103話 「月光 -Ⅱ-」
「たすけ、て」
ティナ・バレットの口から弱々しくこぼれおちた祈り――その言葉はただただ虚しく、暗がりに小さく響いて消えていった。
訪れたのは静寂。
「……ふふ」
否――その祈りに応えるようにして、軽薄な笑い声が空間を塗りつぶすようにして木霊した。
マルファスは背中越しにティナへと視線を送って得意げに口の端を吊り上げる。
ティナへと向くその赤い瞳に、ある種の憐憫すらもにじませて。
(こないさ。誰も。誰一人として)
不運な小娘。
それがマルファスのティナへの感想だ。
この場においてマルファス以外は知る由もないことだが、この地、この場所は魔法防壁に近しいある種のスキル・仕組みにより、外部からのあらゆる干渉を受け付けない創りになっている。
故に、巻き込まれた形になったティナ・バレットは不運としか言いようがない。
助けなどくるはずがないのだから。
無論例外はあるが、それはマルファスにとって問題にはなりえないものだ。
この場へと辿りつく方法。
それは唯一、同族のみが認知を可能にするものであり、つまりは――
(ユノ・アスタリオでは、たどり着けない)
己を一度追い詰めてみせたユノ・アスタリオという存在。
それを軽んじるマルファスでは無い。当然策は練っていた。
それが同族しか認知しえないこの仄暗い牢獄であり、それを囲む朽ちた神殿都市そのものだった。
もちろん、この場を整えたのはマルファスだけではない。実際、人間の寄り付かない都合の良いこの場を提供したのはアスタロトだ。
しかしそれまでの多くの部分をマルファスが担ったのは事実であり、そしてこの先もそうでなければいけない――とマルファスは強く思う。
なぜなら、それが契約の一部であるからだ。
対価――アスタロトが担ったのは女神アテナの誘拐。
それは既に履行されている。
ならば己も守らなければいけない、と思うのは必然だ。
アスタロトが提示した唯一の条件、決まり事。
それは、この一連の事象にアスタロトが関与していないと認める――などという簡単な約束事を守るだけでいいのだから。
アスタロトの提示したそれはマルファスにとっては甘言に等しいものだった。
拒否などするはずがない。
――どのみち自分一人でも、やるはずだったのだから、
(分からないのは、なぜアスタロト様はこの娘まで連れ去ってきたのか、という点だが)
赤い瞳を細めて、今一度確かめるようにマルファスは傷だらけのティナ・バレットへと視線を送る。
「…………」
額から流れ落ちる赤い血と、ひび割れた壁に背中をつけながら朦朧とした瞳で己を覗くその姿は、なんら変わらないただのか弱い人間の姿。そのものだ。
(忌々しい雷使いという以外は特に戦闘力に秀でている訳でもない……ならば、バレット公爵家の娘という点になにか……)
少しの間、もう何度目かの思考に耽る己を自覚して、マルファスはひとりでに首を小さく振ってみせた。
(だからといって、私にとっては少々面倒だという以外に不都合はない。つまり)
「問題にはなり得ない」
マルファスにとって重要なのは一つだけ。
(誰に邪魔されることもなく、私は真実を掴みとり、そして――)
マルファスは女神アテナへと再び視線を移す。
瞳を閉じたまま、まるで眠っているかのように穏やかな顔が、目の前にあった。
先にティナへも語った胸の内。
美しい――その言葉に偽りはない。
これでこそ女神であると、囚われの身でありながら誇示しつつける神聖の塊が、己の手の届く場所で無防備をさらしているのだ。
「……ふふ」
マルファスの顔に、狂気の笑みが灯る。
野良神の存在。そこに誰よりも早く着目し追求してみせた自分という存在。
そして、自らの推測が正しかったという絶対的な自信。それを背負い過去、届くことのなかった存在に自らが終止符をうってみせる、という現実に。
「ふふ……ははッ」
――興奮しない訳がない。
マルファスは言葉にしてみせた。
眠ったままの赤子に、優しく語りかけるように。
「女神アテナよ……滑稽だな。みっともなく生きあがいた結果がこれとは……ふふ……同情すら、してやってもいい」
色とりどりの宝石がはめられたマルファスの指が、女神アテナの白銀の前髪を優しく撫で上げる。
「……私の考えは変わっていないさ。今も昔も、素直に美しいと私は思う。…………ああ。そういえば直接貴様に言ってやったのは初めてだったかな?」
マルファスの告白に返ってくる言葉はない。
唯一、その後姿を視界に入れながらマルファスの奇怪な言葉を耳に入れていたティナだけが、あまりの不気味さに小さく息を飲んでいた。
「けれど、私の記憶違いか? 今のお前は……あまりにも幼くみえる。まるで赤子のようだ。昔はもっと……もっと――」
「…………ッ」
それは勘、としか言いようが無かった。
全身にはしる痛みを、必死に堪えながらティナはその場にふらつきながら立ち上がってみせる。
額からしたたり落ちる血の音がはっきりと聴こえてきそうな静けさの中、マルファスを中心に広がり満ちていくあまりにも凶暴な魔力。
「…………」
これから何が起きるのかはティナには分からない。
しかし、確かなことがある。
「……アテ、ナ、さま」
自らの死を、より明確に悟りながらも女神アテナの危機を察知する。
ティナは、立ち上がる時に握りしめた瓦礫の破片を、痛い程に右手に握りしめて――。
ティナの視界の中でマルファスの肩が小さく震えた。
反芻したのは、マルファスの声。
もっと……もっと――。
「凛々しく気高かったはずなのに――」
前髪を撫でていたマルファスの指が、再び女神アテナの白い首を再び猛烈に締め上げた。
「……ッ……」
女神アテナが苦しそうに呻き声をあげた瞬間――
マルファスの後頭部にティナの投じた瓦礫の欠片が直撃する。
しかし、マルファスがそれを気に留めることは無かった。
それどころか、細首を締め上げる両手へと更に力を込めていく。
「……憐れむのはお前ではない…………私だッ!」
憎しみと怒りの宿った絶叫。
正気の沙汰ではない。
既に空間に満ちた魔力量は常人であれば身に浴びるだけで卒倒する濃さへと達している。
空間に在るのは恐怖そのものといえた。
ましてやマルファスの吐き出す言葉の何一つを理解できないティナにとってはなおのこと。
「――――」
あまりの恐ろしさに、ティナは元から力の入っていなかった足腰が震えだしたのを自覚した。
いまだかつて経験したことのない痛みと、恐怖。
それでもこの状況をなんとかできるのは、自分だけ、という絶望的な現実。
しかし既に理解してしまっていたのだ。
自分ではどうしようもないことを。それをティナは理解している。
ならば、ここで止まるのか。
「くっ……そっ」
ティナは鼻からだらりと零れ落ちてくる血をそのままに、再びマルファスの元へと足を引きずりながら向かっていく。
「ッ……く……」
一歩足を進める度に、全身にはしる痛みはティナにとって耐え難いものだった。
ティナ・バレットは公爵令嬢である。
本来であれば、ルナ・フレイムのように守られる側の人間といえる。
しかし、自らの目標であり実の姉であるセレナ・バレットの背を追うようにして魔法騎士学園への入学を決め、そして今日まで多くの鍛錬を積んできた……はずだった。
「……うッ」
ティナの瞳から涙があふれだす。
痛みには強くなったと思っていた。
恐怖に打ち勝てる精神力が育ったと思っていた。
しかし、これは――あまりにも耐えがたい。
痛みも、そして自らが守らなければいけない存在を害されている現実も。
そしてティナは思うのだ。
もしここにいるのが、自分では無かったなら、と。
(……ユノ……ロイド様…………おねえ様)
マルファスの身からあふれ出す魔力。それが風となり、ティナを押し戻すようにして吹き荒れる。
それでもティナは進むことをやめなかった。
「やめ……ろ……ッ!」
歯を食いしばりながらそう口にして、ティナは震える腕を伸ばした。
「……」
マルファスの赤い瞳がようやくそれを認知する。
自らの右腕をつかむ、その小さな手を。
痛みなど、皆無だった。
事実、こうして腕を掴まれていたことにすらようやく気付いたほどだ。
瞬間。
――『弱い者をいたぶる趣味はありません』
マルファスの記憶のふちで、その言葉が再生された。
「……ふふっ」
思わず漏れる、笑い声。
マルファスは一度、苦し気に歪む女神の顔をじっと見つめた後、立っているのがやっとの様子のティナに背中越しに視線を移して口にした。
過去、自らに向けて放たれたその言葉を。
「……弱い者をいたぶる趣味は……ありません。それでも向かってくるというのなら――」
マルファスの顔に、歪な笑みが灯る。
「容赦はしない……」
マルファスは女神アテナの首をしめていた左手を、自らの右腕をつかむティナの腕に重ねるようにして置くと――握りしめた。
「うああぐッ――」
ボキリと鈍い音が確かに鳴った。
ティナの朦朧としていた顔に、はっきりとした苦悶の表情が浮かぶ。
マルファスの握力は容易にティナの腕の骨をへし折った。
「くッ、あ――」
痛み。猛烈な痛みだ。
瞳からあふれだしていく涙と、額、そして鼻から絶え間なく流れ落ちる赤い血。
それらが心底どうでもよくなるほどの痛み。
しかし、痛みでぐちゃぐちゃになっていく理性をこれでもかと強く保って――ティナは歯を食いしばる。
「は、な――せ――ッ!」
ティナの瞳に、恐怖と痛みに勝る意志が宿る。
その身からあふれ出す魔力は紫電となってティナの身を覆っていった。
――しかし、それがどうした。
というのがマルファスの正直な感想だ。
「言ったはずだぞ。小娘。容赦はしない、と」
そう口にして、マルファスは鼻で笑う。
――刹那。
「……ッ」
マルファスの顔。
それが微かに、されど確かに歪む。
同時に、ティナは痛みを忘れて大きく目を見開いた。
時間が止まったような錯覚すら覚えたほどだ。
「う――――ッ!」
ティナの瞳に映るのは、いまだかつてないほど必死に顔を歪めて、マルファスの左腕に歯を立て噛みつく女神アテナの姿。
「貴様――」
反射的にマルファスは、掴んでいたティナの腕を離すと、そのまま女神アテナの頬を手の甲ではたくようにして殴りつけた。
しかし――。
「ッ!」
女神アテナは、マルファスに噛みつくのをやめなかった。
美しい白い肌。整った顔。
そこにある鼻からどろりと血が滴り落ちる。
「ティナ……さん」
――小さな声が、女神アテナの口から紡がれる。
痛みを堪えているような必死な声色と共に、アテナの想いのすべてを乗せて――。
「にげ……て……っ!」
涙を貯めた女神アテナの赤い瞳。
そこに宿る強い意志はティナ・バレットをまっすぐ向いていて。
「ッ――――」
言葉の矢がティナの胸を貫いた。
それは痛みを忘れさせるほどの衝撃で。
(……逃げる? わたしが……?)
ティナの一瞬の迷い。その間にマルファスが動く。
「みっともない……どこまでも私を失望させるやつだよ……貴様はッ!」
自らの腕から引きはがそうと、女神アテナの長い白銀の髪を持ち上げるようにして掴み上げる。
「ッ……! ううううう!」
アテナを襲う激痛。
その赤い瞳からは、ぽろぽろと涙があふれだしていた。
「――――」
ティナの逡巡は終わりを告げる。
「やめてぇえええええぇ!」
擦れた声で絶叫し、自らの女神に倣うようにして、アテナの美しい髪を掴みあげるその腕に白い歯を突き立てる。
それでもマルファスは、女神アテナの髪から手を離さない。
「覚えているか? 貴様は言っていたな……ッ!」
マルファスは女神アテナの顔面を自らの顔の前に引き寄せるようにすると、同じ色をした赤い瞳をのぞき込むようにして口の端を吊り上げる。
「弱い者をいたぶる趣味はないと、凛々しくも貴様は言っていたなぁ!」
「ッ!」
そんな記憶は女神アテナにはありはしなかった。
アテナにとって、マルファスに会うのはこれで二度目のはずだ。
いいや、そんなことはマルファスとて知っている。
「私は違うぞ! 強い者が弱者を虐げるのは、当然の摂理だ! それこそがこの世界の真実であり現実だ! それを煮詰めて形としたのが……お前という存在だ!」
これは、意趣返しなのだ。
マルファスだけの。
マルファスという神だけが知り、望んだ清算の儀式。
「教えてやるぞ! 女神アテナ! 貴様という存在を――!」
言葉を吐く度、高まる衝動。
狂気と狂喜。
それらがマルファスの胸の内を満たしていく。
もはやそれは絶頂に近い感動だった。
野良神の正体を突き止め、この世界の真実に近づき、そして今、屈辱に塗れた過去を清算する機会が巡り来た。
天才としか言いようがない。自画自賛は尽きることがない。だがそれでいいのだと、自らをほめて褒めて褒めつくしてもまだ疼く。
甘く、そして輝く未来がマルファスには見えるのだ。
なぜならそれは――どうしようもなく事実だからだ。
マルファスだけだ。
形として同族の危機を救わんとしているのは、マルファスだけなのだ。
万が一、目の前の女神アテナのように名をもらい、力をつけていく野良神が増えたとするならば――。
「く――――ッ」
思考を重ねれば重ねる程、恐怖と怒りがこみあげていく。
それを率先して止めたのは己なのだ、という自負。
それはすなわち同族にとって、自らは英雄にもなり得よう――と。
決してアスタロトではないのだ、と。
ルシファーすらも気が付いていないかもしれない真実に己だけがたどり着いたと。
マルファスは更に女神アテナの髪を強く掴み上げる。
「貴様はな、女神アテナ!」
眼前で痛みに震える女神の姿。
興奮は高まっていく。
「一度死んでいるのだ!」
理解できないと、女神アテナのうるんだ赤い瞳が揺らぐ。
――興奮が高まっていく。
赤子のようだと、穏やかに瞳を閉じたままの女神を見て思ったのは果たして自分だったか。
どうでもいいが、その通りだ、と。
赤子なら教えてやらねばならないと。
それすらも己の宿命だと。
すべてを告げて、そして説明してみせて、それから――それから――
「貴様の正体はな! あの忌々しいゼ――」
――――――――。
それは果たして幻か。
ティナはゆっくりと目を見開いた。
宙を舞う、マルファスの腕。
目の前から突如として消えた女神アテナの姿。
「がぁぁッ!」
痛みに悶え膝をつくマルファスの姿。苦悶の声。
崩れ落ちていく天蓋。降り注ぐは月光。
そして視界のすべてが青白い魔力で満ち満ちていて――。
「……あ」
いいや、なにもティナの視界の中だけで変化があった訳ではない。
だれかに包まれているような。そんな温もりを背中に感じて。
そういえば後ろに倒れこんで、それから。
それを誰かが抱き留めてくれたのだと。
たしか、たしか。
――そんな気がして振り向いた。