108話 「集結・Ⅱ」
――なんだ、この状況?
冷や汗がゆっくりと頬を伝って、流れて………落ちる。
「……」
足元。
瞬く間に灰色の地面に吸い込まれていく僕の汗。
その黒く滲んでいく点をじっと眺めながら、再び僕は思った。
なんだ、この状況?
ゴゴゴ、と鳴り響く地鳴り。
自分の体重が何倍にも膨れ上がったと錯覚しそうになる重圧
冷静に状況を整理しようとフル回転する頭。
しかし、その回答を導き出すよりも先に、僕の本能は無意識的に石のように固まった体を動かしていた。
ざくり。
足裏から伝ってくる地面の感触。
鼓膜が拾ったその足音は、紛れもなく僕自らが発した音だ。
後退、逃走、後ずさり。
言い方はなんだっていい。
大切なのは一つだけ。
迫る危機に対して、僕は正直だったってことなのだろう。
「……っ」
緊張で乾いた喉を鳴らしながら、再びおそるおそる顔を上げてみる。
視線の先にあるのは血のように赤く輝く二つの赤い瞳。
それが僕の方を向いたまま、動かない。
金色の髪。
貴族然とした黒を基調とした身なり。
薄く笑みを浮かべた顔。あまりにも整いすぎているその男の容姿に、僕の危機感は強まっていく。
マルファスとの戦闘。その終結から間もなく現れた乱入者。
流れとして考えるならば、新たな敵と見定めるのが自然だろう。
神殺し……さっき僕が成したことを考えれば、この状況は決して不自然なんかじゃない。
刺客、暗殺。なんだってあり得るはずだ
――そう。
ここまではあいつがこの場に現れたその瞬間に理解できている。
だから考えなければいけないのは、この膠着状態についてだ。
……なぜ、動かない?
敵意は……あるように思う。
場に満ち満ちる、破滅を予感させる膨大な魔力量からして友好的だと判断する方が難しい。
しかし、状況が僕のそんな考えを否定する。
仮に不意打ちでもされていれば、対処できた自信はない、というのが一つ。
そして、隙を伺っているにしてもあまりにも不自然な間。
僕を始末したいのであればこの時間は、不要なはずだ。
事実――僕はその僅かな間で冷静さを取り戻しかけている。
「……」
緊張で強張っていた両手に拳をつくる。
マルファスとの戦闘での疲労は無いに等しい。つまり僕自身は問題なく動けるということだ。
問題は……やはりあいつ自身に依存する。
マルファスとは比べるまでも無く強大な力を秘めているのは間違いない。
それこそ、アスタロトに匹敵……いいや、もしかするとそれ以上の可能性だって考えられる。
そんなデタラメなやつとこの場で敵対するということ。……戦うということ。
最大の問題は。
「…………神様……ティナ」
誰にも悟られないように、ちらりと背後を確認する。
僕の視線の先では、崩れた外壁からこちらを覗く神様とティナがいた。
寄り添うようにして並ぶ二人の姿。
顔を真っ青にしながら寄り添って震えるその姿を見て、僕はこの状況の危うさを再認識させられる。
……無理もない。
これほどの魔力の濃さだ。冷静でいられるほうがどうかしている。
だから、早くなんとかしないといけないのに――。
『――フッ』
瞬間、小さく鼻で笑うその声を聞いて、僕の目はその男の顔に吸い込まれていった。
軽薄な、笑み。
男は肩をすくめて口を開く。
「……つくづく面白い奴だよ、お前は。……ところで一つ聞かせてくれ」
男は赤い瞳を細めて――僕を見た。
「なぜ、退いた?」
小さく開かれた口から放たれたその言葉は酷く簡潔なものだった。
「……」
静寂が訪れる。
質問の意味は分かる。あいつから感じる重圧に、僕が一歩後ろに後退したことを言っているのだろう。
怖かったから? 危険を感じたから?
どう答えてやったっていい。
けれど、それを答えてどうなるというのだろう。
僕のそんな考えを見透かすようにして、男は続ける。
「……分からないか? じゃ、もっと分かりやすく言ってやる」
「……」
「なぜ、俺を危険だと判断した? …………いや、まぁ、質問ってよりは、確認の話になるか」
男は笑うようにそう言って、小さく肩をすくめてみせた。
「ああ、たしかに。お察しのとおり俺は強いぜ? それこそお前がさっき一瞬で消し去った奴とはわけが違う。だが――」
僕を覗く鋭い視線
挑発と敵意。
「お前ならば、対処可能なはずだ。……そうだろ? 邪神ノア。勝てる勝てないの話ではなく、少なくとも伍することはできると判断できたはずだ」
「……」
「そのはずなのに……」
ニヤリと男は口角を吊り上げる。
「……お前は怖気づいた。敵である可能性が高い相手を前に、自ら一歩後退してみせたわけだ。不思議だな。少なくとも俺はわざわざ弱みを見せる、なんて判断はしない。お前ほどの力を持っていればなおさらだ」
「……」
……なにが言いたいんだ、コイツは。
振り返って考えてみても、身に危険を感じたのは紛れもない事実。
情けないとしても僕の行動に不自然な点はないはずだ。
それに――。
「……突然のことだったから混乱した、か? 反射的に下がってみせたと? フフッ。違うな。本当はそうじゃない。俺は確信できるのさ。………………無意識に、か? なるほど。これは、どっちだろうな。そういう仕組みか?……それとも」
ぶつぶつと意味の分からないことを最後に小さく口にして、男は見透かしたかのように笑って言った。
「お前は、俺を恐れたんじゃない。俺と戦うことによって訪れる最悪を恐れたのさ」
「……」
……。
ようやく僕は男の言いたいことを理解する。
否定は、できない。
けれどそれは、僕の中では冷静になったうえで、最終的に思い至った可能性だ。
「その不安は正しいものだぜ? 邪神ノア。俺とお前がこの場で本気でやりあった場合、お姫様の安全は保障しかねる」
男の視線が、僕の背後へと向けられる。
瞬間、二つの声にならない小さな悲鳴が僕の鼓膜を叩いた。
「……貴様」
明確な敵意と怒りを乗せて、僕は男を睨みつける。
しかし、男は涼し気な顔で、なおも言葉を続けた。
「己よりも優先するものがある。お優しいことだな。たしかに……たしかにそうだな。自分の大切なものが害される可能性に恐怖する……それは、とても……とても自然なもので、当たり前のことだ。……人間らしいともいえる」
「……」
その言葉にはたしかに温かな響きがあった。
それこそ、一瞬、怒りも焦りも忘れ、敵ではないかもしれない……なんて思ってしまうほどには。
「だが――」
同時。
今までの比ではない重圧が僕の身にのしかかる。
呼吸すらも、ままならないほどの――凶悪で膨大な魔力がやつの身を中心に広がっていった。
凍りついたように冷たくなっていく空気。
夜空に浮かんでいた白銀の月が、厚い雲に覆われていく。
訪れた暗闇。
強烈な突風が、僕を襲う。
「気づかせてやろうか? 邪神ノア。お前の人間らしさは矛盾している」
言葉は止まらない。
「その姿もそうだ。演じている気になっている。自分の力が異常なものだと理解したうえで、だ。なにも失わずに何かを得る。それはたしかに素晴らしいことだが、同時に甘さでもある。……この際はっきり言ってやったほうがいいのかもな? お前という存在を。その意義を。……いや、悩むぜ? 本当に。いま考えてみるとマルファスのやつは確かに非力だったが、考える頭は持っていたらしい。賢明なことだぜ。たしかに、たしかにな。自覚させてどう転ぶか……この俺にも見通せない」
言葉を重ねるごとに興奮を増していく男の様子に、僕は困惑と共に、確かな恐怖を感じていた。
まるで意味を理解できない言葉の一つ一つが、なぜだか不思議と恐ろしい。
いいや、理解できないからこそ、か。
「だが、中途半端……そいつが一番いただけない。年相応の幼さ。その弱さは俺にとっては好ましいが、それではダメだ。この先は歩けない――故に」
男の深紅の瞳が、輝きを増していく。
「その天秤、一度ここで傾けてみせようか」 『このバカーッ』
「……ッ」
一瞬、少女のような叫び声が聞こえたような気がしたが、今はそれについて考えている余裕はない。
……戦闘になる。それも、恐らく死闘になるだろう。
奴の言葉のほとんどは、呪文めいた理解不能なものだったが、その中に確かなこともある。
自信が無かった。
神様たちを巻き込まずに、あいつとやりあう自信が。
己よりも優先すべきものが確かに僕には存在するのだ。
「それも一つだぜ? 人間らしい……誰かを思いやる純粋な気持ち。俺は正直者だからな。はっきりと言ってやる。好みだぜ? そういうの。だが、お前は自覚するべきだ。この俺を前にしてもなお、誰かを思いやれる余裕こそが既に……人間の理の外だってことに」
「……ごちゃごちゃと、よく回る口だな」
空を見上げる。
月のない夜空。
代わりに赤く輝きを放つ、二つの赤い瞳。
…………。
あいつがこの場にいる限り、神様の笑顔は戻らない。
どんな理由であいつが僕の前に現れたのか、とか。目的はなんなのか、とか。
「そんなの」
どうでも、いいことだ。
奴の言う通りだ。
勝てる、勝てないかは別にして。
僕は、あいつに、届き得るのだから。
膨れ上がっていく、緊張感。
自然に笑みが漏れだすのを自覚した。
僕は決めた。
神様たちを巻き込まないように、あいつをぶっ飛ばしてみせる。
そう覚悟を決めて、地を蹴り上げようとした――瞬間。
突風が僕の頬を叩いた。
――「ご安心を」
聞き覚えのある声と共に、突如として僕の前へと躍り出た人影。
背中越しに、自信満々な表情をして僕へと視線を向ける全身黒ずくめの男。
吹く風に黒い髪をなびかせながら――ロイド・メルツはニヒルな笑みを浮かべて。
「露払いは私にお任せください。我が神よ」
そんなことを言って、悠々と前へと歩き出すロイド先輩。
遠ざかっていく凛々しくもあるその背中を眺めながら、僕はふつーに小声で言った。
「どーゆー状況?」
こんばんは。猫夜叉でございます。
第四章開幕でございます!
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