105話 「月光 -Ⅲ-」
月の光。
それらに照らされた街並みを見下ろすようにして、神獣――ポチは空中で静かに足を止めた。
「……あそこじゃ」
ポチは爛々と輝く黄金の瞳を細めると、僕を導くようにして鼻先を下へと向けた。
「……」
追うようにして、僕は見下ろす。
「…………ここは」
――街……?
たしかに、視界いっぱいに広がるそれは街、とも言えた。
月夜の下で居並ぶ建造物。
それらを見て、少しだけ異様に感じたのは恐らく気のせいではないのだろう。
所々が崩れ、欠け、それでも形だけは成している、といった風で。
古めかしくもどこか荘厳さを感じさせるそれらは、街というよりは遺跡、と言った方が正しいのかもしれない。
その中でも、ひときわ目立って僕の目に映ったのは、周囲の建造物よりも大きく、そしてより異質さを感じさせる神殿のような建造物。
そこにある装飾のような柱をひとつひとつ、数えるように視線を移しながら。
「…………あそこに神様が?」
なんとかそう口にした。
焦燥感と共に胸いっぱいに広がるどす黒い感情。
今すぐにでも飛び出していきそうな自分の体を必死に理性で押しとどめて、僕はポチの返答を静かに待つ。
月のような黄金の瞳が、振り返るようにして僕を向いた。
ポチは僕の顔をじっと見つめながら、鋭い犬歯をちらりと覗かせて。
「………………恐らくは、じゃが」
……――――。
僕は深く息を吐き出して、ポチの背に立つ。
それから月明りを頼りに、じっとその神殿を見下ろした。
風が僕の前髪を揺らす。
少し肌寒くも感じるそれは、熱を帯びた身体には心地良かった。
「…………」
本当に静かな夜だ。
活気はおろか、生命の息吹の一切を感じない。
あるのは月の光に優しく照らされて、形を成している芸術品のような街並みと、それが良く似合う静けさだけ。
この静寂を、僕は今から終わらせる。
「……」
スキル――変態。
神獣ポチから授かったその力を、僕は解放した。
過去、とっさに創り上げたその姿を頭の中で強く思い浮かべる。
次第に高くなっていく視界。
視界の端でちらついていた黒い髪が、白銀に変化していくのが分かる。
「…………」
そんな僕を、ポチがじっと見つめていることに気が付いた。
空に浮かぶ月と同じくらい美しい黄金の瞳。
――『今なら、普通に生きていけるのじゃぞ』
ふと、浮かぶようにして、そんなポチの言葉が頭の中で再生された。
「……普通」
……普通、か。
ポチの言いたいことは分かるのだ。
僕がこれからしようとしていること。それを考えれば、容易に想像がつく。
後戻りできない選択。
その結果何がおきるかなんて、正直僕にはまだ想像がつかないでいる。
けれど、僕は思うのだ。
たぶん、ポチの言う普通ってやつを選択したその時に、僕は失ってしまうのだろう。
初めてできた人生の目標も、守りたい笑顔も、すべて。
「……」
そんなこと、僕には到底許容できない。
今ここで動かないと……何のための力なのか……。
…………。
「……ユノ、おぬし」
ポチが少しだけ驚いた様子で、その黄金の瞳を見開いた。
理由は分かる。
たぶん自嘲めいたそれが、僕の表情に現れたのだろう。
…………最初から選択肢になってないことに気が付いたのだ。
だってそうだろ。僕は生まれたその時から――。
「…………」
僕は、ポチの瞳をじっと見つめ返して――。
――「行ってきます」
僕は背中に生まれた白い翼を広げて、ポチの背から飛び降りた。
風を切る音が、絶えず僕の鼓膜を叩く。
「……」
そうして近づくにつれて、理解し、確信に至る。
落下に伴って大きくなっていく神殿。その周囲に張り巡らされた結界とも呼ぶべき高度な魔法。
それがどのような効果をもつかは正確には分からないけれど。
恐らく神獣ポチの案内が無ければ僕はここに辿りつくことはできなかったのかもしれない。
ただ、そんなことは、もはやどうでもいいことで。
「……」
少し先の未来を想像した。
この結界をぶち破って、神様とティナの元へとたどり着いたあとのこと。
女神アテナの力は確かにまだ僕の中にある。
だから――きっと、大丈夫。
なんて。
そんな都合のいい願望を抱きながら、僕は右腕を頭の先……地面の方向へと突き出した。
「……ッ」
衝撃が右腕を伝う。
結界と衝突したのだと分かった。
けれど、それもほんの一瞬の出来事で。
ガラスが弾けるような音を耳に入れながら、僕はそのまま神殿の屋根を突き破った。
鼓膜が吹き飛ぶような衝突音。
ほこりくさい土煙が僕の視界を覆う。
その隙間から見えた光景は、僕の理性を吹き飛ばすには十分だった。
「――――」
ゆっくりと流れる時間の中で、僕が見たもの。
美しい女神アテナの髪を乱暴に掴む男の姿。
それを止めようと必死に男の腕に歯を立てる血だらけの女の子――ティナの姿。
痛みに歪む、神様の表情。
するべきことなど明白で。
不埒にも女神に手をかけんとする男の腕を手刀の要領で切り飛ばしてすぐ、神様の身を安全な場所へと運ぶ。
追撃。
きょとんと、目をまん丸にした神様の表情に後ろ髪を引かれながら、マルファスを否応なく消し飛ばそうと決意し、拳を固めた所で。
「……」
僕は、力なく後ろに倒れこむ小さな肩を、抱き留めた。
「がぁぁッ!」
響き渡る鬱陶しい苦悶の声。
そして、朦朧とした様子で浅く呼吸を繰り返すティナ。
腕の中の小さな肩が震える度に、僕は、自分が間に合わなかったのだと理解した。
こみあげてきたのは、怒り……それから、情けなさだ。
「くッ……」
失った片腕……その痛みを堪えるように唸り声をあげながらうずくまる男の姿。
困惑と、恐れ。それから……なんだろうか。
あいつが今何を考えているかなど、どうだっていいか。
目的も、理由も。今となっては、些細なことだ。
マルファス。
過去、悪魔との戦争で世界を救ってみせた英雄神の一柱。
あんなやつでも、この世界では神なのだという。
「ッ……」
痛みに震え、膝をついたまま僕を睨みつけるその姿はもはや滑稽ですらあった。
僕は知っている。
おまえ、その程度じゃ消えないんだろ?
片腕の一本くらいで、わめくなよ。
「ッ、アテナ、さま!」
苦しそうな声色で神様の名を叫びながらティナは小さな体を精一杯に震わせる。
僕の腕を押しのけようとする小さな手。
その弱々しい握力を感じて、僕は涙がでそうになった。
軽傷なんかじゃ決してない。
一目見ただけで、それらがとてつもない痛みを伴う傷であることが分かる。
額から絶えず流れおちる赤い血。
力の入っていない、痛々しい細い腕。
僕がここに来るまでに、何が起こっていたのかを推測するには十分だった。
――『ごめん、ティナ』
そう心の中で呟いて、僕はティナをなるべく優しく横から抱き上げる。
「ちょ、ちょっと……! はな……、ッ!」
苦し気な吐息交じりの抗議の声。
それは僕が後ろへと振り返った瞬間にピタリと止んだ。
小さな口をあけたまま、まんまるの目で僕ら……、いいやティナを見つめる神様の顔。
その赤い瞳から大粒の涙が溢れ出すと同時に、同じように目に涙を貯めて腕から飛び出していこうとするティナ。
こういう時ばかりは、今、自分がユノ・アスタリオではないことがもどかしい。
けれど、僕がこれからすることを考えれば。
「――動くな」
「ッ……」
傷がこれ以上悪化しないようにと思って口にしたその言葉は、僕の想像以上に低い声色で放たれた。
マルファスに。そして自分自身に対する怒り。
それはもう隠しきることができない程に、僕の中で膨れ上がっていたのだ。
……でも、これでいい。
今の僕は、英雄神に仇をなす存在。邪神……ノアなのだから。
「…………」
腕の中で静かになったティナを抱えて、僕は神様の元へと足を進める。
コツコツとなる足音が響くたび、僕の目はより鮮明に神様の姿を捉えていった。
乱れて傷んだ白銀の髪。
白い肌には、赤くはしる無数の傷。
そして可愛らしい小さな鼻から、溢れて流れ出す、赤い血。
「……ッ」
「……? あなたはあの時の」
赤い瞳が僕をじっと見つめている。
身体が震えだしたのを自覚した。頭の中がだんだんと真っ白になっていく感覚。
それでも女神アテナの顔にある赤だけは鮮明に、脳裏に焼き付いていて。
「……」
僕は、神様に背中を向けて歩き始める。
これ以上、痛々しい神様の姿を僕は直視することができなかった。
「……――」
両の手を強く握りしめる。
視線の先には、アイツが。
――敵がいる。
「…………」
うずくまっていたマルファスが、僕を睨んだままフラフラとその場で立ち上がる。
片腕を失ってなお、その瞳にはまだいくばくかの余裕が見え隠れしていた。
怒りが、こみあげていく。
そして僕は見た。
マルファスの顔に浮かんだ、その笑みを。
「――――」
衝動。
その薄気味悪い笑みを見た瞬間に、僕の体は動き出していた。
固めた拳がマルファスの腹部に炸裂してすぐ、吹き飛んで小さくなっていくマルファスの姿。
粉塵を巻き上げて、崩れていく壁の穴から月の光が差し込んでくる。
「……」
さて、どうやって消してやろうか。
そんなことを考えながら、マルファスを追う。
僕がすること。
成そうとしていること。
この世界の英雄神を、殺すということ。
それも、たぶん、僕だけの感情で、だ。
誰かがそうしろと言ったわけじゃない。
僕自身で、そうすると決めたんだ。
「…………」
――神殺し。
ユノ・アスタリオのままであれば、躊躇すべきことだろう。
姉上、ルナ。そして当然神様にも迷惑がかかってしまう。
けれど、今の僕はユノじゃない。
邪神ノアだ。
アイツらを消し飛ばして、女神アテナが君臨するにふさわしい世界を、この手で創り上げてみせる。
そんな僕の願いが形にしたこの姿なら、一切の躊躇いなく、アイツを消せる。
「ふふ……」
たぶん、この時僕はふっきれたのだ。
気が高揚しているのが分かる。
さっきまであんなに苦しかったのに、今、僕の胸の内を満たしているのは果てしない満足感だった。
神様に血を流させた罪。その清算を。
いいや、神様だけじゃない。アリスを……そしてティナを傷つけた罪。
それだけでいいんだ。
それだけで僕は、神だって殺してみせる。
「……ああ」
夜空に浮かぶ美しい月を仰ぎ見る。
美しい。
綺麗だ。今夜こそ相応しい。
ようやっとだ。
ようやっと僕の役目が果たせる。そんな気がした。
アスタロトと相対した時から燻っていた何かが、僕の中で消えていく
生まれてからずっと無気力で、目標がなくて。
なんの為に僕は生まれたのだろうと苦悩して。
神様に出会って、人生で初めて目標ができた。
そんな神様の願い。
神獣……ポチをなんとかして助けようと考えて。間違っていることを捻じ曲げるためには力が必要で。そうして手に入れた邪神ノアという存在。
それが今、より明確な意味を持って、運命の時を迎えようとしている。
自惚れてもいいだろうか。
天才か? 僕。
これからしようとしていることは、言ってしまえば反逆だ。
愚行とすら言えるのかもしれない。
けれど、僕は……いいや、俺は――。
「――迷わない。オマエを消すのが、俺の役目だから」
誓いだった。
生まれてきた意味。
それをようやっと、はっきりと見つけた気がした。
けれど、本質は最初からなにも変わってはいないのだ。
女神アテナに相応しい世界。
その世界の為に――
「――お前は邪魔だ」
瞬間、突風が吹く。
「豁サ縺ュ豁サはッ豁サ縺ュ豁サ縺ュ豁サ縺ュ豁サ縺ュ豁サ縺ュ」
耳障りな笑い声。
場に満ちていく、黒い魔力。
マルファスはゆらりとその場に立ち上がってみせると、その体を黒く変色させていった。
見かけだけは貴族然として整っていた容姿。
それが次第に、酷く無様に肥大し、やがて大きな鳥のような姿に変貌を遂げた。
僕とは対照的に、黒い大きな翼を広げて、マルファスは言う。
「何者ダ……キサマ」
酷くしわがれた声だった。
赤く変色した二つの瞳が、月夜の下で怪しく光りを放つ。
「……」
名乗ることぐらいはしてやってもいいのかもしれない。
けれど。
「知ってイルカ? 私の名はマル――」
瞬間、マルファスの黒い片翼がはじけ飛ぶ。
もちろん、僕がやった。
魔力を固めて、放っただけの簡単な攻撃だ。
「……?」
パラパラと砂のように崩れていく自らの翼に目をやるマルファス。
僕は言った。
「黙ってろ。すぐ消してやるから」
会話など不要だった。
女神アテナに血を流させた超本人。
野良神の誘拐。そして恐らくは――。
心地よい満足感を上回る怒りが全身を駆けていく。
「……ッ!」
追撃しようと、一歩足を前に進めた瞬間、残った片翼を大きくはばたかせてマルファスは夜空へと飛び上がる。
当然、それを許す僕じゃない。
同じように飛び上がって、背後からマルファスを地面へと蹴りおとした。
衝突音。
遅れて砂煙が、夜空へと舞い上がる。
「……」
潰れるようにして巨体を地に伏したまま動かないマルファスの姿を見て、僕は終わりの時を予感した。
なんだ。やっぱりこんなもんか。
「……」
あっけないものだな、なんて思うけれど。
マルファスには、神らしいとも言える厄介さがあることは知っている。
人知を超えた再生能力。
片腕を落としても。
身体を半分にしても、死ぬことのない存在。
そんな奴を、殺す方法があるとするならば。
「…………」
ふと、視線を感じて僕は目をこらした。
崩れて穴の開いた神殿の外壁。そこから恐る恐るといった様子でこちらを見つめる少女。
僕がここに来るまで、神様を守った英雄ティナ・バレットの淡い赤色の瞳。
「……」
始めは少しの好奇心。
けれど、相応しいとも思ったから。
僕は瞳を閉じる。
思い浮かべたのは、ティナの得意技。
使い手の少ない、廃れつつある雷属性の魔法。
右腕に力を込める。
次第に固めた拳を覆うようにして、魔力が弾け、バチバチと音をたてていった。
「……」
……なぜだろう。
初めて使う技だけど、不思議と体によく馴染む。
奴を……マルファスを消滅させる一撃。
ティナ・バレットの必殺技。
その名は――
「――雷の一閃」
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全身にはしる痛みを超越した衝撃をマルファスは抱いていた。
「……ッ……ッ」
恐怖で固まる全身。その首をぎこちなく動かしてマルファスは空に浮かぶソレへと視線をやる。
氷を連想させる冷たい瞳。
その青色が、じっとマルファスを見つめている。
「……アリエナイ」
手を抜いた覚えは、マルファスには無い。
既に対象を敵と見定め、己を縛っていた鎖を解き放った末のことだ。
みっともなくも地面に伏す己の惨状。
その屈辱と驚きは、冷静を常とするマルファスであっても未だに受け止めきれないでいた。
そしてなによりも、マルファスを恐怖させたのは、なにも今現在のことだけではない。
遠くない記憶の中にその恐怖は刻まれている。
――既視感。
抱いた興味。その正体。
小さな違和感。
生まれた疑問。
そうしてたどり着いた一つの答え。
だがしかし、それを正解とするには、あまりにも材料が足りなくて。
しかし、それでも。
「…………マサカ」
マルファスは聡明な神だった。
それは己こそが頂点だと自負する同族――他の神々ですら認めるほどに。
そしてそのことを誰よりもマルファス自身が誇りとしている。
だから、信じることができた。
ただ、重なって見えたという、それだけの材料で。
マルファスは最後に正解を導き出したのだ。
「――ユノ・アスタ……」
マルファスの視界が白一色染まる。
痛みすら感じる暇はなく、消えていく己の体。
そのさなか、マルファスは確かに耳にした。
――「正解だ」