102話 「月光 -Ⅰ-」
まるで深い眠りから醒めるかのような心地で、ティナ・バレットはおもむろに目蓋を開いた。
「…………」
まず視界に飛び込んできたのは、暗闇。
それから、水の滴る音が連続してどこからか聴こえてくる。
「…………?」
朦朧とする意識の中で、ティナは横にうずくまった格好のまま、周囲に視線を静かに巡らせた。
視線の先々にある無機質な灰色の壁。
それをどこからか差しこむ銀色の光が、照らし出している。
「…………ここ、は」
寝ぼけたような声で、思わずそう口にしてすぐ――
「――ッ!」
声にならない小さな悲鳴をあげながら、ティナは自らが置かれている状況を朧げに理解した。
衝動的に立ち上がろうと力を込めた腕を、少しの間震わせてから、ティナは再びうずくまるようにして硬く冷たい地面へと静かに頬をつける。
少なくとも、今、感情に身を任せて行動するべきではない、という思いでの行動だった。
(…………)
心臓の音がうるさい程に高鳴っていくのが分かる。
先ほどまでのまどろみが嘘のような緊張を全身にまとわせながら、ティナは浅く呼吸を繰り返して自らの記憶を手繰り寄せるようにして回想する。
――なぜ、私はここにいるのか。
その答えは、容易に想像がついた。
覚えているのは、怖いほど美しいと感じた夕暮れの空。
それから、突如として目の前に出現した大きな黒い穴。そこから這い出るようにして伸びてきた黒い腕が女神アテナへと向かっていって。
それから――それから――。
「……ッ」
その先をどれだけ思いだそうとしても、ティナの記憶はそこで終わっている。
「はぁ、はぁ」
止まらない悪い想像と共に、荒くなっていくティナの呼吸。
同時に、思い出したかのように徐々に痛みを増していく首筋を手でおさえながら。
(――アテナ様)
ティナは横にうずくまった格好のまま、再び周囲へと視線を走らせた。
何者かに連れ去られた。
その予測が事実だとして、自分の他にもこの場に連れ去られている可能性が十分に考えられる。
女神アテナとアリス・ローゼ。
二人の姿を探して彷徨っていたティナの視線は、ある一点向いたままピタリと止まった。
ティナの瞳が、時間の経過とともに大きく見開いていく。
仄暗い空間に差し込んだ月の光。
それに照らし出されるようにして、探し求めていた女神の姿がそこにはあった。
「……アテナ様ッ!」
天上から吊るされるようにして伸びる銀色の鎖。そこに手首を束ねるようにして繋がれた女神アテナの姿を一目見て、ティナは足をもつれさせながらも走り始める。
しかし――。
「――――」
その歩みはもう一つの人影を視界にとらえてすぐに、ピタリと止まった。
吊るされるようにして繋がれた女神の姿。
その奥。暗闇の先。
その男は優雅に椅子に腰かけたまま小さく一度ため息をつくと、うっとうし気にティナを一瞥して目を細めた。
「あ、え……?」
混乱し熱くなっていくティナの頭の中とは対照的に、マルファスがティナへと向ける視線は酷く冷たいものだった。
「……眠っていればよいものを」
心底面倒だと、そう吐き捨てて、マルファスは眼前の卓上にあった赤いワインの入ったグラスを一口あおると、眉をひそめたまま瞳を閉じた。
訪れたのは静寂。
ティナは自らの心臓の鼓動を耳の奥で聞きながら、ただただ、呆然とするしかない。
状況が正確に掴み切れない、という事もあるが、それよりも――。
(マルファス……さま?)
視界の中にある情報。その理解が追い付かない。
吊るされた女神アテナの姿と共にある英雄神の存在。
状況含めそれが意味するものが分からない程、ティナは馬鹿ではない。
いいや、思い返せば、今に至らずともマルファスに対しての不審がティナの中にあったのだ。
しかし――それでも。
そう容易に決めつけることができないのもまた、事実。
この世界においての英雄神とはつまり、秩序の源にして絶対の存在なのだから。
それを公爵令嬢であるティナは人一倍理解していた。
「……」
緊張で強張っていく体。
ティナは生唾を飲み込むようにしてから息を小さく吐き出すと、その場へ傅くようにして膝をついた。
震える身体を、必死におさえながら。
「……マルファス様。不躾ながらお尋ねしたいことがございます」
足元に視線を置いたまま、ティナは最初そう切り出すようにして小さな声で口にした。
「…………」
無言の返答。
マルファスは未だに瞳を閉じたままでいる。
「……ッ」
ティナは歯を食いしばるようにして顔をあげた。
その眼は鋭い光を宿してまっすぐマルファスをとらえている。
「……ここで、なにを?」
ふつふつと燃え上がる怒りを必死に堪えながら、絞り出すようにしてそう口にしてすぐ。
「……ふっ」
マルファスは鼻を鳴らすと、心底面倒くさそうにティナへと視線を送った。
「逆に問うが、オマエの眼には……私が何をしているように映っている?」
「…………」
ティナは押し黙るようにして閉口した。
それを知りたくて、問うているのだ――などと口にすることもできないまま、ティナは再び足元へと視線を落とす。
その時だ。
「…………愛でているのだ」
マルファスの声が、木霊する。
「……」
ティナは小さく目を見開いたまま、ゆっくりと顔をあげた。
その表情には驚嘆と、恐怖が入り混じっている。
「無くなったはずの古い絵画を眺めている気分でな……心底、憎たらしく思うよ。しかし、存外私の目は正直でね」
マルファスはワイングラスをあおると目を細めた。
その視線の先には、月光に照らされた囚われの女神の姿が。
「……素直に美しい、とも私は思う。…………小娘」
マルファスの赤い瞳が、ティナを向く。
「お前もそうは思わんか?」
どこか恍惚とした色を宿して紡がれたその言葉に、ティナは背筋を凍らせた。
この状況で美しいなどと、思っていいわけがないのだ。
しかし、女神アテナの神性か、はたまた月光に照らされたその白銀の姿のせいか。
乱れて頬にかぶる白銀の髪。
身に纏う衣服からのぞく、透明感のある白い肌。
鎖につながれた女神アテナの姿は、狂おしい程に背徳的で――美しかった。
「そんなこと――」
唇を噛みしめながら下を向くティナの姿を見て、マルファスは歪に口の端を吊り上げる。
「よい。それで良いのだ。何を恥じることがあるという? そこに繋がれているのは女神なのだぞ? 美しいのは当然ではないか。そうでなくては力の無い矮小な存在が、神などとは呼ばれまい」
マルファスはおもむろに椅子から立ち上がると、足を進めた。
コツコツと硬い足音が木霊する。
「野良神、などというモノに成り下がってもこうなのだ。ふふ……ははは。……本当に大したものだ」
言ってマルファスは女神アテナの元までくると、その美しい白銀の髪を掴み上げて――
「――虫唾が奔る」
深淵から発せられたような低い声と共に、その表情に狂気を灯した。
「何をしてッ!」
ティナの怒声。
マルファスはすかさず言葉を続ける。
「茶番はよせ。ティナ・バレット。お前とて気づいているはずだ」
「……ッ! なんで……なんであなたが、神様を……アテナ様を!」
「ふふ……理由、か。ああ。たしかに。分からぬだろうなお前には」
マルファスの右手。その指が女神アテナの白く細い首を締め上げる。
「アテナ様ッ!」
「ふふッ、ははははッ。愉快だ。あの女神アテナの命に指をかけている……! 私がだッ! 同族の誰も気づかぬことに気づき! そうして今、私は英雄になる資格を得ようとしている! 他の誰でもない! 私がだっ! やつらの驚いた顔が目に浮かぶぞ!」
「……ん……っ」
小さく漏れ出したその苦し気なうめき声を、ティナ・バレットは聞き洩らさなかった。
「……ッ!」
激情に身を任せ、地面を強く蹴り上げて疾走を開始する。
その手に普段から愛用している槍は無い。得物がこの場にないことなどティナはとっくに知っている。
つまりは徒手での攻撃。
その十分な心得をティナは有していない。
しかし――それでも――。
「雷の一閃」
普段であれば槍で繰り出すその技を、拳に乗せて。
疾走するティナの身を覆う青白い雷の光が、暗闇を明るく染め上げていく。
その速さは、雷の名に恥じぬ形を以て――。
「つあぁらぁぁぁぁぁぁ!」
咆哮。
ティナ・バレットは自らの女神を救うべく、英雄神へと拳を振りおろした。
――――――――――――――――――――――――――――――
英雄神へと攻撃を繰り出す。
その意味をティナ・バレットは十分に理解している。
公爵令嬢といえど。どんな理由にせよ。歯向かえばどうなるかを理解している。
しかし、それ以上に自らがすべきことをより強く、理解していただけ。
――頑張り屋さんの女神様。私の契約した女神様。
そんなアナタを救えるならば。
そう。理解していたから。信じていたから。
後悔はなかった。
「………………」
振り下ろした拳は、マルファスに届くことなく。
気づいた時には、ティナ・バレットは石造りの壁に背中から激突していた。
穿たれたその穴に、背中を預けるようにして、ティナ・バレットは朦朧とした表情で叫び続ける。
「……ま」
否――それはもはや叫び声と言うにはあまりにも弱々しく、ただ息の音がかすれて聞こえるだけだ。
おぼつかない視界の先では、首に手をかけられたままの女神の姿が。
「あて、な……、ま……」
何度も女神の名を口にして、細い腕を前へと伸ばす。しかし、ティナ・バレットは額から赤い血を流しながら、浅く弱々しい呼吸を繰りすのが精いっぱいだった。
横で結んでいた髪は既にほどけ、その綺麗だった赤い髪も、酷く傷んで汚れている。
ただの一撃でこうなのだ。
ティナ・バレットは自らが負った傷以上に、そのあまりの戦力差を悲観していた。
そんなティナ・バレットを眺めながら、マルファスが鼻を鳴らす。
「馬鹿な小娘だ。黙ってみていればいいものを。……運がなかったな。そもそも私は別にお前など……ああ。いや。お前がこの場にいたというのも契約のうち、か。」
その言葉を朦朧とする意識の中で耳にしながら、ティナは願った。
――私では届かない、と知ったから。
――私では神様を助けられない、と理解したから。
ティナは、涙をあふれさせながら、脳裏に浮かばせたその少年の名を口にする。
「ユ……ノ」
「たすけ、て」