煙の中から浮かび上がるロイドの影。
十時に重ねられた両腕。
不意打ちとも呼ぶべきその衝撃を受け止めた代償が、赤い血となって肌を伝った。
そのロイドの様子を冷めた目で眺めながらベルフェゴールは言葉を続ける。
「……理解した気になっていた、か」
薄く笑うように言って、ベルフェゴールは肘から先の無い右腕をロイドへと向ける。
絶えず黒い地面に滴り落ちる赤い血。
それに吸いこまれるようにしてロイドの視線が向いた瞬間。
「……」
――なにも不思議なことではないとロイドは思った。
たとえ自らが切断したはずの右腕が、瞬時に再生していようとも。
それすらもどうでもいいことであったかのようにベルフェゴールは言う。
「たしかにそうかもな。だが、お前こそ理解するべきだ。まさか……俺がお前を殺すことはない、なんて甘い願望を抱いているわけじゃないだろうな」
「……」
「だとしたら見当違いだ。たしかに俺がこの場に来たのは試すためだ。覚悟を……そして願望を。つまり……お前の想像通りさ。俺が求めるのは殺し合いじゃない。だが――その対象は間違ってもお前ではない。いや、そんなこと分かってるはずだよな?」
「――……………………クク」
ベルフェゴールの問い。
対してロイドははじめに低く笑い声をこぼした。
「…………」
声なき感嘆。
それはロイドを見てベルフェゴールが抱いた確かな驚嘆の証。
ベルフェゴールの赤い瞳。その視線の先で黒い頭髪が風になびいた。
体から発する魔力。
それが風となってロイドを中心に広がっていく。
「悪魔風情が……試す、だと? まさか、ノア様に対して言っているわけでないだろうな」
「その通りだぜ? 俺がここにいるのは――」
「笑わせる」
「……」
突如ベルフェゴールの頬に一筋の切り傷が生まれる。
それを確かめるようにベルフェゴールは自らの頬に手をやった。
僅かに感じるどろりとした感触。確認するように視線を手のひらへと向ける。
指先についた赤い血液。
なぜ? という疑問は浮かばない。
その答えをベルフェゴールは知っている。
意趣返しだ。
先ほどベルフェゴールがロイドを吹き飛ばしたのと同じ理屈で生まれた傷であることをベルフェゴールは瞬時に理解する。
同時に、その芸当を可能にした怒り……その源に興味が湧いた。
いいや、正しくは『知りたくなった』という言葉が適当かもしれない。
目の前に現れた人間が凡人ではないことなど、ベルフェゴールは最初から理解している。
片腕を落として見せた技量も、魔力を飛ばし頬を裂いてみせた芸当も、そして何より自らの思惑、その内の一端であったとしても理解し、己が糧にしようとする常識はずれな度胸。
そのいずれにせよベルフェゴールが知的欲求を抱く理由に当てはまる。
しかし、同時にベルフェゴールの中で確かに募る疑問があった。
「……なぁ、聞かせてくれよ。その答え次第じゃお前も試してやったっていい」
「……」
ベルフェゴールの疑問は単純なものだ。
「なんでお前、あの邪神を狂信してやがる」
最初から抱いていた疑問ではあった。
しかし、思考を重ねる毎その可笑しさが際立ってくる。
邪神ノアが人間と契約したという話は聞いた覚えがない。
いいや、仮にそうであったとしても、その原点。理由が不明なのだ。
この世界の理を知っていればなおのこと。
「……女神アスタロトに弓を引き、そして英雄神の一柱であるマルファスを殺めた正真正銘の邪神……それがお前の崇める神だ。一体そこになんの利がある」
この世界の歪さをベルフェゴールは知っている。
だが、同時に理解もしているのだ。
形だけであったとしても、この世界は――正しく廻っている、と。
ベルフェゴールにとってはそれこそが苛立ちの原因であり、なにより退屈さを増長させる魔の病巣。しかし、それは大悪魔ベルフェゴールであればこそ抱く感情だ。少なくとも、ベルフェゴールはそう考えていた。
――だからこそ、その謎は暗く輝きを放つ。
「答えろ人間。お前……なぜ邪神ノアを崇める」
「……クク」
ロイドは薄く笑みを浮かべて、簡潔に口にした。
「――退屈だから」
ベルフェゴールは目を見開いた。
「……退屈だと? この正しくもある世界がか?」
「……正しい?」
ロイドは言って鼻で笑った。
「そんなことはどうでもいい。貴様の言う正しい世界の中で、あのお方……ノア様だけが異彩を放っている。絶対であるはずの英雄神に逆らう者、それがノア様だ。だが聞くがそれが間違っているなどと誰が決めた?」
ベルフェゴールは高ぶる興奮を努めて抑えて、肩をすくめてみせた。
酷い言葉遊びをしている気分に苛まれる。
しかし茶番に等しいソレは、確かにベルフェゴールの興味に火をつけた。
「神さ。この世界の神が決める。だから世界は奴を邪神と定めた」
「そうか。ならばやはり違うな」
ベルフェゴールはその一言一句を聞き逃すまいと目を細めた。
ロイドは瞳を輝かせて言う。
「神とは導いてこその存在であり、そこには絶対の共感がある。間違っても『絶対』そして『正しさ』の権化ではない。そうだろう? ベルフェゴール」
「……お前、俺の名を」
「俺は……いいや、ロイド・メルツは知っているのさ。神に等しい力を持つ貴様のことも、そして――」
ここでロイドは含みがあるように目を細めて見せた。
ハッタリである。
しかし、そこには確かに導き出したものもあった。
人知を超越した存在。しかし、神ではない。
ならばと真っ先に浮かんだのが悪魔であり、その中から可能性のある名を口にしたまでのこと。
事実、悪魔という存在の対しての知識をロイドは十分といえるほどに有していた。
「……信教とは自由であるべきだ……それを否定された瞬間に、俺にとっての神は死ぬ。そしてこの世界がそうだ。美しいと感じたから信じ、崇拝する。その輝きを否定できる者など存在しない」
「ははっ」
今度はベルフェゴールが鼻で笑ってみせた。
「なんだ、長々と口にしたかと思えば、自分が狂ってるって自己紹介か。気づいているか? 今、お前はこう言ったんだ。『俺と違う考えを持っている者は異端である』と」
「クク」
ロイドはほくそ笑んだ。
そして心底、軽蔑した表情をその顔に浮かべて嘲笑する。
「馬鹿か貴様は」
「……」
ロイドの一言にベルフェゴールははっきりとその苛立ちを表情に現した。
構わないとロイドは謳う。
「この世界が物語だとして――」
狂気的に、恍惚と。
本心であるからこそ嘘はなく、無我夢中であるからこそ笑みが零れる。
悪魔であるベルフェゴールからして、その笑みは、表情は――悪魔的なまでに狂っていた。
「――主人公は、己自身であるべきだ。そうだろう? でなければ、己すらも神の玩具と定めるに等しい愚行だ」
――「だから」
ロイドは振り返るように視線を背後へと向けた。
「俺が決めた。あの御方こそが神であると。俺にとっての絶対にもなり得ると。俺の頭で考え、俺の眼で見て定めた。それが異端であると言うならば受け入れよう。だが変わることは無い。そして、揺らぐことも」
「……」
はっきりとベルフェゴールは自覚した。
今、自分は気圧されている、と。
狂気的な矛盾か、はたまた言葉、その声色に。いいや正確には判断がつかないでいる。
しかし、確かに今、ベルフェゴールという存在は目の前の人間に圧倒されていた。
異常な存在だ。
なにがどう歪めば、この世界でここまでの自我が創造されるのか。
頭に浮かべた疑問の答え……その鍵を探ろうとするよりも先に。
「……ああそうだ。正しい世界だと貴様は言ったが、俺は疑問を唱えたい」
「……なに?」
「そうだな。せっかくの機会だ。貴様が消え去るその前に、聞いておくのも悪くない。大悪魔ベルフェゴール。一つ俺からも貴様に問いかけよう」
ロイドの鋭い視線が、ベルフェゴールを貫いた。
――「『ゼウス』を知っているか?」
「――ッ」
はっきりとした動揺をベルフェゴールがロイドに見せたのはこの時が初めてだった。
「やはり、な」
ロイドは確信に至った。
大悪魔ベルフェゴールは『ゼウス』を知っている、と。
「……」
静かに、ゆっくりとベルフェゴールは手のひらを口許にあてて冷や汗を額に浮かべた。
動揺。それから衝撃と驚愕。
それらを煮詰めた感情で、ベルフェゴールは思考を重ねる。
「……まさか……お前も? ……バカな……二人目だと? いいや、保険と考えるのが道理か……しかし、なぜ…………」
大きな驚愕。その理由の一つは自らの予想が異なっていたという点だった。
たしかに、本当にそうなのだとしたらベルフェゴールはロイドの言う『馬鹿』に値する。
しかし、違和感が募った。
確かに異常ではある。
だが、そうであるならばロイド・メルツの行動、そしてその芯があまりにも歪すぎるとベルフェゴールは感じていた。
なぜ、ロイド・メルツは野良神ではなく、同一存在であろうノアを主と見定めたのか。
「――!」
その閃きは、ベルフェゴールの中で核心に迫るものだった。
「……ロイド・メルツ……そうか…………記す者……お前、メルツ家か」
「……?」
「なるほど……なるほどな。歪むわけだ」
ロイドはそのベルフェゴールの様子に確かな違和感を覚えていた。
しかし、その理由、回答に至る材料が少なすぎる――そう考えて。
「貴様、なにを知っている?」
ロイドは覚えた疑問そのまま口にする。
ベルフェゴールは簡潔に言った。
「お前……その眼で奇跡を見たな?」
「……」
ロイドが浮かべたのは無表情だ。
しかし、その仮面は見破られる。
「やはりか」
ベルフェゴールはロイドとは対照的に愉快そうに言葉を続けた。
「大したものだ……そうか……人の身で至ったか。であれば一応の納得はある。忠義者よな」
「……俺の問いに答えろ」
「ああ、いいぜ。だが、俺の質問が先だ」
言って軽薄そうに笑った後、ベルフェゴールは目を細めると凶悪な殺気をロイドへと向けた。
「お前、言っていたな。『貴様が消え去る前に』とかなんとか。……おいおい、聞き間違いか? まるで俺がお前に敗北するような言い草だ」
「……なんだ、そんなことか」
ロイドは強張っていた表情を一変させ、口の端をつりあげた。
「言葉の通りだベルフェゴール。確かにまだノア様より寵愛をうけていない身ではお前には届かない。だが…………勝機はある」
「へぇ? どこにあるって?」
「貴様の配下はジースが足止めしている。それが条件の一つ。そしてもう一つ、この場にはノア様の他にも女神が存在している。故に場は整った」
ベルフェゴールは眉をひそめた。
「分からないな。力の無い女神が一柱いたところで、状況は変わらない」
「クク……貴様は知らないのさ」
「……」
「我が同胞にして、特異点。そしてノア様に捧げる最上級になり得る供物。その者が到着すれば、状況は変わる。一人では敵わずとも……二人でならば」
「……へぇ。お前みたいなのが他にもいると?」
「いるさ。両の手を指折り数えるほどには……その中でもそいつは暗部『影の月』最強を冠する者」
「……そいつの名は?」
ロイドは暗い笑みを浮かべると、自信を滲ませる声色で言い放った。
「その名は――」